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今日の筆洗

2017年08月31日 | Weblog

 脚本家の向田邦子さんがお伽噺(とぎばなし)の中で一番心に残っているのは「桃太郎」だと書いている。理由がちょっとおかしくも悲しい▼小学生のときに「桃太郎」をノートに書き写すという宿題が出たが、終わっていない。登校時間が迫る中、朝ご飯のお櫃(ひつ)を机代わりに半ベソで書く。「どうしてゆうべのうちにやって置かない。癖になるから、誰も手伝うことないぞ」と父親がどなる。母親は「落ち着いてやれば間に合うんだから、落ち着きなさい」。お櫃の上で書いていたのは、心細くて自分の部屋ではやっていられなかったからだそうだ。読んでいて騒々しくも温かいドラマを見ている気分でもある▼どなたにもやっていない宿題の思い出があるだろう。その当時は焦り、半ベソになったかもしれぬが、思い返せば、親の罵声や励ましもどこか懐かしくもあるのではないか▼その宿題のやり方は後で振り返りたくなる思い出を残してくれるかと心配する。読書感想文や工作など夏休みの宿題を売ってくれる人があるそうだ▼できあがっている宿題をネットで購入し、一丁上がりとは聞いただけで後ろめたく、居心地が悪い。あのお父さんなら「癖になるから」と怒るだろう▼宿題を買って提出。おまけに先生にほめられた。それに胸を張る子はまずいない。その子の夏の思い出には苦くざらざらとしたものがまじっているはずである。


今日の筆洗

2017年08月30日 | Weblog

 インダスとはヒンディー語で「川」。われわれはインダス川と呼ぶが、本来の意味からすれば「川川」と言っていることになる。考えてみればおかしな重複の言葉は結構ある。フラダンス(フラはハワイ語で「ダンス」)もそうだし、北海道の襟裳岬も言い切れぬが、これに近いかもしれない▼襟裳の語源はアイヌ語の「エンルム」。突き出た頭、あるいはそこから転じて岬という意味があるそうだ。だとすれば、襟裳岬と言った場合、「岬岬」ということになる▼北朝鮮が二十九日朝、発射した弾道ミサイルは北海道を通過し、その襟裳岬の東、約千百八十キロの太平洋に落下した。「またまた」とため息とともに言葉を重ねる、ミサイル発射。しかも、今回は日本列島の上空を通過させている▼動かぬ米国に、北朝鮮の挑発行為が新たな段階に入ったのか。「岬岬」のミサイルに、「挑発挑発」「暴挙暴挙」「危険危険」と言葉を重ねたくもなる▼無論、不愉快である。されど、今、重ねるべき言葉は「冷静に」「冷静に」の方である。挑発に怯(おび)え動揺すれば、その裏返しである敵対心や憎悪を強めることになろう。それは平和的解決とは、かけ離れた道である▼<襟裳の春は何もない春です>。その岬の名を聞けば、「襟裳岬」(作詞・岡本おさみ、作曲・吉田拓郎)をどうしたって連想する。何もないことを。何もないことを。


今日の筆洗

2017年08月29日 | Weblog

 バナナの皮を踏んづけて、すってんころりん。おなじみの古典的なギャグだが、観客の笑いを誘うためには大切な条件がある。転ぶ人物は権威的で強い人物、たとえば政治家や大富豪でなければならぬ。病院帰りのお年寄りが転んでも笑えぬ▼権威ある人物はバナナの皮で転ぶようなことはないだろう。そういう思い込みや常識が崩れることで笑いが生まれる。権威が失われることもおかしさの理由なのだろう▼その人物は政治家である。しかも蔵相や外相を歴任し、首相までおやりになったのだから権威ある強者である。したがって、バナナの皮で滑るのを見れば、大笑いできるはずなのに想像してもどうしても笑えぬ。笑えぬどころか駆け寄って手を差し出したくなる。そういう珍しいタイプの政治家が亡くなった。羽田孜元首相。八十二歳▼政界でも折り紙付きの人柄の良さ。政治改革の実現を追い求める一途(いちず)な姿勢。いずれも政治家特有の権威や敷居の高さをさほど感じさせなかった理由だろう。わずか六十四日で政権を失ったが、その悲劇性も、町で見かければ気軽に肩をたたきたくなる人間的な政治家をこしらえたのだろう▼愛用の省エネスーツにしても権威や体面ばかりを気にする政治家ならば着る勇気はなかろう▼名宰相とはいえない。だが、善き人間とはいえよう。永田町では、そちらである方がよほど難しい。


