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海と山と

釣りと近場の山歩きを趣味とするリタイヤおじーのひとりごと

鉛筆キャップロケット

2025-03-31 16:08:37 | 昔の思い出
65年ほど昔、高校生の頃鉛筆キャップのロケット遊びが流行った。
材料は
・アルミ製の鉛筆キャップ(アルミ製は加工しやすい)
・セルロイド下敷き(セルロイド製であればなんでも可)
鉛筆キャップは横にスリットの入ってないものを用いた。
セルロイド製の下敷きの一部をハサミで切り取りそれを燃料に使う。
セルロイドは燃えやすく火力も強いので燃料としては最適だった。
できるだけ細かく切ったセルロイドを鉛筆キャップの中に入れ、口を固い
ものでつぶして閉じる。
本来は針金で加工した発射台に斜めに乗せ下からマッチ等で暖めるのだが
昔は教室にだるまストーブが有ったのでその天板の上に置いてセルロイドが
発火するのを待つ。キャップ内がセルロイドの発火温度に達すると爆発的に
燃焼してキャップの口が開いてガスが噴射し、キャップが勢いよく飛ぶ。
何回目かに先生に見つかり禁止となった。
確かに今考えれば危ない遊びだったと思う。
それに懲りず、友達に鉄工会社の息子がいたのでロケット設計図(単に格好
だけロケット型にしたもの)を書いてそれを鉄パイプなどを用いて見た目
ロケットらしいものを作成してもらった。(全長20cm位だったか)
中にセルロイドを細断していれ(花火の火薬を入れたかもしれない)発射台
に乗せ、下から加熱して発射を試みた
(危険なので板で盾を作ってその陰から監視)
ロケットは下部のブースターから赤い火を噴きだしたが本体が真っ赤に焼け
ただけでびくともせず。
今から考えると爆発しなくてよかったと思うし若さとは言え無謀なことを
して遊んでいたもんだ。

福田公園の桜は2分咲き位。ここ2日ほど気温が下がっているので、一気に
開花とはなっていない。


可愛いモミジの花を見つけた(他人の家の庭で盗撮)


この寒さを乗り越えれば本格的春になると期待している。

花より団子街頭紙芝居

2025-03-23 15:26:50 | 昔の思い出
小学低学年頃の楽しみに街頭紙芝居が有った。
自転車の後ろに飴、せんべいなどの駄菓子と、紙芝居のシートを詰め込んだ
折りたたみ式の画面を積んで大体定刻に紙芝居のおじさんが回ってくる。
私の住んでいたところは空き地が殆どなかったので町のT字路の突き当りに
その自転車を停めて子どもたちを集めていた。
自動車も少なかった時代なので路上紙芝居ができた。
自転車が来ると紙芝居のおじさんが拍子木をたたいて回り紙芝居が来たこと
を知らせ、子どもたちはほかの遊びをしていても中断して集まる。
紙芝居が始まる前にまず駄菓子を売って日銭を稼ぐ。
多分5円くらいの小遣いを使ったと思うが、紙芝居を見るより駄菓子が楽しみ
だった。水飴は二本の箸で練り込み、いかに白くなるかを競争する。棒飴は
舐めて先を尖らせ、いかに格好よく尖ったかを競いそれぞれ1位~3位くらいに
賞品として駄菓子をもっらていた。もしかしたら次回「ただ」だったかもしれない
中でも難しかったのが「くりぬき」。5cm四方位の薄いせんべいに動物などの
絵が打ち込んであり、周りをはがして動物を取り出せれば成功となる。
尻尾の部分などは折れてしまうことが多く中々難しいいものであったが、それが
楽しかった。
お金がない子は遠く離れて紙芝居を見ていた。黄金バットを見た記憶が有るが
花より団子の方だったので良く覚えていない。

福田公園の河津サクラは今(3月23日)が満開。天気も良いし家族連れでいっぱい。





69年前にタイムスリップ

2025-03-18 17:02:53 | 昔の思い出
3月16日に中央区立浜町中学の昭和35年卒のクラス会が東京で有った。
66年振りの再会で有る。当時の担任で有ったS先生も出席くださるとのことで
私も何が有っても出席することにした。集まったのは男性4人、女性2人と先生
の合計7人で有った(泉下の人となった方が8人、連絡取れずの方が23人)
驚いたのは先生がお元気で有られたこと。頭はしっかりしているし、食事も
私より食べ、軽い運動、読書を日常としているとか。現在92歳で千葉から
電車に乗って会場の人形町まで出てこられたと言う。
クラス会が始まるまでの間ホテル(人形町)から歩いて浜町近辺を歩いた。

