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中国共産党を理解する その1 戦後の中国共産党の行動を振り返る

2017-10-28 18:21:41 | 日記
 トット記者は、1ヶ月に1つのレポートを提出する課題があります。今回は、2年前(平成27年6月8日)に提出したレポート(「中国共産党の行動パターン」)の全文です。中国共産党の行動様式を改めて理解しようとしたものです。資料は古いのですが、現在の中国を知るにはある程度納得できるものと考えます。このレポートの趣旨にそっていくつかの課題を提示していきたいと考えています。まずは、このレポートに目をお通し下さい。次の「その2」は、「尖閣諸島領海への侵入常態化について」の予定です。

レポート 「中国共産党の行動パターン」
1, 1988年代の中国共産党内の確執
 1988年頃、中国共産党内では改革派と保守派の対立があった。対立の原因は、悪政インフレに対する趙紫陽と李鵬の政策の違いです。この年の中央委員会で緊縮政策が決まりました。これは保守派の李鵬の主導で進められたものです。首相の李鵬は長老達のバックアップを受けて、趙紫陽総書記から経済政策の決定権を奪ったのです。党が主導することとが建前の中国ですが、首相の力が強くなると党書記は何もできなくなることがあるのです。1988年の悪政インフレによる左右の対立において、鄧小平は保守派と妥協して趙紫陽総書記を見捨てました。中国では春節に引退した党幹部の長老を訪ねる習慣があります。このときの長老の意見が、大きな意味を持ちます。政治局拡大会議は、正式メンバー以外の党長老を集めて開かれる最も重要な会議に位置付けられています。この会議では、正式メンバー以外の長老が重大な決定権を持っていたのです。党の政治局常務委員の上に最高実力者がいれば、その人物の意向で決定される仕組みがありました。天安門事件以降保守派が、経済を運営をしました。でもこの経済政策は経済を停滞させたのです。そこで1992年鄧小平は南方を視察し、発展と改革の加速を呼びかけました。経済の停滞が国を滅ぼすと考える彼は、生産向上に役立つことなら何でもやるという指示を出したのです。その背景にあったのは、経済停滞により資本主義に破れていったソ連の姿がありました。南方講話が中国の急成長を出現させたのです。
 1986年頃、鄧小平は一段高い位置で、改革派と保守派のバランスを図る手法をとっていました。鄧小平が胡耀邦の後ろ盾になり進めた改革開放や党幹部の特権に対する挑戦は、保守派勢力の反発にあっていました。1978年の中国漁船が日本の領海に侵入した事件は、日本に援助を求める鄧小平の改革開放に対する保守派の反対行動の表れでした。1986年北京で起きた民主化運動では、保守派意向を受け入れ鄧小平は胡耀邦党総書記を切り捨てました。1989年4月に胡耀邦が死去し、これをきっかけに学生が民主化運動に立ち上がりました。学生らが民主の女神を立てて西側への憧れを隠さなかったことに鄧小平は衝撃をうけた。これを引き金に天安門の弾圧が行われます。でもこのとき、鄧小平とともに権力闘争に学生を利用した改革派の趙紫陽にも責任があることを理解しておくべきべきです。
 中国は日本の世論が割れたりすると、その点を突いてきます。日本の世論はマスメデイアを通じてわかりやすいものになります。中国の民主集中制は、党や政府内部で意見を闘わせても良いのですが、外部に対しては結束して事に当たります。党内や政府内部の対立点は、表に出ない仕組みになっています。党内や政府内部の資料を収集する作業が、困難になります。この点が、中国の理解を難しくしています。社会主義体制がまだ維持されていた時期は、新華社通信とタス通信の内部資料交換がありました。それを参考に、理解できる面がありました。でも、社会主義体制の崩壊後は、タス通信から得られる情報の価値が目減りしてきています。日本のメデイアは、米国やEUの情報を大金を出して買っています。でも、中国についてはそれができない状況があります。1990年代日経新聞は、中国進出企業から内部文書を閲覧し、特ダネを連発していました。それも段々できない状況になっています。民主集中制の壁を乗り越えて、情報を聞き出す仕組みがまだ不確実なのです。中国が対外的に行う宣伝と実態があまりに距離があることも、中国理解を困難にしています。共産党は民衆の違法行為や大使館の破壊などの暴力を見逃し、民衆に迎合する態度を取る場合があります。日本人の何十倍も戦争被害の記憶を引きずる中国人は、日中のトラブルを日中の民族問題にまでに拡大させていく傾向があります。中国メデアは、日本がどう反応するか見ています。中国を相手にする場合、絶対にぶれずに一貫した姿勢で臨まないと問題の解決を難しくします。日本の世論がまとまったときは、中国に対して非常に強い力になるとこを日本人は理解しておくべきです。

