ファンタジアランドのアイデア

ファンタジアランドは、虚偽の世界です。この国のお話をしますが、真実だとは考えないでください。

刷り込み・いい加減・真面目  アイデア三題噺261

2019-08-27 16:07:24 | 日記
 日本人は、「いい加減にする」とか「適当にやる」という不真面目なことが大変苦手です。彼らは、赤ん坊の頃から何でも真面目にやることを強いられてきました。働くことの大切さ、ムダづかいしないことの教えに、反対する人は少ないのです。努力して、経済的社会的地位を確保すべきという論理には、なかなか反駁できないものです。多くの人びとが、「いい加減さ」を許さず、明確なものを求める傾向があります。そんな日本の風潮に、変化が見えてきました。蛇足ですが、「いい加減にする」ということは、「良い加減にする」という解釈が成り立ちます。「適当にやる」は、「適切に当を得て行う」という解釈がなりたちます。どちらも、良い意味で使うことも可能になるのです。
 そこで、日本人の真面目に対する姿勢の変化について調べてみました。昔は家に一台のラジオやテレビで、みんなが同じドラマや音楽を聞いて見て楽しんだものです。「笛吹童子」の時間になれば、家族がNHKラジオに耳を傾けていました。テレビがようやく庶民の手に入る頃になると、テレビの持っている家に集まり、相撲やプロレスを見たものです。ぜいたくや華美な服装が、冷ややかな目で見られる風潮もありました。やがて2台目のラジオ、2台目のテレビが当たり前になり、親子でも、違うドラマや音楽を楽しむようになります。親子の心理的離乳が、加速していった時期かもしれません。日本では、「和をもって貴しとなす」という精神が堅持されてきました。でも、海外には、「異をもって貴しとなす」という精神があることに気づき始めます。異なものを受け入れる土壌が、出てきたのです。「和」が正解なのか、「異」が正解なのかを、明確に示すことは難しい命題です。でも、明確に示すこはできなくとも、「和と異」の範囲内に正解があることは、おおよそ理解できます。現在は、重点の置き方の差だということになっているようです。
 国内でも、新しい状況が生まれて来ました。これまでは、60歳前になくなる短命社会でした。多くの人は、老年問題に心をわずらわす前に亡くなっていました。生きていれば、苦しいことも面白くないこともあります。生き生き老いる方法や楽しく生きる方法などは、考えるに値しない問題だったのです。でも、60歳で定年になり、100歳まで生きる人が出てきました。40年間、老と付き合う生活になります。今までに経験しなかった生活に、直面するようになりました。この40年間を、真面目一方だけでは暮らすのが大変だということが認識されるようになりました。例えば、75歳以上の高齢者は、いくつもの疾患を抱えているケースが多いのです。病院に通って治療をしても、身体機能の状態が、若い頃より治療の効果が小さくなってきています。捻挫など2~3日で治っていたものが、1週間も2週間もかかるようになります。高齢者は複数の疾患を抱えている場合、そのすべてを治療することば不可能だということに気づくのです。病状が回復したのは、丈夫になったのではなく、病弱に慣れたということに気づくのです。そして、彼らはどの疾患を治療すべきかという優先度を決めていくわけです。蛇足ですが、高齢者の痛みの閾値は、鈍くなってきています。以前は痛いと感じていたレベルより、痛みが強くならなければ、感じない体になっています。
 多くの高齢者には、「死ぬまではたとえわずかでも前に進めるだけは進むべきだ」とか、「いい加減は悪いものであり、いい加減さを許さない」という刷り込みがあります。でも、世界を見渡すと、白黒はっきりさせない生き方も選択肢として評価されてきました。「良い加減」な生き方が、物事の視野を広げ、思考の柔軟性を高めるとも言われるようになりました。この生き方が、ストレスを軽減し、健康な生活を可能にすることが実証されてきたのです。良い加減な生き方や適当な生き方には、若いうちからの訓練が必要なことも分かってきました。極端な言い方をすると、常に「いかに怠けるか」ということを考える訓練が重要だとも言われるようになりました。幸福な人生の真っ只中で人生を終えたいのであれば、良い加減な生き方を試行錯誤を通じて実現することになるかもしれません。