雨で傘を差しながらリュックを背負っての行動であまり多くを見ることができ
無かったが、昔の面影を楽しむことができた。
私が住んでいたところは浜町3丁目49番地で浜町中学の校庭の前にあったが今は
ビルと駐車場になっていた


裏のどぶ川だった箱崎川は埋め立てられて公園になっている


昔の写真(我が家の裏)を撮ったあたりの面影を探してみた。
これが昔の写真で左が我が家、右が箱崎川、奥の方で隅田川と合流する


現在、堤防は残っているがやはり箱崎川は公園に。




昔、この堤防からドロボーが家の屋根に上がってうろうろしている音が聞こえ、叔父が
怒鳴ったところ瓦を踏み歩く音が聞こえたこともあった。堤防を伝われば簡単に
侵入できるので怖かった記憶がある。

昔、力道山が住んでいたところは大きなマンションと思われるビルが建っている。


時間が無くなったので昔は縁日によく出かけた水天宮をお詣りし、在籍していた有馬小学校
を回ってクラス会会場へ。
私が小学生の頃の有馬小学校校庭


現在の有馬小学校校庭


66年前にタイムスリップした楽しい一日で有った。



少なくなった蠅

2025-03-14 16:11:52 | 昔の思い出
温かくなってきたからかコバエが出だした。外に有るゴミを入れるポリ容器の
中に何匹か見るようになった。
最近ハエをあまり見なくなった。昔に比べ衛生環境が良くなってきていること
によるのだろう。小学生の頃、町内でハエ取り競争のようなものが有った。
何日間か覚えていないが一定期間内にどれだけハエを捕ったかで商品がもらえ
るもので牛乳瓶一杯捕った記憶が有る。それほどハエがいたということだ。
捕まえるにはハエたたきが主だった。今の布団叩きのようなものに網が張って
あり、それで止まっているハエをたたく。時にはべちゃとつぶれることもあり
考えてみると汚い話だ。家の食卓のある部屋の天井にはクルクルとねじれてい
るリボン状のハエ取り紙が2~3本ぶら下がっていた。粘着物が塗布してあり
いつも何匹かハエが付着していた。その他ガラスでできたロートのようなも
のの下が長くなっていて一番下に受け器があるものもあった。下の受け器に
は酢をいれた記憶が有る。
天井に止まったハエにロート状のものを被せ、ハエが飛べなくてガラス管を
下に落ちてきて酢の入った受け器に落ちて死ぬと言う天井のハエとりにはよ
くできた器具であった。
昔はハエは害虫と思っていたが、今ではミツバチの代わりに受粉に使われるハエ
も有るらしい。ハエの幼虫は病気の治療に用いることもあるし、色々な研究
にも使用されているとか。今はハエも人間の役に立っているのだ。

今の時期、歩いていても気持ちよい。梅も今が見ごろ。

中学での映画鑑賞

2025-03-07 15:31:56 | 昔の思い出
映画と言えば思い出すのが66年前の中学3年生の時、浜町中学の2年、3年生
全員が洋画を学校として観に行った。社会見学なのか単に映画観賞なのかよく
分からないまま観に行った。しかもその映画の題名は「白銀は招くよ」だった。
西ドイツの映画で主演は冬季オリンピックのアルペンスキーで回転、大回転、
滑降で金メダルを取って一躍有名になったトニーザーラー。もちろん映画では
滑降の場面がふんだんに出てきた記憶が有る。ストーリーはもう忘れてしまった。
事件解決で山に派遣され、最後は主演女優さんと恋仲になる話だったと思う。
キスシーンなどが映し出されると男子生徒はニヤニヤ。女子生徒は「キャー」。
よく学校で行く映画として選んだものだとその当時でも思った。
記憶に残っているのは、確かスキー場だったと思うが女の人がトニーザイラー
役の青年に好意を寄せるがそれを伝える方法として、手鏡で太陽の光を反射させ
その青年の顔に照射させると言う場面。これが学校でも流行って校庭(25m四方
位のアスファルトの校庭)で遊んでいる男子生徒に反射光を当てると言うのが流行
った。私も2年生の女学生から何回か照射された記憶が有る。ただ残念なのが、
その娘についてはあまり興味がなく照射されてたからと言ってときめきは無かった。
その当時思いを寄せていた娘がいたがその娘がしてくれないかなと内心思ってい
たが叶わなかった。今でもあの時代に学校として観に行った映画として何を求めて
いたのかわからない。3月16日に中学のクラス会があり先生もお元気に出席してい
ただける(91歳)ので聞いてみたい