2, 2002年代の中国共産党の勢力図
 中国は国防や基幹産業以外の民営化を行いました。でも党が権力を握る中央政府や地方政府が、国有企業を支配する構造に変化はなかったのです。むしろ2002年からは、党内には下層から上層部までの経営者の利害を代表する勢力が形成されました。経済発展は、外国への輸出依存や不動産投資に依存する経済構造でした。膨大な貿易黒字は、過剰資金として株や不動産に流れ込み多くの富裕層を生み出します。長老派は、国有化財産の私物化について上海派より上手に既得権を守る術を身につけています。中国では毎年2000万人以上の雇用が生まれます。そのためには成長率8%以上の成長が必要です。8%の成長を目指すためには、鉄道や道路のインフラ整備、住宅や医療への大規模投資を行うことが不可欠でした。共産党との結びつきがあれば、土地の払い下げや株のインサイダーが容易です。不動産投資では、農村幹部はわずかな保証金で農民を異動させ、農地を転売し巨額を富を獲得しました。中国の政治システムの中では、情報はトップに近づくに従って多くなります。結果として、党内には下層から上層にまでに利害構造が形成されたのです。
 2006年頃、党上層部には共生団出身の胡錦濤、上海派の江沢民、太子党の習近平の流れがあった。江沢民は、経営者の利益を重視し、その政策を進めてきました。上海派は、改革の恩恵を享受してきた都市の新興富裕層が基盤になります。この派は、金融引き締めや所得配分政策を牽制する勢力でもあります。経営者の利益集団が党内に力を持ち、金融引き締めや資産税に対する反対勢力になるのです。伸長著しいのは、習近平をはじめ革命元老を親に持つ太子党です。党長老や二世政治家の太子党は、江沢民の専横に対する反発から胡錦濤を支持してきました。習近平は抗日戦争に従事した元老の息子で、軍のインナーサークルの出身です。江沢民や胡錦濤は、確固とした軍歴がありません。軍歴のない指導者の悩みは、制服組をいかに統制するかという点にあります。胡錦濤も江沢民も軍事費を増大させることで軍を手なずけ、統制してきた面があります。胡錦濤は、海軍や空軍を優遇しています。さらに、四川大地震で確執があった災害救援の教訓から、災害援助に功績のあった軍人を重視する人事管理をしています。2012年の党大会において、胡錦濤は軍の主張に迎合して、政権を維持する選択を行うと予想されます。
 胡錦濤は2007年の党大会で共生団出身の李克強を、後継者にすることに失敗しました。共生団出身者は十分な政治思想教育を受けています。公平な所得配分や弱者対策を主張しその実現を目指しているともいえます。環境対策や省エネにも熱心に取り組んでいます。その特徴は清廉だが経済活動や地方政治の実戦が少ないことが弱点です。胡錦濤は、経済の恩恵を受けない層に恩恵が行きわたるような政策を考えていました。農民は個別の問題では末端の党組織に反抗しますが、胡錦濤政権に期待をかけている面もあります。胡錦濤派の汪洋は、産業構造転換が行き詰まる中、最強の調査機関を使って汚職摘発の援護射撃にでました。さらに、検察力を使い汚職摘発で追放した幹部の後には、共生団出身者を送り込みました。でも、胡錦濤が送り込んだ共生団出身者は、慣れない経済や治安対策などで失敗が目立ち、問題が表面化してきました。検察権力を動員した反腐敗闘争を激化させたことで、既得利益集団の長老派が警戒を強めました。長老派は、胡錦濤から李克強への権力継承が自らの既得利益を犯すと考えました。ここにいたり、長老派と江沢民が手を結びました。その結果、党上層部で劣勢になった胡錦濤は、習近平を李克強の上位にする人事を飲むしかなかったのです。胡錦濤の権力は低下し、習近平への権力委譲が成立することになります。
