ダンスパーティーに行くことになった少年。父親のシャツを借りることにしたが、袖口を留めるカフスがない▼母親が工具箱のナットとボルトを出してきた。これで袖を留めなさいという。少年は「いやだよ。ママ。みんなに笑われる」。母親は譲らない。「何か言われたらこう言ってやるの。こんなの持ってないだろって」。少年はその通りにした▼少年とはバイデン米大統領。大統領選からの撤退表明にこの逸話が浮かんだ。誰かに笑われても気にするな。そう教えられてきた人には無念の撤退だったに違いない▼トランプ前大統領との討論会での不振と、民主党内に高まっていた「バイデン大統領では勝てない」の声。大統領は不安と疑問のカフスを付けてでも選挙戦を続けたかっただろうが、最終的には意地よりもトランプ氏に再び政権を渡さぬ道を選んだのだろう▼これで民主党の候補選びは振り出しに戻った。副大統領のカマラ・ハリス氏が後継候補の筆頭だが、党内はすんなりとまとまるか。ハリスさんで本当にトランプ氏に勝てるかどうかの疑問も出るだろう。大統領選まで時間もない▼妻、ジル・バイデンさんの自伝によるとバイデン家には「頼まれてからやるのでは遅すぎる」という家訓があるそうだ。困っている人には早く、手を差し伸べなさいという意味だが、今回の撤退表明は少し、遅すぎたかもしれない。
町の高台に立っていた王子の像が貧しい人々の暮らしを目撃する。王子の像は嘆き悲しみ、ツバメを使って、自分の体から宝石や体を覆う金箔(きんぱく)をはがし、困っている人に届けさせる▼アイルランド人作家、オスカー・ワイルドの童話『幸福な王子』。その身を犠牲にした像は次第にみすぼらしくなる。「そしてとうとう幸福の王子はまるで冴(さ)えない灰色になってしまった」(富士川義之訳・岩波文庫)▼灰色の王子よりもひどい姿となった米ワシントン州シアトル市内の銅像を見るのがつらい。広島で被爆した少女、「サダコ」さんの像が何者かによって盗まれてしまった▼モデルは広島にある「原爆の子の像」と同じ佐々木禎子さん。被爆後、白血病を発症し、12歳で亡くなった。シアトルでも平和のシンボルとなっていたその像が切断され、今はわずかに足首を残すばかりである。「サダコ」さんや、平和を願う心が踏みにじられた気になってしまう▼地元の報道では高騰している銅を狙って盗まれた可能性がある。許されぬ犯罪だが、犯人は「サダコ」さんの人生も原爆のむごさも知らないで、悪心を起こしたと信じたくなる▼あの童話では神さまが灰色の王子の像とツバメを天国に連れていく。「サダコ」さんの像にも幸せな結末を用意したい。盗まれた像を再建するため、シアトルでは早くも寄付集めが始まっているそうだ。
日本人がマグロのすしを食べるようになったのは江戸後期以降。切り身をしょうゆに漬けてネタにし、屋台で供されたという。今のような高級魚ではなく大衆魚の位置付け▼さっぱりした赤身が重宝され、脂の多いトロは敬遠された。動物の肉を食べることが一般的でなく、食感が似たトロは好まれなかったようだ▼トロ人気の急騰は食の西洋化が進み、牛肉などを食す人が増えた戦後。冷凍技術の改良も進み、日本は世界中の海でマグロをとった▼太平洋クロマグロの資源管理を話し合う国際会議が閉幕し、来年以降の全体の漁獲枠を大型魚で1・5倍、小型魚で1・1倍に拡大することで合意した。価格が下がり、食卓に並ぶ機会が多くなるかもしれない。喜ぶべきニュースなのだろう▼いささかとり過ぎたせいで導入された国際的な規制。資源に一定の回復傾向が認められたから合意に至ったのだが、日本が当初求めた拡大幅はもっと大きかった。増枠に正面から反対せずとも、資源管理は慎重であるべきだと訴えた国々があったようだ。野生の生き物が相手ゆえ、その考えも分かる。当面は抑制を続けるほかないのだろう▼鮪(まぐろ)は冬の季語。暑い盛りに季節外れだが、歳時記にこんな句があった。<遠つ海の幸の鮪を神饌(しんせん)となす 黒田晃世>。長いつきあいになった魚は神に供え、ともに味わうのにふさわしい。永続を祈りたい。
ラグビー元日本代表のウイング、福岡堅樹さんは子どものころピアノを習っていた。お気に入りはベートーベンの「悲愴(ひそう)」で繰り返し練習したという▼そのせいか、ラグビーの試合中でも頭の中でベートーベンの曲が流れていたそうだ。頭の中の曲が集中力を高め、気持ちを落ち着かせる効果があった。試合中の運動選手には独特なメンタル術がある▼この選手もユニークな方法で試合に臨んでいたようだ。女子ゴルフのアムンディ・エビアン選手権で優勝した、古江彩佳選手。日本勢の女子では樋口久子さん、笹生優花選手らに続く4人目のメジャー大会優勝者となった▼最終日のプレー中に「メイ・ザ・フォース・ビー・ウィズ・ユー(フォースと共にあらんことを)」と頭の中で唱えていたと聞く▼映画「スター・ウォーズ」のファンならおなじみだろう。説明が難しいが、「フォース」とは一種の超能力で、この言葉は善の心を持つジェダイ戦士たちの合言葉になっている。古江さん、この文句で自分を落ち着かせていたらしい▼最大で3打差開いたトップとの差を終盤の5ホールで逆転。15番で決めた12メートルのバーディーパットや18番パー5の2オンを思えばなるほど「フォース」を信じたくなったが、無論、優勝は不思議な力のおかげなどではなく、正確なショットと小技のうまさ、それに諦めなかった強い心の賜物(たまもの)である。