紅梅の中に白梅が映える。ウォーキングコースにて



昔よく見た映画

2025-03-02 10:35:35 | 昔の思い出
最近はめっきり映画を見なくなった。映画館に行くのが面倒だし2時間物のドラマを
毎日テレビで放映されていることからそれで満足している。
小学生の頃、叔父によく連れて行ってもらったのはウオルトデズニーの映画だ。
アニメではピノキオ、ダンボなど。白黒の映画しか見たことのないものにとっては
何と奇麗な映画だろうと思った。日本のアニメは一寸法師も見た記憶が有るが、ディ
ズニー映画の方が映像が鮮やかだし動きもスムーズだったのに驚かされた。
その他「砂漠は生きている」「滅びゆく大草原」なども感動した映画である。
日本映画ではもっぱらチャンバラもの。「笛吹童子」「紅孔雀」「里見八犬伝」など
はよくお正月のお年玉で見に行った料金は小学生で50円くらいだったと思う。
小学生が一人で行くわけないので叔父に連れて行ってもらったのか?
「東千代之介」「中村錦之助」がそのころの英雄であった。
「片岡千恵蔵」の「多羅尾伴内」シリーズも興奮する映画であった。
今ではテレビのドラマで満足しているが、サスペンス物は面白いのだがストーリーが
複雑で、登場人物が多くて覚えきれず、筋を理解できないまま見ていることが多い。
老化が進んでいる証拠だろう。水戸黄門のように勧善懲悪、単純ストーリーが楽しく見
やすく、今の自分の脳には丁度良いのかもしれない。以前、養護施設に行ったときに
水戸黄門がテレビで放映されていたが、お年寄りが集まってみていた。気持ちが
分かる年になってきた。

ここ2~3日暖かい日が続いている。それにつられてウォーキングコースの梅の開花
が進み見ごろになってきている。梅は2~3分咲き位が一番見頃と思う





ゴム銃遊び

2025-02-24 15:35:04 | 昔の思い出
忍者ごっこと同じように使われていない倉庫で遊んだのが「ゴム銃」での遊び。
「ゴム銃」は自分で作る。この作る過程が楽しかった。銃身の長さをどれくらい
にするか、銃床はどんな形にするかなど考えながらいかにかっこよく作るかを考
えるのだ。
工作用の角材を買ってきて、銃床部分は我が家が工務店だったのでその残材を使って
作った。部材の木は使用中に棘など刺さらないように紙やすりで丁寧に仕上げる。
その後、絵具で色を塗り銃床にはお気に入りの模様を描いたりした。
一時期はライフル仕様なども含めて5挺位持っていた。
思い出して書いたのが下の図。


使い方は先端の輪ゴム①に2cm四方くらいに切った厚紙を挟みタマ挟みまで引き延ばし
厚紙(タマ)ごと挟む。目標に狙いを定め引き金を引くとタマの厚紙が飛んでいく
仕組みだ。
ゴムの強さ、銃身の長さにもよるが5mくらい離れた新聞紙などは打ち抜いてしまう。
一度友達の顔に当たっておでこに切り傷を負わせてしまったことがありそれ以来この
遊びは止めた。「忍者遊び」の十字手裏剣といいこの「ゴム銃」といい危ない遊びを
していたと思う。
孫が小さい時一緒に思い出しながら作ったが、タマとして厚紙は使わず輪ゴムを飛ばす
ものにした。


忍者遊び

2025-02-22 12:48:04 | 昔の思い出
小学生時代~二十歳頃まで住んでいた日本橋浜町三丁目付近を流れていた箱崎川は隅田川
日本橋川、浜町川を利用する水運の中継点として多数の船が行き交っていた。そのため川岸
には倉庫が多数建てられていた。私が小学生の頃(70年くらい前)、料亭、割烹と並んで
倉庫も多くあり殆ど使用されていない倉庫も多数見られた。それらは子供たちのの隠れ家、
遊び場となっているものもあった。特に廃材置き場と化した建屋は雨が降っても遊べるので
絶好の住処となっていた。よく遊んだのが忍者ごっこ。板に人型を描き物陰から一瞬顔を
出して5個程度の十字手裏剣を投げ刺さった点数を競うものだった。十字手裏剣は2~3mmФ
位の銅線(叔父の家が工務店をやっていたので電線の余りが有った。被覆を小刀ではがた
もの)を7~8cmに切り、金づちで叩いて平板にし両端をやすりで削って尖らせ十字にクロス
させ。中心をタコ糸を撒いて固定。さらに重量を増すためタコ糸の量を増やし、ニスを何回
も塗って仕上げる。出来栄えを競うため、タコ糸のの上から色のついた糸を飾りで巻くこと
も有った。銅線の代わりに釘の使用も試したが、硬くて加工できなかった。
投げると板に「ブス!」と音を立てて刺さり気分はまさに「忍者」だった。
いまから考えると、かなり危険な遊び道具であった。だから面白かったのかも。

