ウグイスの声は聞いたが、ホトトギスの声の時季にはまだ少し早いかもしれぬ。その鳴き声を言葉で表す聞きなしは「トウキョウトッキョキョカキョク」とか「テッペンカケタカ」▼言い伝えがある。ホトトギスはモズに何かの貸しがあるそうだ。だからあの鳴き方で「返済の餌を木のてっぺん(天辺)にかけたか」と、催促しているのだそうだ。<あの声で蜥蜴(とかげ)食らうか時鳥(ほととぎす)>。人は見かけによらぬものというたとえだが、その鳴き声自体もそうとは聞こえぬ厳しい取り立てだったとは▼そうとは聞こえぬ「甘い声」で子どもたちが犯罪被害者になっている。交流サイト(SNS)をきっかけとした性犯罪などの子どもの被害に歯止めがかからぬ。警察庁によると昨年一年間の被害者は千八百十三人と統計のある二〇〇八年以降で過去最悪である▼SNSで悩みごとを優しく聞くふりをして子どもに忍び寄り、揚げ句、淫行や自分の裸を送信させる「自画撮り」。幼き耳は甘い声のあくどい裏を見抜くことができない▼人を見たら泥棒と思えとは言いたくないが、ことSNSでの甘言蜜語に関しては絶対信じるなと子どもに教えるしかないだろう▼青森、岩手などでは「テッペンカケタカ」ではなく「アチャトンデタ」という聞きなしがある。「あちらへ飛んでいった」。犯罪被害のあちらの暗い空に子どもを近づけてはならない。
時間を自由に行き来できるタイムマシンを一回だけ使えるとしたら…。この手のアンケートをすると、だいたい、未来よりも過去を選択する人が上回るそうだ▼その人の年齢にもよるか。子どもたちはタイムマシンで自分の将来を見たがり、反対に大人は過去へと戻りたがると聞いたことがある▼確かに、ある程度の年となれば、時間旅行をするまでもなく、自分の将来は予想できるし、見たくもないという人もいる。そんな未来よりも過去の自分や、今は亡くなってしまった親や友人に会いたいというのはよく分かる。過去の失敗を「あの時」に戻ってやり直したいという人もいるか▼昭和の日である。法律の趣旨によると、「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」日らしい。暗い戦争にもかかわらず、近くて遠い昭和に心をくすぐられる人は多いだろう▼脚本家の山田太一さんが過去の魅力について書いている。人がタイムマシンで過去へ行きたがる傾向とも関係があるかもしれぬ。「ノスタルジーとは、過去のいいとこ取り」なのだそうだ。つまりは苦しいこと、悲しいことは忘れ、良いことだけを思い出し、昔は良かったとなるらしい▼きょう、昭和の「明」を懐かしむとしよう。同時に昭和の「暗」についても頭に置いておかなければ「国の将来に思いをいたす」ことにはなるまい。
止まった時計というものがある。例えば長崎。原爆の爆風によって、十一時二分で止まったままの柱時計は、記憶が薄れることへの警鐘のように、原爆の悲惨を伝え続ける。東日本大震災をはじめ、大きな災害にも時計はあった。二度と動かない針は取り返せないものの象徴だろう▼一九五三年に休戦協定が結ばれてから六十年以上、板門店も時が止まったような空間ではなかったか。軍事境界線は南北各二キロに地雷が多数埋まった恐怖の世界でもある。幅五十センチ、高さは五センチほどだろうか。軍事境界線の縁石を北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長は、簡単に越えた▼うれしそうに、韓国の文在寅大統領と手をつないで行き来するのを見て、針が動き始めたように思えた。南北を結ぶあの通路も、警備の人々の姿も、永遠に変わらない景色ではないかと感じていたが、世界に背を向けてきた正恩氏その人が「なぜこんなに時間がかかったのか」と話すのをニュースで聞けば、時代が変わるのかと感じずにいられない▼もちろん、これから順調に時が刻まれはしないだろう。非核化の具体的な道筋も明らかではない▼<本当の和解とは、ただ過去を忘れ去ることではない>。ネルソン・マンデラ氏の言葉だ。両首脳は笑顔を浮かべ続けたが、真の和解も、長く困難な道だろう▼そして、止まった拉致問題の時も、先に進むことを切に願う。
元号を改める理由の一つに、「災異(さいい)改元」があった。現行の「一世一元制」になる明治の前には百回以上あった。災害や戦乱、疫病の流行などを機に改められ、そのうち七回ははしかの流行が理由だったという(石弘之著『感染症の世界史』)。それほど厄介な病気だった▼子供の時に、注射を我慢して以来、あるいは熱を出して、寝込んで以来、はしかとは縁を絶ったと思っている人も多いのではないか。過去の病気であると。ところが、沖縄県で大人を含む七十人を超える感染者が出て、さらに増えている。愛知県でも、二けたに達した▼ワクチンの普及で、日本は三年前、はしかが排除されたと、世界保健機関から認定されているが、今回は外国からだという。二回打つ予防接種を一回しか打っていない人もいて、感染を完全に封じるのは、難しいようだ▼江戸時代には、「生類憐(あわれ)みの令」の将軍、徳川綱吉がはしかで死亡している。江戸だけで一度に二十万人以上が亡くなる大流行もあった。免疫が乏しい社会では、もともと死を招く怖い病だ▼物理学者の寺田寅彦の言葉をここでも思い出す。<ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしい>▼はしかが「若気の至り」や通過儀礼の例えになる現代でも昔の怖さをもう少し思い出したほうがいいのではないか。
