週に二、三度パンを買いにくる男がいる。買っていくのは古びた安いパンだけ。裕福には見えない▼パン屋の女主人はこの男がだんだん好きになる。ある日、男の古いパンにバターをこっそり塗って渡す。しばらくして男が店に戻ってくる。「なんてことを」。怒っている。男は設計士。古いパンを消しゴム代わりに使っていた。バターのせいで設計図は…。オー・ヘンリーの『魔女のパン』である▼小学生のときに読み、こんな物語が書きたいと思ったそうだ。映画『怪物』でカンヌ国際映画祭の脚本賞に選ばれた脚本家の坂元裕二さん▼おせっかいが引き起こす騒動は滑稽かもしれないが、物語をかみしめれば、女主人の孤独やわかり合えぬ人間同士のもどかしさがにじみ出てくる。人の悲しさを静かに見つめる坂元作品と同じにおいがする▼脚本を書くにあたってプロット(筋立て)をあらかじめ作らず、代わりに登場人物の細かい「履歴書」をまずこしらえるそうだ。どんな子ども時代だったか。どんなことが嫌いでどんな癖があるのか。魅力的で奥行きのある人物を描く秘訣(ひけつ)だろう▼「泣きながらご飯食べたことある人は、生きていけます」(『カルテット』)。坂元ファンには有名なせりふである。十九歳でデビュー。が、一時、脚本から離れている。快挙の裏にこの人自身の「泣きながらご飯」の「履歴書」を想像する。
国王が絶対的な権力を握った昔、国王の借金はよく踏み倒された▼王は自ら法廷を開き、借金の棒引きができた。返さずに死に、後継者が「そんな金は知らぬ」と言うことも。デフォルト(債務不履行)もある王の信用力は低く、貸す商人は金利を高くした▼英国では十七世紀の名誉革命で議会が王に対し力を持ち、国王の借金は議会の承認が必要に。借金のたび、利払いのための税導入を議会が求めた。国王の借金は私的債務から公的債務になり低利に。これが英国債の誕生で、王の横暴を許さぬ議会が信を与えた。富田俊基氏の著書『国債の歴史』に教わった▼米政府の借金を巡るバイデン大統領と議会の対立は収まるだろうか。大統領は法定の借り入れ上限引き上げを議会に求めるが、下院多数派の野党・共和党が抵抗。このままでは政府の資金が枯渇し、米国債のデフォルトの恐れもあるという。借金を法で縛る民主的制度も扱いを誤ると国を危うくするらしい。共和党は政権の目玉政策を含む歳出削減を条件に掲げるが、折り合えるだろうか▼名誉革命を経た英国は後にナポレオンのフランスとの戦争に勝つが、背景には低利の国債で戦費を確保できたことがある。王を制御できぬ体制が長く続き、デフォルトが頻発したフランスと信用力に差があった▼国債の信なくして、覇権も握れぬということだろう。米国は大丈夫か。
「石つくりの皇子(みこ)には、仏の御石の鉢といふ物あり。それをとりてたまへ」。『竹取物語』でかぐや姫が結婚に応じる条件を示す。五人の求婚者に「宝」をそれぞれ指定し、取ってきた人と結婚すると宣言する▼難題である。仏の御石の鉢、蓬萊山にある根が銀で茎が金で白い玉の実のなる木の枝、龍の首に五色に光る玉、火鼠(ねずみ)の皮衣、燕(つばめ)の持つ子安貝−。かぐや姫に結婚する気はなく、難題で結婚の申し込みを断ろうというわけである▼一刻も早い核廃絶を願う人々にとって、その文書がかぐや姫の出す条件のように見えるのだろう。先進七カ国首脳会議(G7広島サミット)で採択された「核軍縮に関する広島ビジョン」である▼核兵器のない世界を追求する方向性を示す一方で文書には核廃絶への条件が並ぶ。「全ての者にとっての安全が損なわれない形で」「現実的で」「実践的な責任あるアプローチ」−▼核保有国は不安定な安全保障環境の中で核兵器を手放したくない。核廃絶には現実的で実践的な方法が必要なことも理解するが、その条件めいた表現が核廃絶に向けたG7首脳の熱を疑わせてしまうところもある。文書には核兵器には戦争抑止の役割があると認めてしまっているような表現もある▼どうあっても核兵器を世界からなくす。その理想と決意を聞きたかったはずだ。被爆地広島はそれがもどかしいのだろう。