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今日の筆洗

2016年09月29日 | Weblog

 楽観主義者が、五十代に入り人生の先行きを嘆く友人を励ました。「人生は五十から始まると思えよ」。すると、悲観主義者はこう答えた。「関節炎だって五十歳から始まるんだ」▼元イスラエル大統領のシモン・ペレスさんは超の付く楽天家だった。あるベテラン政治家が世界の先行きについて悲観的な見通しばかり口にしていたら、こうたしなめたそうだ。「なぜ、そんなに悲観的なのですか。われわれは楽観的になれるくらいに若いんです。私たちはまだ七十代ですよ」▼首相をはじめ数々の要職を務めたが、選挙では苦汁をなめ続け、政敵からは「永遠の敗者」と呼ばれた。だが敗北を引きずらず、むしろ別の道を探すための好機と考えたという▼だからだろう。解決不能の難問とみられていたパレスチナとの和平交渉を粘り強く続け、一九九三年に世界を驚かす「オスロ合意」を成し遂げて、ノーベル平和賞も贈られた▼その中東和平も今は幻に見える。希望の光が差したと思っただけに闇が一層深い。貧困、絶望、憎悪、テロと戦争、そして新たな困窮と憎悪…という連鎖がやまず、悲観主義の大蛇がとぐろを巻く▼それでも、きのう九十三歳で逝ったペレスさんは、こういう言葉を残したという。「悲観主義者も楽観主義者も、同じように死んでいく。しかしどう生きるかに違いがある。私は、楽観主義者でありたい」

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今日の筆洗

2016年09月28日 | Weblog

 十一歳の女の子がある男に手紙を書いた。一八六〇年十月のことである。「あなたにどうしても大統領になってほしいのです。だから、ほおひげを生やしてください。ひげを生やせば、あなたのやせた顔がもっと立派に見えるからです。そうすれば大統領になれるでしょう」▼手紙をもらった男はどうしたか。女の子の指示に従い、ほおひげを生やした。十六代米大統領エーブラハム・リンカーンである▼ひげのない写真のリンカーンはなるほど神経質で温かみのない人物にも見える。少女の助言なくば、歴史は変わっていたか▼選挙、とりわけ米大統領を目指す戦いにおいて候補の外見や印象はリンカーンの昔から大きなカギであろう。昨日の米大統領選挙のテレビ討論会。真っ赤なスーツのクリントンさんに若々しい青のネクタイのトランプさん。いずれも外見の方は申し分ない。されど印象は、である▼予想通りの非難合戦となった。攻撃あるのみのトランプさん。半ば軽蔑まじりの冷笑で応えるクリントンさん。なるほど「不人気」同士のお二人で、双方ともに印象はよろしくない▼憎悪、意見対立による分裂した社会。それは間違いなく、米国が抱える悩みだが、二人の討論からは国民を協調や理解へと導く糸口もなければ、雰囲気もうかがえぬ。選挙後が心配である。あの少女、二人に何か助言の手紙を書いてくれまいか。

 
 
 
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今日の東京中日スポーツ

2016年09月28日 | Weblog

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2016年09月28日 | Weblog

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2016年09月27日 | Weblog

 アーノルド・パーマーさん。お願いがある。米ツアー六十二勝の「キング・オブ・ゴルフ」に恐縮だが、優しいあなたなら引き受けてくれるだろう▼あなたの乗る列車に若い男が乗っているはずなのだ。名前はホセ・フェルナンデス。大リーグ、マイアミ・マーリンズの投手で滅法(めっぽう)速い球と手ごわいスライダーを投げていた。その若者はうろたえているだろう。突然の事故で八十七歳のあなたと同じ日に、神の元へと向かう列車に乗せられてしまった。まだ二十四歳だった▼キューバからボートで何度も亡命を試みた末に、やっとの思いで米国に渡ってきた。大リーグ入り後は順調に見えたが、二年前に肘を故障。今季はそれを乗り越え、十六勝と花を咲かせた。大投手への道を歩きだそうとしていた▼一九六二年の全米オープン。あなたには苦い思い出だろうが、あなたを負かした若きジャック・ニクラウスのように「さあ、これから」という場所にあの若者も立っていた。なのにすべてを奪われた▼運、不運。ゴルフほど神様の気まぐれに振り回される競技はあるまい。天候、風。木に当たったボールがOBにもなればフェアウエーの中央に落ちることもある▼その「不公平」なゲームに強気一辺倒のショットで挑み続け、時に勝利し、時に敗れた、あなたである。若者の魂を少しでも慰める言葉を掛けてやっていただけないか。

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今日の東京中日スポーツ

2016年09月27日 | Weblog

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2016年09月26日 | Weblog

 「可能でしょうか」。こういう表現を最近、よく聞くのは気のせいか▼地球外生命体の有無といった固い議論上の使用ではなく、「お待ちいただくのは可能でしょうか」や「約束の時間の変更は可能でしょうか」など、日常会話での「可能でしょうか」の多用である。若い方に特に目立つ▼間違いではないし、丁寧に聞こえなくもないが、引っ掛かる。語感は人にもよるが、普段の会話に事務的でどこか学術めいた雰囲気もある「可能」は堅苦しく、似合わぬ気がする▼「可能でしょうか」の増殖の原因は分からぬが、これと関係あるかもしれぬ。「食べられる」を「食べれる」、「見られる」を「見れる」と表現する例の「ら抜き」である。最近の調査によると、誤りとされてきた「ら抜き」の使用が本来の「食べられる」「見られる」をついに上回ったそうである▼あの「可能でしょうか」。ひょっとして、間違いやすい言葉を使わぬようにお若い方が生み出した技術ではないのかと疑っている▼「食べられる」か「食べれる」かで悩むことも言葉に厳格な方に叱られることもないよう「食べることができる」や「食べることが可能」と言い換える。その習慣で何にでも「可能でしょうか」と付け加えるようになってきたと想像すれば、それは「ら抜き派」の努力や配慮の結果かもしれぬ。そう考えるのは、「可能でしょうか」。

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