今日の筆洗

2017年08月28日 | Weblog

 小学校などで授業の始まりや終わりを教えてくれるチャイム音。地域や年代によってチャイムの音はさまざまだろうが、おなじみは「キンコンカンコン キンコンカンコン」のあれといえば、音符を示さずともお分かりいただけるか▼なんでも英国の国会議事堂の大時計(愛称ビッグベン)の鐘が奏でるメロディーからの拝借と聞いたことがある▼戦後、東京の中学校が導入したところ全国に拡大。米国の学校などでよく耳にする、けたたましい非常ベルのような音に比べれば、なるほど「キンコンカンコン」は耳や心に優しく、そんなところが受け入れられたのかもしれぬ▼そのビッグベンの鐘。修理の作業員の耳を守るため、先週から当分、鳴らすのをやめたそうだが、こっちの「キンコンカンコン」は、その日が来れば必ず鳴る。夏休みの終わりを告げる「キンコンカンコン」である。地域によってはもう鳴ったところもあるだろう▼残念ながら、新学期の到来を告げるチャイムが耐えきれぬほど重く暗く聞こえる子どもがいる。内閣府の調査によると過去、新学期が始まる地域の多い九月一日は十八歳以下の子どもの自殺が最も起こりやすいという▼悩む子どもは大人に助けを求める「キンコンカンコン」を鳴らしているはずである。ただ、その音は極めて小さい。感度の良い耳を備えたい。大人の夏の最後の宿題である。


今日の筆洗8/27

2017年08月27日 | Weblog

「みんな、こいつを生かしておくとなにをしでかすかわかンねエぞ、なんしろ、宇宙人だ」「そうだ、やられる前にやってしまった方がいい」「やっちまえ」-。ト書きはこう続く。(集団の暴徒になっている)▼一九七一年放映の「帰ってきたウルトラマン」の「キミがめざす遠い星」。テレビ放映時のタイトルである「怪獣使いと少年」の方がなじみが深いか。ただ自分の星へ帰ることだけを願う宇宙人と、それを手助けする少年にデマに扇動された一般市民が襲いかかる▼脚本は上原正三さん。一つの事件を題材にしている。一九二三(大正十二)年の関東大震災の朝鮮人虐殺である。「朝鮮人が暴動を起こした」などのデマにあおられた人々によって朝鮮人らが殺された。差別、人間の集団心理の恐ろしさを沖縄出身者として、この作品で描きたかった▼その朝鮮人犠牲者の追悼式。小池百合子東京都知事は歴代知事が応じてきた追悼文の送付を今年は断った。突然の方針転換である▼都慰霊協会主催の大法要ですべての犠牲者に哀悼の意を表しているためとは説明になっていない。「虐殺の事実を否定するもの」と批判されても仕方があるまい▼その追悼文は日本人にとっての「お守り」だったかもしれぬ。それが失われ、かつての過ちを忘れたとき、「やっちまえ」のあの怪物がこの世に再び現れまいか。それを恐れる。