 太子党は政治的主張より、経済的利益で結びついたネットワークが強みになっています。毛沢東や鄧小平時代に太子党は政治への進出を禁じられていました。でも、その力は基幹産業で蓄えられていたのです。基幹産業である国有企業を支配する党幹部は、恩恵をこうむってきたわけです。2003年国家の安全と国民経済に関わる重要な産業以外は、市場競争の中で育てる民営化政策に移行しました。太子党は国有企業の民営化の過程でで多くの利益享受し、経済発展の先頭を担うようになったのです。国有企業を支配する党幹部には、一族や関係者に恩恵をもたらす金城湯地の政策になりました。国有企業は、それぞれの産業において独占的地位が約束され、高額な利潤が確保できるようになっていたのです。民営化は、国有企業の高級幹部と私営企業の経営者層を代表とする有力な利益集団を作り出しました。さらに、江沢民は太子党の政界進出を解禁しました。太子党は、ぞくぞくと党の要職を占めるようになります。上海派や党長老は既得権を守るため胡錦濤の水清き政策を嫌い、習近平を次期最高指導者にすることになったのです。

3,中国を知る方法
 四川大地震は、中国共産党の内部の力関係を垣間見せた事件でもあります。四川大地震は、約7万人の死者を数えました。この災害の時、国務院と人民軍の対立が表面化しました。国務院からは温家宝首相が自ら発生した日に現地入りして、救援の陣頭指揮をとりました。機動力のある人民軍が到着したのは、次の日でした。この地震災害における軍の行動は鈍く、救援に必要不可欠なヘリコプターの派遣も遅れました。温家宝首相は、軍の対応に不満を隠しませんでした。もっとも、この時軍は台湾危機に備えていたのです。台湾では民進党のクーデターの噂がありました。人民軍はこれに対応して一級戦備体制を取っていたため、救援活動に遅れたといわれています。各国の救助の受け入れについても、党最高指導部と政府の間に亀裂があったとされます。中国は国防の基幹産業や重要施設を内陸部に建設することを行ってきました。四川省は、核保有施設が集中し、戦略上の要衝です。外国の救援隊に、現地情報が漏洩することを極端に恐れたようです。日本の救助隊は、人民軍がすでに救助作業を終えている生存者がいない現場に回されました。日本の救助隊に手柄を上げられれば、メンツが丸つぶれになるからです。中国にとって最も屈辱的なことは、公の場で日本を賞賛したり日本に謝罪することなのです。
 北京大学などの知識人を輩出する大学は、党や政府の幹部を送り出しています。一方、政府や党の間違いには前面に立って戦ってきた歴史がありました。天安門事件でも、知識人は怒りの声を上げ、政府の行動を批判してきました。これに対して、政府は天安門デモに参加した知識人を弾圧する一方、知識人への待遇改善も進めました。知識人は職場から配分された住宅を市価よりはるかに安い価格で購入できます。また、購入した住宅を市価より高い価格で売却もできるのです。彼らは、住宅の配分、進学、就職、社会福祉などの豊かさを享受できる階層になっています。知識人は既得権層に組み込まれ、腐敗に鈍感になりつつあります。既得権層と反対の立場にあるのが農民です。農民は耕地を耕す権利は保障されましたが、土地の転売や土地を担保にした借金はできません。党や政府の幹部は、医療や養老年金の恩恵を享受できます。でも、国民の7割を占める農民は、この権利から排除されています。農民工は出稼ぎに行き、無権利の状態で働き、低賃金の労働力として酷使され、都市に定住することができません。経営者は労働者を自由に使い、そして切り捨てていくことができるのです。このことが他国にまねの出来ない中国の競争力だったのです。中国の経済成長の核は、不動産や輸出産業でした。この産業の発展を支えたのは、農民に対する二重収奪の政策だったのです。北京中心地の繁栄とは裏腹に、天安門から数十km郊外には砂漠化した荒れ地が広がり、水道もなく、井戸に頼る農民がまだまだいるのです。
 胡耀邦を師と仰ぐ胡錦濤は、チベット問題で強弁姿勢を示したことで、最高位に駆け上がりました。チベット問題を強弁姿勢で解決したあとは、少数民族対策が地方幹部の強弁ぶりを争う場になってしまった。胡錦濤はそれでもチベット経済向上のために、鉄道をチベットまで通す事業を完成した。この鉄道を効果的に利用したのは漢民族だけでした。チベット民族の経済成長や文化の向上には負の遺産になっています。2001年9.11テロを理由に、中国政府がウイグル族を弾圧しないように、ブッシュ政権は中国に警告をしていました。でも、2002年に、ブッシュ政権は中国の主張通り、ウイグル族の一部をテロと認めています。その理由は、アメリカのイラク侵攻に対して、中国が国連で拒否権を使用しないことと取引をしたためです。今中国の公安当局が最も警戒していることは、反体制派や台湾独立派、チベット独立派やウイグル族の過激派との接触する人達です。
