宮沢賢治の『猫の事務所』に出てくる「かま猫」が仲間に嫌われるのはいつも薄汚れているせいだった。寒がりなのでいつも竃(かまど)にもぐり込んではススだらけになってしまう▼寒がりには訳があった。「なぜそんなに寒くなるかといふのに皮がうすいためで、なぜ皮が薄いかといふのに、それは土用に生れたからです」▼そうか、暑い盛りの夏の土用生まれだったか。二十日が土用の入りだったが、この暑さを思えば、気の毒な「かま猫」がいつもの年より増えそうな気配である。連日の猛暑である▼昨日も全国各地で三〇度を大きく超えている。もはや驚かない。週末に訪れた北海道富良野市も三〇度近く、ちょっと歩けば汗だくに。「北の国」も東京とさほど変わらない。子どものころは「宿題は涼しい午前中に」とよく言われたのだが、なんのなんの、最近の夏は朝から暑く、エアコンなしでは宿題をやる気にもなるまい▼土用と「かま猫」の話に「猫は土用に三日鼻暑し」を思い出した方もいるか。いつもは冷たくしっとりした猫の鼻さえ、夏の土用の三日間に限っては熱を持つという言い伝えだが、今がその時季なのだろう。週の後半からとびきり暑くなるとの予報もある。熱中症対策をさらに強化したい▼「土用十日後先照れば豊年」。土用の暑さは豊年のしるしとはいうけれど、この夏はどうも遠慮というものを知らない。
米作家、スティーブン・キングの小説にクリスティーンなる女性の名を与えられた車が意思を持つようになり、人を襲うという話があった▼車に名を付ける人はときどきいらっしゃる。車種とは別にわが子のようにオリジナルの名を与え、大切にする。おんぼろのワーゲンをなぜかポチと呼んでいた友人を思い出す▼名を付けるほど車をかわいがる人は少なかろうが、長く付き合えば、自分の車への思いが深くなるのは確かで、車を手放す際、友との永の別れのように寂しく感じることはある。悲しみも喜びも分かち合った家族の一員のように思えてくる▼家族が傷つけられた気になる。中古車販売大手のビッグモーターが損害保険各社に自動車保険の保険金を不正請求していた問題である。お客さんから修理で預かった車をわざと傷つけ、修理費を水増ししては保険金を不正に請求していた▼売り上げに目がくらみ、商売物の車への愛情を忘れたか。やってもいない修理をやったといい、ドライバーなどで車を傷つけ、ゴルフボールを詰めた靴下で車をたたいたとはあきれる。「ビックリモーター」とでも名を改めた方がよい▼エンジンの具合など複雑な車の状態が分からない顧客側は業者を信用して車を預けるしかない。その信用を裏切った。徹底的な調査と再発防止の取り組みを願う。クリスティーンがアクセルを踏み込む前に。
山本周五郎の短編集『赤ひげ診療譚(たん)』に心を病んだ妊婦の話がある(「氷の下の芽」)。心の不調は実は演技である。妊婦の両親というのが悪らつで、わが子を幼いうちから働かせ、その金を当てに仕事もせず、酒を飲み、うまいものを食べていた▼妊婦は心を病んだふりをすれば、この親に「身を売られずに済む」と考えた。事情を知った赤ひげの新出去定(にいできょじょう)の剣幕(けんまく)がすさまじい。子が親に尽くすのは当然と開き直る母親をしかりつける。「酒浸りになるために子を売る親はない」▼この一件は赤ひげの耳に入れたくない。小学三年の娘に食事を与えず、ケトン性低血糖症で入院させては共済団体から入院共済金をだまし取っていた母親が大阪府警に詐欺容疑で逮捕された▼娘を低血糖症にするためか、入院直前の三日間は七百キロカロリーしか与えていなかった。三日間で必要とされるカロリーのわずか13%。食べたい盛りの子どもにはどんなにつらかったか。下剤も飲まされていたという▼ケトン性低血糖症はけいれんや嘔吐(おうと)を発症し、意識障害を引き起こす危険もある。わが子にひもじい思いをさせた上、そんな危ない状態に追いやるとは母親の了見がどうにも分からぬ▼よほどの事情があったかと想像したが、受け取った共済金は外食費やエステ代に充てていたと聞く。中っ腹を通り越して、人の欲というものが悲しく、恐ろしくなる。