今日の筆洗

2017年08月25日 | Weblog

 職場の上司から、こんなことを言われたらどうするか。「近所の中学校でバレー部の指導をしてほしい」。バレーボールの経験などないのに、上司は強引に引き受けさせようとする▼では、その条件は?と聞けば、「平日は毎日夕方に所定の勤務時間が終わってから二~三時間ほど無報酬で、できれば早朝も勤務時間前に三十分ほど。土日のうち少なくとも一日は指導日で、できれば両日ともに指導してほしい」▼そんなことを強要する上司がいたら、とんでもないブラック企業だろう。だが、そのとんでもないことがまかり通っているのが今の学校なのだと、名古屋大学准教授の内田良さんは新著『ブラック部活動』(東洋館)で指摘する▼部活動は、あくまでも「自主的な活動」だ。放課後などの部活動の指導は「勤務時間」には入らず、時間外勤務手当も出ない。しかし現実には、八割以上の中学校で全教員の部活の指導が実質的に義務付けられている▼中学校の教員の六割近くの残業時間が「過労死ライン」を越えるという過酷さの一因に部活がある。そういう現実を、どれだけの保護者が知っているだろうか▼朝も夕も部活。疲れ切っているのに土日も休めず、家族との時間もとれない。先生も、生徒も。そんな部活こそ「ブラック企業戦士への予備軍を生み出しているのではないか」との内田さんの警鐘が、重く響く。


今日の筆洗

2017年08月24日 | Weblog

 <KKKKK KKKKKKK KKKKK 三振の数だけ鬱(うつ)が薄れる>。野茂英雄投手が大リーグで奪三振十七の快投劇を演じた時、そんな短歌を詠んだのは、阿久悠さんだ▼Kは三振のこと。十年前の八月に七十歳で逝った作詞家がこの夏の甲子園を見ていたら、<HHHHH HHHHHHHHH HHHHH 安打の数だけ…>と、驚嘆のHを重ねたかもしれぬ▼広陵の中村奨成選手が放った安打(H)は大会最多タイの十九本。うち六本は本塁打で新記録。最多打点などの記録も塗り替え、決勝では敗れたが、鮮やかな残像を残すHの光である▼<人は誰も、心の中に多くの石を持っている>。中村選手が破るまで輝き続けた最多本塁打五本の記録を清原和博選手がつくった一九八五年の夏、決勝を見た阿久さんは、そんな一文をしたためた。たいがいは一つか二つ磨き上げるのがやっとで、その多くを光沢のないまま持ちつづける石▼<高校野球の楽しみは、この心の中の石を、二つも三つも、あるいは全部を磨き上げたと思える少年を発見することにある>と阿久さんは書き、こう続けた。<今年も、何十人もの少年が、ピカピカに磨き上げて、堂々と去って行った。たとえ、敗者であってもだ>(『甲子園の詩』)▼敗れた選手が甲子園から持ち帰ったのは球場の土だけではなく、心の中で光る「石」なのだろう。


今日の筆洗

2017年08月23日 | Weblog

「あたりき車力車引き」「言わぬが花の吉野山」「見上げたもんだよ屋根屋のふんどし」。言葉遊びの「無駄口」。一種の語呂合わせで、何かの一言に語呂の良い言葉を加え、おもしろさや威勢の良さをまぶす。映画の寅さんがよく使っていたが、最近はあまり聞かれない▼「親ばかちゃんりんそば屋の風鈴」。親の欲目や過保護を冷やかす、この無駄口はまだ使われている方だろう。『蕎麦の事典』によると宝暦(一七五一~六四年)ごろ、江戸の町に屋台に風鈴をぶら下げたそば屋が登場したとあるが、これとの関係か▼「親ばか」も控えめな風鈴の音ほどなら笑いの種にもなる。されど、ここまでくると親ばかの親とばかの順をあべこべにしたくもなる。山梨県山梨市の職員不正採用事件である▼中学校長が自分の息子を市役所に採用してもらおうと当時の市長(収賄容疑で逮捕)に現金八十万円を渡したとして贈賄の容疑で逮捕された▼子どもを等しく扱うべき立場を忘れ、わが子ばかりはと裏口採用を頼む校長とそれを請け負う市長。古い社会派ドラマも顔を赤らめる展開である。これが二十一世紀の日本とは、頭を抱える▼いたたまれないのは採用された息子だろう。息子の将来を心配したのかもしれないが、とどのつまりが息子を傷つけている。その「あたりき」がなぜ分からなかったか。風鈴の音が寂しく聞こえる。