Stefano Di Filippo - Dasha Chesnokova (ITA) | Cha Cha | Tokyo Asian Tour 2020
学校は城壁である。ジャン・シャトーというフランスの二十世紀の哲学者が主張している。<学校は牢獄(ろうごく)ではなく、砦(とりで)である。子供は生まれた時から、その周りに城壁を築き、守らなければならない…学校とはまさにその城壁なのだ>▼教育論で名高いルソーの思想をもとに、傷つきやすい成長過程の人格を守ることこそが数ある学校の役目の中でも、もっとも大事なのだという。子どもたちの実感は別にして、うなずけるところはあるだろう▼春休みを含めれば数週間だろうか。短くないこの期間、学校の「城壁」としての大事な役目は学校の外にゆだねられることになる。異例の事態だ。新型肺炎の感染拡大を防ぐことを目指した政府の一斉休校の要請である▼週明けから、各地の小中学校などで実施されることになりそうだ。この間、子供を守り、ウイルスの感染防止にも心を配らなければならない。低学年の児童のいる共働きの世帯をはじめ週明けに向けて対応に戸惑っているという方は、多いのではないか▼感染拡大を防ぐ手段として、休校は確かに有効なのだろうが、唐突の感はいなめない。必要性も、効果のほどもまだ説明は足りないようにみえる▼社会の危機は弱い立場の人にまず及びがちである。一人親で非正規雇用の方などは、仕事を休むと生活そのものが厳しくなる。守る壁となるような支援策が必要であろう。
プロ野球のキャンプ入りから選抜高校野球あたりまでをさしているだろうか。「球春」はいまや、いくつもの句を生み出す季語であるそうだ。心地よい球音に、美しい季節の訪れや浮いた心持ちが浮かぶ。そんな言葉だろう▼<球春のファウルボールは雲の中>小枝恵美子。俳人坪内稔典さんの『季語集』にある。明るい雲に向かって飛ぶ白球のすがすがしさを感じさせようか。残念ながら、この春ばかりは、暗く低い雲を想像する。シーズンを迎えた球技をはじめ、スポーツの大会が軒並み新型肺炎の拡大で、かつてないほどの影響を受けている▼プロ野球は残りのオープン戦が無観客となり、開幕したばかりであったサッカーのJリーグも試合が延期された。スポーツだけでなくコンサートや文化行事なども中止や延期が次々に決まっている▼政府は二週間、行事の延期などを要請している。しばらくは観客の不在が全国的に広がることになる▼見ている人がいると発揮する力に違いが出る「観客効果」というのがあるらしい。かつてサッカーの無観客試合を二度取材したことがあるが、観客効果ゼロの練習試合のような雰囲気に困惑する選手がいた。客席に喜びのない試合に重みや正統性を感じにくかったのも思い出す▼感染症を封じるためのつらい春である。心浮かれるはずが、しばらくは、「憂き春」「憂春」となりそうだ。
マスクをしないで咳(せき)をした男性に腹を立てて、乗客が地下鉄の非常通報ボタンを押したという先週の騒ぎにひどくおびえている。こうなると、何としてもマスクを手に入れなければならぬ。咳やくしゃみ一つで何が起こるか予想もつかぬ▼血眼になって探してもどこの店にも見当たらぬ。非常時に付け込んで、大量購入し、法外な値段で売っている人間もいるそうだが、そんな大枚は出せぬし、第一、もうけさせるのもシャクである▼不思議なのはマスク不足にもかかわらず、電車の中の人はちゃんとマスクを着用していることで、皆さん、知恵を絞って用意しているのだろう▼マスクを誇らしげにしている同僚に聞けば、数週間前、コンビニでたまたま買えたものを大切に使っているという。別の同僚は用意のよい知り合いから備蓄品を分けてもらっているらしい▼そんな幸運や、役に立つ知人とも縁遠い身は電車の中で万が一にも咳など出ないよう小さくなっているしかないが、咳をしてはならぬという緊張のせいか、風邪でもなんでもないのにかえって咳がこみあげてくる▼人の目も恐ろしく、落ち着かぬ日々の中、のどがスッとする善き話の主人公は知り合いの作家のお嬢さん。電車の中で咳をしている人を見かければ、未使用のマスクをどうぞと手渡しているそうだ。こういう親切はなかなか市中に伝染していかないのだが。
