英語の歌詞が日本語のように聞こえることがしばしばある。洋楽の「空耳」というやつで、英ロックのクイーンのファンなら思いつくのは「キラー・クイーン」の歌詞にある「ガンパウダー ゼラチン(gunpowder gelatine)」。火薬とゼラチンという意味だが、「がんばれ、タブチ」と聞こえる▼「アライさんとこの、ゴムホース」。これも古い「空耳」で、歌った方もいるか。曲は「バナナ・ボート」(一九五六年)▼同曲などで知られる米国の歌手のハリー・ベラフォンテさんが亡くなった。九十六歳。滑らかで力強い歌声を思い出す日本のファンも多いだろう▼最も成功したアフリカ系米国人歌手と呼ばれる一方、六〇年代の公民権運動に取り組み、キング牧師を資金面でも支えた。八〇年代にはアフリカ貧困救済のチャリティーソング「ウィ・アー・ザ・ワールド」の提唱者にもなった▼「アーティストがいつ社会運動家になったのか」としばしば問われた。「アーティストになる前から社会運動家だった」と胸を張る人だった▼「バナナ・ボート」はバナナの荷役を嘆く労働歌である。「アライさんとこの、ゴムホース」と聞こえる部分は「daylight come and I want go home」(日が昇る。オレは帰りたい)−。米国を歌声と行動で輝かせた大きな日が沈んでいく。
第二次世界大戦の直後、旧満州(中国東北部)にいた俳優の森繁久弥さんが当時のことを書いている。略奪、暴力が続く、混乱の満州から誰もがわれ先に日本に帰りたいと願ったが、森繁さんは満州にいるすべての日本人を送った後、「最後の船」で帰ろうと考えたそうだ▼「私が心から愛した、この国土を(略)、この赤い朝日の満州を去るのに、何を急ぐのか」。危険はある。それでも森繁さんは七年間、住んだ満州を離れることが「哀(かな)しかった」という▼どんな思いで首都ハルツームを離れたのだろう。戦乱のスーダンにいた邦人とその家族が自衛隊機で周辺国ジブチに退避した▼停戦合意さえ十分に守られぬ中、まず陸路でハルツームから約八百キロ離れたポートスーダンに移動したそうだ。陸路とは怖かっただろう。退避作戦がひとまず成功したことにこちらもホッとする▼住み慣れたスーダンの地を離れることに森繁さんと同じ気分になった人もいるかもしれない。現地での生活や友人との別れを寂しく思い、何よりも戦闘と荒廃の中にスーダンの行く末を自分の友のように心配した人もいるだろう▼政府は退避した人の希望に基づき日本への帰国を調整しているそうだ。「やっぱり、わが家が一番」。旅から帰った後、誰もが思う言葉か。日本の「わが家」に近づく一方で、スーダンの「わが家」のことも忘れられまい。
戦時中、滋賀県内の役場で召集令状「赤紙」の配達を担当していた男性宅に、既に何度も赤紙が来て息子たちが召集されていた父親がやってきた▼手土産は大きなコイ。「なんとか、もう自分の息子たちを召集しないでほしい」と頼まれた。自分は赤紙を配るだけで召集の人選はしていないと説明したが、気の毒で本当に弱ったという。徴兵を嫌がれば「非国民」と呼ばれる時代。父親も覚悟を決めての行動だったか。吉田敏浩氏の著書『赤紙と徴兵 105歳 最後の兵事係の証言から』にあった▼ウクライナ侵攻で兵員を確保したいロシアが令状の電子化を決めた。各種行政サービスを受けるために多くの国民が登録しているインターネット上の統一システムを通じ、令状が届くという▼従来の紙の令状は手渡しの必要があり、受け取りを避けようと行方をくらましたり、国外脱出したりする人が相次いだ。電子化された令状が個人のアカウントに届くと出国できなくなる。一定の期間内に徴兵当局に出頭しなければ、自動車の運転や不動産取引が禁じられるという。徴兵逃れを許さない強権発動に見える▼先の著書には、息子五人が次々と出征した家の話もある。赤紙を受け取った父親が「そうですか、また来ましたか」とうつむいて涙した時には、配達した側ももらい泣きしたという▼デジタルの世の冷酷さが際立つ感もある。