 少数民族以外の漢民族の中にも、現在の政策に不満を持つ人達はいます。2006年には集団陳情がもたらす事件は、9万件以上に達しました。市場経済の進展に伴い、経済的資源を独占する経営者層と資源を持たない労働者や農民の対立は先鋭化しています。高度成長を続いているにもかかわらず、所得配分は不公平で、購買力に貧富の差が大きくなっているのです。一連の市場化や改革開放の享受者は、共産党であり一般国民との格差は広がるばかりです。2008年日本を訪れた経営者団体の幹部は、現在の政権が労働者や農民のことばかり考え、経営者の立場を考えていないなどと述べています。また、北京大学の教授は、雑誌の中で陳情者の99%が精神的問題のある偏執者であると発言しています。農村幹部は、農民に対する専制的支配を保ちながら、地区の収入の不足を様々な名目を付けて負担を求めます。1990年の後半から、農民は各地で不合理な負担や重税、そして農民幹部の腐敗に対する陳情を行うようになりました。多くの異議申し立てや集団陳情は続いていますが、共産党の支配を揺るがすまでには至っていません。中国の都市部には、隣組に似た居民委員の組織があります。この組織は相互扶助を支えることが主な役割ですが、公安下請けにもなっています。市場化に伴い、都会では居民委員の力にも陰りが見え始めています。
 2001年ジェトロの調査によると、年間10億円以上の被害企業は11%、1億円以上は31%にのぼるとされています。中国では海賊版が堂々と専門店でも売られています。もちろん路上での安物の海賊版もあります。ブランド名の模倣、デザインの模倣、特許技術の無断使用など進出企業は問題を抱えてます。これらの問題は、弁護士だけでは解決出来ないのが実情です。中国には日本にある法律は全てあります。でも、その法律が日本と同じように機能するかどうかには多くの疑問があります。欧米企業は中国に進出するにあたって、裁判の準備、ネット対策、調査会社との契約など準備をしてきています。中国では、模造品にやられて大きなダメージを受けるか、彼らをたたきのめすかの二つに一つです。模造品をつくる会社を一件摘発するごとに、3000ドルから5000ドルの費用がかかります。これらの調査会社と中国や欧米企業は契約し、自己防衛をしています。もちろん、模造品を摘発する調査会社があるように、模造品をつくる会社を守る調査会社もあります。模造品を製造する組織の裏には、ハーバード出身の弁護士などがいて、脇の甘い企業を狙い撃ちにしています。これらの違法会社は、商標登録や特許申請をちゃんと調べてから、模造品を集中的につくっているのです。日本的感覚では、苦戦するのはやむを得ないと思えます。
 中国市場は、法治ではなく人冶によることもあります。このような市場に米国が強い態度を取れない理由は、中国はすでに米国国債の最大の保有国だからです。中国が米国国債を売り払えば、米国国債のみならず貿易金融の基軸通貨であるドルの信用不安を招きます。さらに、オバマ政権が中国に配慮しなければならない事情は、経済大国になり軍事面でも存在感を高めていることもあります。米国国債の保有が、対米外交の切り札になると中国が考え、米国も様子見の態度を取っています。イラクをはじめ米国が海外で戦争する費用を、米国国債購入で米国を助けているという批判が中国内部にはありました。中国は将来に備えて、ドルに代わる基軸通貨の模索を始めているともいわれています。もちろん、米国は中国と対話を進める一方で、中国に対する警戒を解いたわけではありません。米国は軍事技術を中国に移出することが危険であるという議論は周知徹底しています。米国は高度技術の流出に対してきちんとした基準がありますが、日本には甘い点があるようです。

4,中国との交流
 日本でも中国でも、経済や環境の分野でも有用な人材は不足します。日本と中国はともに有能な人材の取り合いになります。現在の日本的感覚では、若手の有能な人材を雇用できなくなります。日本企業の中国進出ばかりでなく、中国資本の日本上陸も本格化してきました。中国人を雇うばかりでなく、雇われる日本人も増えてきます。雇用の面でも事業の面でも、問題が数多く生じています。中国では正面から行ってダメといわれても、あきらめてはダメで、何らかの方法があります。中国人の思考方法や行動特徴を理解し、円滑な交流を模索すべきです。たとえば、中国人は冷たい食べ物を嫌います。また、中国人に食事の時間に食事をさせないことは、最大級の侮辱になります。店の格や料理の品数や種類、座席で自分がどのくらい重視されているか判断します。米国企業はこれらの情報を把握した上で、消費者との交流を重視し、広報セクションを運営しているのです。日本の企業では、消費者との交流を重視している企業が少ないのが実情です。