歌は二番から先がいい。そんな説がある。昭和の流行歌を愛した演出家の久世光彦(くぜてるひこ)さんによると、一番の歌詞は、テーマに沿って、状況や登場人物を描写しないといけない。心情に深く立ち入るのはその先だから「しびれる文句」は二、三番にあるのだという▼挙げたのが西条八十作詞の名曲『蘇州夜曲』の三番だ。「船唄」「水の蘇州」「花散る春」など説明的な言葉が一番にあるのに対し、三番は<髪に飾ろか/口吻(づ)けしよか/君が手折りし/桃の花/涙ぐむよな/おぼろの月に/鐘が鳴ります/寒山寺>。好みはあろうが、味わいは深い▼二、三番がしびれる歌は確かに多い。同じ八十の詞で、昭和を代表する歌『青い山脈』。一番の詞の素晴らしさはそれとして<古い上衣(うわぎ)よ/さようなら>の二番により強くひかれる人は多いのではないか▼<雨にぬれてる/焼けあとの/名も無い花も/ふり仰ぐ>の三番は、一番と異なる趣がある▼世の中も二番から先がおもしろい。そう考えてはどうだろうか。会社や学校で、最初のひと月が過ぎるという若者の中には人間関係や職場になじめない人も多いはずだ▼顔を合わせてからの堅苦しい関係が終わって、人の味わいが見え始め、積み上がった仕事の中にやりがいを見つける時期だと考えては。古い上着を脱ぐように心の持ち方を少し変えてみる。「五月病」の薬の一つではないか。
仕事を「休まない」とか「無理をしてでも」という価値はその昔、たとえば、高度成長期に比べ、現在はずっと下がっているだろう▼悪いことではない。よい仕事をするためにきちんと休む。無理をして心身を壊しては元も子もない。「休まない」を否定する時代の方が間違いなく真(ま)っ当(とう)である▼記録は大阪万博の一九七〇年から始まり、バブル期の八七年まで。まだ「休まない」が美徳の時代である。今なおプロ野球記録であり続ける2215試合連続出場。偉業を成し遂げた広島カープのかつての強打者、衣笠祥雄さんが亡くなった▼七十一歳かとため息がでる。現役時代の「鉄人」の名に似合わぬ早い死が寂しい。ファンは赤き涙を流しているか。力強い打撃。堅い守備。足も速かった。低迷していたカープに黄金期をもたらした立役者。他球団を応援する少年には長いもみ上げのいかつい選手がどんなに怖かったことか▼「僕は野球が好きだから試合に出続けただけ。一日も休まず学校や仕事場に通う人の方がずっと偉い」。当時の言葉。骨折でも打席に立った。不調でも出場にこだわった。今なら考えられぬか。無意味なことというか。それでも鉄人の「休まない」「無理をしてでも」の強さと意地が、あの時代の休みにくかった日本人を確かに励ましていた▼さらば衣笠。古い市民球場にフルスイングの風の音が聞こえる。
四月にしてはずいぶん気温が高いと思っていたら、宮城県の気仙沼漁港では先週カツオの初水揚げがあったそうだ。例年よりかなり早い▼<初鰹芥子(がつおからし)がなくて涙かな>。江戸期の不遇の絵師、英一蝶(はなぶさいっちょう)。諸説あるが、生類憐(あわれ)みの令に触れ、島流しにあったときに詠んだ句と聞く。島にはカツオはあっても、カラシは手にいれにくかったか▼現在は生姜醤油(しょうがじょうゆ)などが一般的だろうが、江戸の当時は、カツオにカラシは付き物だったようだ。こんな小咄(こばなし)がある。カツオをカラシで食べようとしていた二人の男。「カラシは腹を立ててかかないと効かないぞ」「そんなに急に腹が立つもんか」▼そこへカツオ売りがやって来る。男の一人が一本は値が張るから片身だけ買おうという。カツオ売りはこれに応じ、半分におろすのだが、男は突然、「やっぱりやめた」。カツオ売りは怒りだす。「おろさせておいて、そんな話があるもんか」。そこで男、「おっと、カラシをかいてくんねえ」▼粉のカラシは怒ったように力強くかかなければ、効かないと子ども時分に教えられた世代もいるだろう▼今年のカツオには江戸っ子を気取って、カラシをかいてみるか。カツオ売りを怒らせるまでもない。森友、加計、イラク日報、セクハラ…。国会周辺を想像すれば、強力なカラシがかけそうである。効きすぎより情けなさで<涙かな>となるやもしれぬ。
Final Waltz | 2014 Euro STD | DanceSport Total
「健康のためなら、死んでもかまわない」。どなたが言い出したのか知らないが、よくできたジョークで、しかも深い。人は時に何が大切かを見失うものか▼矛盾、論理の破綻によって生み出される種類の笑い。こんなのもある。「私は同じことを二度言わない。もう一度言っておく。私は同じことを二度言わない」「絶対になんてことは絶対にないんだ」「確かに入会を申し込んだが、私の入会を認めるようなクラブには入りたくない」…▼「真相解明は大切。だが、ウソをつくのは認めてほしい」。国会の様子に思い付いた。ただし、笑えまい。「加計学園」の獣医学部新設をめぐる元首相秘書官の証人喚問要求。これを拒否する与党の態度はこのジョークそのものにしか見えない▼証人喚問で虚偽証言をすれば偽証罪に問われる。与党はそれが心配なのか証人喚問ではなく、偽証罪のない参考人招致で済ませたいらしい▼真相解明が目的だろうに証人喚問を嫌がる与党の姿勢を国民は理解できまい。そもそもその態度は与党でさえ、元秘書官がウソをつくかもと想定しているようにも映るだろう▼やみくもに証人喚問要求を乱発するやり方には慎重であるべきだが、元秘書官の説明には不可解な点が多すぎる。証人喚問で確認すべきだろう。まさか、「自民党総裁(首相)のためなら、自民党はどうなっても」ではあるまいに。