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今日の筆洗

2017年04月30日 | Weblog

 米映画「卒業」の封切りは一九六七年というから今年で五十年である。サイモンとガーファンクルの主題歌を思い出す方もいるだろう▼結婚式当日の教会から花嫁を連れ去るダスティン・ホフマン。間違った結婚であることに気づき、その手を取ってともに逃げるウエディングドレスのキャサリン・ロス。有名なラストシーンである▼バスに飛び乗った二人は逃げ切ったことにはしゃぐ。だが、やがてその笑い顔が消えていく。言葉もなく、正面をじっと見ている。二人の表情に浮かぶのは、これからどうなるのかという不安と、おそれである▼あの場面が浮かんだのは大統領就任からの百日間が「ハネムーン」と呼ばれるせいか。トランプ米大統領が就任から百日目を迎えた。トランプ政権には当てはまらぬようだが、この期間、議会、メディアも批判を手控える傾向があるため「ハネムーン」という▼あの映画ではないが、最初は威勢の良いスローガンを口にしていた大統領もこの百日間で実際の政治の難しさを痛感し、とまどっているのではないか。支持率は低迷。百日以内に実現すると宣言した公約の大半は日の目をみない。シリアへのミサイル攻撃には驚いたが、その「力による平和」とて先行きは見えない▼ハネムーンは終わった。それでもバスは走る。これからどうなるのか。不安を抱えているのは乗客の方である。


今日の筆洗

2017年04月29日 | Weblog

「空」という字は、小学校一年で習う八十の漢字の一つだ。「母」という字は、二年で習う百六十字のうちの一つ。どちらも、この世界を成り立たせているものを表す大切な字だ▼ちょっと、想像してみていただきたい。私たちが漢字を覚え始めたばかりの子どもだとして、この二つの漢字の組み合わせを見て、どんなものを表していると思うだろうか。「空母」という二文字の意味である▼空の母。何かやさしい、のびやかなイメージがふくらんでいくような二文字だ。きっと、けんかやいやなこととは無関係の、すてきなことを表す言葉じゃないか、と思うのではないだろうか▼しかし、現実の「空母」は、航空母艦の略である。いま日本周辺では、この二文字が鋭い緊張感をはらんでいる。米軍の司令官は、原子力空母カール・ビンソンが「北朝鮮への攻撃射程内に入っている」と言った。中国は、アジアの海と空を制する力を得ようと、初の国産空母を進水させたという▼「雲母」と書けば、別名「きらら」とも呼ばれる鉱石。「水母」なら、水月、海月とも書かれる海の舞姫クラゲ。「空母」も、そんな自然の美しさを言い当てる名詞であってほしかったが、その二文字が産むのは、灰色の重苦しいイメージである▼<屋上に洗濯の妻空母海に>は、金子兜太(とうた)さんの句。「空母」の空と母の字が、悲しそうに見えないか。

 
 
 

今日の筆洗

2017年04月28日 | Weblog

 宮城県東松島市の野蒜(のびる)小学校の体育館は、その時、洗濯機のようだったという。大きな揺れの後、体育館には児童や住民ら三百人ほどが避難していた。そこを津波が襲ったのだ▼ピアノも人も津波が生んだ渦にのまれた。三人の子とともに避難していたお母さんは、死を覚悟した。だが、十二歳の長女の姿を見て、われに返った。まるでラッコのように、巧みに水面に浮かんでいたからだ▼あおむけになって手足をばたつかせず、靴の浮力を生かすため両足を大きく広げていた。肺の空気が減らぬよう、お母さんの呼び掛けに返事をしたのは、一回だけ。学校で教わった「着衣泳」を実践していたのだ▼野蒜小の体育館では住民ら多くの命が失われ、きのうは仙台高裁で学校の避難誘導のあり方についての判決があった。問うべき責任や学ぶべき教訓は多々あろうが、着衣泳指導がなかったなら、さらに犠牲は大きくなっていたかもしれない▼水難学会の斎藤秀俊会長によると、着衣泳を学ぶ小学校は八割ほどになった。その成果か、中学生以下は水難に遭っても助かる率が八割になった。しかし大人はまだ四割ほど▼「子どもは助かったが、親は助からなかった。そんな悲劇を防ぐために、水の季節を前にPTAの行事として親子着衣泳教室を開いてはどうでしょうか」と斎藤会長は提案する。「親子でラッコに」の勧めである。


今日の筆洗

2017年04月27日 | Weblog

 <捨てる。/捨てない。/忘れる。/忘れない。/戻る。/戻れない。/帰りたい。/帰れない。/遠い。/近い。/どうする。/どうしようもない。/陽炎の/向こうに。/ゆれて見える。/わが故郷。>▼これは、福島県相馬市に住む根本昌幸さん(70)の詩集『荒野に立ちて』に収められた詩「わが故郷」だ。その故郷・浪江町は原発事故で全町避難を強いられた▼今春、避難指示は解除されたが、家は荒れ、先祖代々耕してきた田に汚染土を詰めた袋が積み上げられている。捨てる。捨てない。戻る。戻れない。この一つ一つの句点に、区切ることができない心の揺れが凝縮しているのだ▼だが、句点一つの重みも分からぬ人が復興相を務めると、こんな言葉が飛び出す。「古里を捨てるというのは簡単」「(震災が起きたのが)まだ東北で、あっちの方だったからよかった」▼ついに辞任に追い込まれたが、自民党の幹事長が「人の頭をたたいて血を出したっていう話じゃない」と擁護するような発言をしたという。時に刃物より危険な言葉の力が分からぬのなら、言論の府にいる資格が問われよう▼根本さんは、こういう詩も書いている。<人が人を/虫けらや獣のような/扱いをしたとき。/言葉はすくっと/立ち上がるだろう。/そして人に向かって行くだろう…>。政治に求められるのは、そんな言葉ではないのか。