今日も寒い。と言うより冷たい。風が吹くと耐えられない。
そんな中、今日もウォーキング。
早咲きの梅は大分開花してきた。これで暖かさが有れば最高だが。



釣りを始めた記憶

2025-02-19 10:04:58 | 昔の思い出
釣りを本格的にやりだしたのは昭和50年頃からだ。投げ釣りでのカレイ、キス
等を狙っていたが、昭和54年頃チヌ釣り人を見てからチヌにとりつかれた。
釣りを始めたのは70年くらい前の小学高学年の頃ハゼ釣りを始めたのが最初だった。
竿は今のように振り出し竿ではなく繋ぎ竿であった。一本の竿が4~5本に分かれて
おり、使用するときにつないで一本にするもので値段はピンキリであった。
当然子供が使うので安いものであった。竿が短く、道糸もあまり長くできないので
手元で15cmの幅で1cmくらいの竹ひごを打ち込んでそれに糸を巻き付け状況に応
じて道糸を長く使ったり短くしたりして使用していた。ガイドも銅の針金を加工し
て作り、太めのタコ糸で巻いて固定し、ニスで仕上げたりした。
釣り場は確か葛西橋当たりだったと思う。日本橋浜町からの交通手段が何であったか
覚えていない。釣果も記憶にない。当日は日照りが強かったのであろうひどく日焼け
したのを覚えている。半袖のシャツに半ズボン、長靴で釣りをしていたので顔と腕、
膝上15cmからひざ下30cm位が真っ赤に日焼け。次の日プールの授業が有ったとき
縞模様に日焼けした姿を見られるのが恥ずかしかったことがすごく記憶に残っている。
いま、倉敷の呼松漁港で時々ハゼ釣りをしているのを見かけるが、そのたびに当時の
ことを思い出す。

またまた寒波がやってきた。豪雪地帯はやりきれない気持ちだろう。幸い倉敷は
殆ど雪が積ることもなく、降ることさえ全くと言ってよいほど無いが寒さは
豪雪地帯に負けないくらいに気温が下がる。
今日も寒い中のウォーキングをしてきたが、コースに有る梅の木は確実に春が
すぐそこまで来ていることを告げている。



チャルメラの郷愁

2025-02-14 10:52:39 | 昔の思い出
先日「チャルメラ」の音色を聞いた。軽トラでラーメンを売りに回っているのだろう
チャルメラの音はなんとも言えない郷愁を感じる。昔の人はチャルメラを吹いていたが、
今は録音したCDなどが売られていてそれを流しているのだろう。
昔は「しなそば」とか「夜泣きそば」といわれていて「ラーメン」とは言っていなかった
と思う。人力の屋台で回ってきて持って出たどんぶりに盛ってくれた。
昔は色々なものが独特の売り方で回ってきていた。「やきいも」売りも回っていた。
「ヤ~キイモ~」と声を出して回っていた。行燈のようなものが設置されていて外側
に「栗よりうまい13里半」と書いてあった。単に栗より旨いよと言うことかと思って
いたが落ちがあり「9里、4里」で13里となるがそれより半里旨いと言うことである
事が後でわかった。「豆腐売り」も良く回ってきた。自転車の荷台に木の箱を積み、中
には氷水と豆腐が入っている。よく器を持って出て買ったのを覚えている。
呼び込みは独特のラッパ。風船みたいなものを押すと音が出るものであった。
「納豆売り」もほぼ毎日回っていた。「ナットナット~ナット」と言い売り歩きの声が
忘れられない。他に「金魚売り」リヤカーに三段棚を積んで金魚鉢を載せ
「キンギョ~エキンギョ~」と言いながら売り歩く。
夏になると「風鈴売り」も回っていた。これは何も言わなくてもすぐにわかる。
魚も売りに回っていたが、これは各家に声をかけて御用聞きのような売り方を
していたと思う。
チャルメラが思わぬ思い出をよみがえらせてくれた。
商店街ができ、その後スーパーができ売り歩きはすっかり影を潜めた。

10年に一度という寒波が抜けて今日は暖かい一日であった。
やっと梅の花も開き始めた。ウォーキングコースにある梅の木も一輪程度開花して
春が地数いていることを知らせてくれている。