1本のギターを巡る伝説がある。夫を亡くしたお母さんには子どもが6人。稼ぎ手は自分だけで生活は楽ではなかった▼11歳になる息子の誕生日にプレゼントをどうしても用意したかった。お母さんは食堂の深夜勤務を増やし、お金をためたそうだ。プレゼントしたのは日本製エレキギターである▼少年はギターを「ブルー」と名付け、大切にした。やがて、そのギターと世界へと羽ばたく。諸説あるが、米ロックバンド「グリーン・デイ」のビリー・ジョー・アームストロングさんの物語である▼国産エレキギターメーカー、フェルナンデスが事業を停止し、倒産すると聞いて、この伝説を思い出した。お母さんが苦労して買ったギターがフェルナンデス製の中古だった▼中高年の音楽ファンは寂しかろう。高価な米国製フェンダーやギブソンなんぞは夢のまた夢。若者にもなんとか手が届いた国産のフェルナンデスを最初の自分のギターに選び、Fコードに必死で取り組んだ人もいるだろう。ビリー・ジョーのようにフェルナンデスでかなえた夢もある▼創業は1969年。ゾウの形をした小さなギターや布袋寅泰さんの愛用ギターを思い浮かべる方もいるか。最近は業績が芳しくなかったそうだ。なるほど、街でギターケースを抱えているのはオジサンばかりでエレキを持った若い人をあまりお見かけしない。これもまた寂しい。
ダンスパーティーに行くことになった少年。父親のシャツを借りることにしたが、袖口を留めるカフスがない▼母親が工具箱のナットとボルトを出してきた。これで袖を留めなさいという。少年は「いやだよ。ママ。みんなに笑われる」。母親は譲らない。「何か言われたらこう言ってやるの。こんなの持ってないだろって」。少年はその通りにした▼少年とはバイデン米大統領。大統領選からの撤退表明にこの逸話が浮かんだ。誰かに笑われても気にするな。そう教えられてきた人には無念の撤退だったに違いない▼トランプ前大統領との討論会での不振と、民主党内に高まっていた「バイデン大統領では勝てない」の声。大統領は不安と疑問のカフスを付けてでも選挙戦を続けたかっただろうが、最終的には意地よりもトランプ氏に再び政権を渡さぬ道を選んだのだろう▼これで民主党の候補選びは振り出しに戻った。副大統領のカマラ・ハリス氏が後継候補の筆頭だが、党内はすんなりとまとまるか。ハリスさんで本当にトランプ氏に勝てるかどうかの疑問も出るだろう。大統領選まで時間もない▼妻、ジル・バイデンさんの自伝によるとバイデン家には「頼まれてからやるのでは遅すぎる」という家訓があるそうだ。困っている人には早く、手を差し伸べなさいという意味だが、今回の撤退表明は少し、遅すぎたかもしれない。
町の高台に立っていた王子の像が貧しい人々の暮らしを目撃する。王子の像は嘆き悲しみ、ツバメを使って、自分の体から宝石や体を覆う金箔(きんぱく)をはがし、困っている人に届けさせる▼アイルランド人作家、オスカー・ワイルドの童話『幸福な王子』。その身を犠牲にした像は次第にみすぼらしくなる。「そしてとうとう幸福の王子はまるで冴(さ)えない灰色になってしまった」(富士川義之訳・岩波文庫)▼灰色の王子よりもひどい姿となった米ワシントン州シアトル市内の銅像を見るのがつらい。広島で被爆した少女、「サダコ」さんの像が何者かによって盗まれてしまった▼モデルは広島にある「原爆の子の像」と同じ佐々木禎子さん。被爆後、白血病を発症し、12歳で亡くなった。シアトルでも平和のシンボルとなっていたその像が切断され、今はわずかに足首を残すばかりである。「サダコ」さんや、平和を願う心が踏みにじられた気になってしまう▼地元の報道では高騰している銅を狙って盗まれた可能性がある。許されぬ犯罪だが、犯人は「サダコ」さんの人生も原爆のむごさも知らないで、悪心を起こしたと信じたくなる▼あの童話では神さまが灰色の王子の像とツバメを天国に連れていく。「サダコ」さんの像にも幸せな結末を用意したい。盗まれた像を再建するため、シアトルでは早くも寄付集めが始まっているそうだ。