今日の筆洗

2017年04月26日 | Weblog

 共生とは何か。動物生理学の研究者・本川達雄(もとかわたつお)さんは、近著『ウニはすごい バッタもすごい』(中公新書)で、こう定義している▼<異なる二種の生物が、同じ場所で互いに緊密な結びつきを保って生活していること>。共生することで、どちらの種も利益を得ることを「相利共生」と呼び、一方のみが利益を得れば「片利共生」と呼ぶそうだ▼その相利共生のすばらしい例が、サンゴと植物プランクトンの一種・褐虫藻(かっちゅうそう)の支え合いだという。サンゴは褐虫藻が安全に暮らせる丈夫な家を提供している。サンゴが動物なのに樹木のような形をしているのは、褐虫藻が光合成をしやすくするためだ▼褐虫藻が光合成でつくりだした酸素や栄養を使ってサンゴは生き、サンゴが吐き出す二酸化炭素などを使い褐虫藻は生きている。この絶妙な共生こそがサンゴ礁の豊かな生物多様性の礎(いしずえ)となっているのだ▼そういう豊かな海の中でも、日本生態学会や日本魚類学会など十九の学会が「我が国で最も貴重な海域の一つ」「世界に誇るべきもの」として保全を求めたのが、沖縄の大浦湾だ。だが、そこに基地を造るための埋め立て工事がきのう、始まった▼安倍首相はかつて国会で、日本全体を「多様性を尊重する共生社会に変えていく」と語っていたが、首相が言う共生とは、どんな意味なのか。潰(つぶ)されゆく「共生の海」は何を物語るか。


今日の筆洗

2017年04月25日 | Weblog

 その昔、寄席の楽屋に一枚の紙が張ってあったそうだ。題は「噺家(はなしか)売れる秘訣(ひけつ)五カ条」。一九六〇年代か。内容は、一、素人口調であること、一、内容は支離滅裂にすべきこと、一、ちゃんとした噺をやらぬこと-等▼若手への助言か皮肉か。いずれにせよ、秘訣には若くして人気となった風変わりな二人の噺家が念頭にあったかもしれぬ。一人は林家三平さん、もう一人はおととい亡くなった三遊亭円歌さんである。八十五歳▼自分で異端児とおっしゃっていた。人気に火が付いたのは、「山のあな」の「授業中」や「浪曲社長」などの新作落語。当時の一部にはそれが素人口調に聞こえ、売れたい、人を笑わせたいだけの芸に見えていたかもしれぬ。それでもそのてらいのない、まっすぐな笑いこそが長きにわたって日本人のおなかをよじらせた。落語界の間口を広げた▼真偽の定かでない逸話で知られるが、これは本当であってほしい。若い時、芸に苦悩し、大阪へ逃げた▼一時帰った東京の電車の中で師匠の先代円歌とばったり出くわす。先代は怒らず「明日遊びにおいで」。その優しさに発奮し、落語の新たな可能性を模索するきっかけとなったそうだ▼黒門町(桂文楽)、稲荷町(林家彦六)…。住む町名で声の掛かる噺家も減った。もう「中沢家の人々」は聴けないのか。「麹町!」。「山のあなた」に声を張る。


今日の筆洗

2017年04月24日 | Weblog

 次の率直な文では人を傷つけてしまいます。もっと遠慮がちな文に改めてください。例題その(1)「彼はいやなやつなので、私は付き合いたくない」▼「バカに見られないための日本語トレーニング」(樋口裕一さん・草思社)から引いた。かつての日本人といえば、本音と建前を巧みに使い分ける国民性で知られていたが、最近はそうでもないのか。とりわけSNSの短い文章に慣れた若い人はまどろっこしい婉曲(えんきょく)表現が苦手なようで、この手の指南本が重宝されているらしい▼答えの例としてこんな言い換えがあった。「彼のような人物と付き合ったことがないので、うまくやっていく自信がない」。元からすれば、半分以上ウソになっている気がしなくもないが、確かにこの言い方ならさほど波風は立つまい▼こっちは「本音」に関する話題か。米国のフェイスブックが指や声を使わず頭に思い浮かべただけで文字を入力する新技術を開発中と発表した▼実現すれば、指より五倍速く入力できる。助かる人もいるが、頭に浮かんだだけでというところで例題その(1)を思い出し、ひるみもする▼無論、頭の中で婉曲表現を使った文を作成すれば、よいのだろうが、感情むき出しのおそろしき文をつづることになるまいかと実用化のめどさえない研究に気をもんでしまう。実用化されてもたぶん永田町界隈(かいわい)では怖くて導入できないか。