 日本人には、中国人の行動不可解な面が見られます。たとえば、中国人は不利な問題に対して、逃げて逃げまくります。中国進出企業の悩みで最も多いことは、「売掛金の回収難」です。中国人社会で「謝る」ことは、責任を負わなければならないことになります。文化革命の時代は、自分の非を認めた段階で辛いことが待ち受けていたのです。多くの犠牲者が出たことは、歴史が証明しています。餃子事件で責任追求を瞬味し、日中関係を危うくする場面でも、責任を明確にすることを最後の最後までしませんでした。偽物食品が中国社会に広く出回っていますが、責任を取る姿勢は少ないのです。中国は絶えず遊牧民に侵略され、脅威にさらされてきた歴史があります。そのような環境は、身近な同族だけを信頼し、他民族に対しては打算とリアリズムで乗り切ることをに鍛えられてきたのです。中国ビジネスは、不合理、不公平、不誠実、不愉快の4つです。中国ではすごいお金持ちでない限り、身の回りのブランド品は偽物であることが中国の常識です。2009年、高級品は中国のほうが高くなっています。日本に来た時に、高給品を買う中国人が増えています。中国の店の品物を、中国を信用しないという不思議なことが起きているのです。
 中国の政策は、国力の伸長とともに変化することを理解することです。尖閣列島の棚上げ論は、改革開放が始まる以前に、中国が日本の経済協力を引き出すまでの路線です。円借款の新規供与が終了した(2008年)後は、棚上げ論が変わるのは当然の成り行きでした。中曽根政権は、ソ連と対立する中国を経済協力や友好関係協力の強化で支援してきました。中曽根首相の靖国参拝が外交問題になるのは、中国共産党内の権力闘争が顕著になる1985年からです。1985年に中国は中曽根首相の靖国参拝を批判しましたが、この時期中国とソ連の緊張関係が緩和していたときでした。ソ連を牽制するための日米安保や日本の自衛力を容認した時期は過ぎ去っていたのです。中曽根と胡耀邦は個人的信頼関係で結びついていました。靖国参拝は、胡耀邦を政治的に窮地に追い込みます。戦前の抗日戦争から親日派のレッテルが、政治の凶器として使われてきた歴史があります。胡耀邦の対日姿勢は、保守派から見ていささか日本に偏り過ぎていたともいえます。胡耀邦に反発する党内保守派は、胡耀邦の対日政策を絶好の標的として照準を合わせて攻撃したのです。胡耀邦から胡錦濤に至るまでの対外政策は比較的穏健で、対日関係を極めて重視してきたといえます。でも、中国国力の充実とナショナリズムの高まりは、日本の実効支配をする地域に対する挑戦は今後ますます強まっていくことになります。
 中国の存在感と大国化を直視することを避ける傾向が、日本国民に出ています。強大な中国が隣に存在する限り、中国なんか嫌いだと言って済ますことのできない時代が来ています。中国を感情論で見ることが多いのですが、感情に流されず事実に即して中国を見る姿勢が求められています。中国で起きる事件を、確度の高い情報を基に観察し、感情論を排した冷静な判断を積み重ねることが必要です。事実の積み重ねから、中国を付き合いやすい相手に変える交渉術を我々は持つべきです。日本の不景気が続くと間違った中国脅威論ばかり先行します。これは日本や中国にとって良いことではありません。中国のことを熟知しているのはチャイナスクールの人達です。今、チャイナスクールの人達は非難にさらされています。この裏には感情論が主体の対中強弁論があり、これが主流になっています。中国と日本のことを研究し理解している専門家が、チャイナスクールとジャパンスクールです。今まで日本では親中派の人がいて、中国側は友好商社や友好人士を選別する狭い交流を行ってきました。中国には日中友好という言葉はありますが、中美友好とか中ロ友好という言葉はありません。不思議な現象です。中国の転換が成功するか否かは、肥大した党内利益集団を、指導部が統制できるかどうかにかかっています。それまでは、日本との軋轢は続くと思われます。中国にとっても、日本は一筋縄ではいかない御しにくい、手強い交渉相手という認識のようです。