Emanuel Valery - Kehlet Tania, Final Tango | WDSF PD Open Standard
Valerio Antonio Colantoni - Monica Nigro ITA, English Waltz | Championship Professional Ballroom
米国で一九六六年に放送が始まったテレビドラマの「宇宙大作戦」(スター・トレック)のファンだったそうだ▼理由がある。宇宙船エンタープライズ号の中では国籍も人種もさまざまな男女が働いている。黒人女性ウフーラ大尉も仕事をしている。立派に任務を果たしている。それが黒人女性にはうれしかった▼その人は実際に宇宙を相手に働いていた黒人女性である。米航空宇宙局(NASA)の数学者としてジェミニ計画やアポロ計画などの成功に大きく寄与したキャサリン・ジョンソンさんが亡くなった。百一歳▼宇宙開発黎明(れいめい)期。コンピューターの性能も悪い時代、膨大な数字との格闘によって導き出した、この人の正しい軌道計算なしでアポロ11号は月面に無事、着陸できたか。月面着陸に一回で成功できる可能性は五分五分との声もあったが、ジョンソンさんだけは計算の結果に自信を持っていたそうだ▼技師や研究者の黒人比率が極めて低く、黒人差別も強かった当時である。ジョンソンさんらを描いた、映画「ドリーム」に遠く離れた黒人専用トイレを使わされる場面があったが、苦労を知性と意志で乗り越えた▼教え子たちに「必要なのは結果だ」と言い聞かせてきた。「数学では正しいか間違っているか、それがすべて。正しい答えが導き出されれば肌の色は関係ない」。この「計算」もまた間違っていない。
Massimo Arcolin - Laura Zmajkovicova | PRO LAT | Rumba | Asian Tour 2020
一目瞭然のうそであっても、不安な世情と人心に乗じれば、広がっていくものらしい。「政府が兵士の生き血を取る」「赤い旗などを血で染める」。信じがたいデマが明治期のわが国で広まったと伝わる。徴兵制を説明する政府の文書に「血税」という言葉があったためだった▼扇動者も登場したそうだ。当世にいうフェイクニュースだろう。そんな昔の騒ぎをあきれた出来事として、語れないような事態が進んでいるようだ。おそれられたことであるが、新型コロナウイルスの感染が拡大する背後で、デマも広がっている▼特定の食品に予防や治療の効き目があるといった偽情報は中国を中心にネットで広がった。欧州メディアによると、麻薬が効くとか漂白剤の飲用がいいとか危険な内容のデマも拡散した▼中国の陰謀が関係しているという説、感染した動物がうろついているといううわさなど、考えれば怪しいと分かりそうな情報が流れる。日本にも入ってきた。感染者が逃亡中というデマが、国内で流れたのは先月だった▼世の不安をエネルギーに、現代の偽情報は高速で広がる。正しく怖がることを妨げ、人種や特定の人々への憎悪もあおりかねない状況だ。デマによる混乱もまた、感染症の怖さである▼うそを通さず飛ばさないマスクを心に、だろうか。手洗いをするように、怪しげな情報をこまめにチェックする自衛も。
審査員特別賞
届いた声
佐々木 美和(34歳) 北海道北広島市
毎朝玄関の前に立っているおじさんがいる。あいさつしてもみけんにシワを寄せ口をつぐんだまま。次の日も「明日は休刊日です」と新聞を差し出すと、無言で取り上げ玄関に戻って行く。
半年たった頃、おじさんがいなかった。ポストに入れると玄関からおばさんが出てきた。
「あなたが毎日、新聞を届けてくれる子ね。主人は新聞が来るのを楽しみにしてたのよ。実はのどのがんでお話ができなかったの。耳もほぼ聞こえなくてね。毎日、新聞と私しか相手が居なかったから。でもいつしかあなたが来るのを待ってたわ。1時間も前から何度も外に出て行ったり来たり。最近具合が悪くて入院してるのよ。これからはポストに入れてちょうだい」
それから半年後、おじさんが立っていた。「おはようございます。お久しぶりです」。おじさんがいつものように顔色を変えずに受け取った。
でも玄関に入るときに笑顔が見えた。私の声も届いた気がした。