goo blog サービス終了のお知らせ 

海と山と

釣りと近場の山歩きを趣味とするリタイヤおじーのひとりごと

死にそうになった思い出ー2

2025-06-25 17:02:48 | 昔の思い出
もう50年以上前の話であるが蓄膿の手術で死にそうになったことが有る。
今では蓄膿手術と言えば内視鏡を用いてそれほど痛みもなく出来るようだが
昔の手術は今思い出してもぞっとするものだった。
上唇と上歯の歯茎の間を切開し、頬骨をそれこそノミと金づちで叩いて穴を
あけ、内部の皮膚を削り取ると言うもので有った。頬骨を削るときの頭への
刺激は何とも言えない不快感で有った。
手術が終わってからガーゼを鼻に詰める(左右両方を一度に行ったので息が
苦しかった)が、普通2日目くらいから出血が殆どなくなるらしいが、この時
は垂れる位の出血が4日ほど続いてた。手術の時「ちょっと出血が多いな」と
先生が話していたのは覚えている。
4日目にガーゼを抜いた所、一気に出血。最初は粘度のある血液だったが徐々
にサラサラになりそのうち身体が痺れてきて「このまま死ぬ」と思った。
血圧が下がったためか出血が緩やかになった時点で鼻から紐を入れて喉に
通し、先にガーゼを取り付け外から引っ張り喉がわに栓をし、外からは鼻の
穴にガーゼを突っ込み何とか止血。輸血車を依頼して600mlを輸血。その後
救急車で国立病院へ移送された。国立病院でも少しガーゼを外しただけで出血
し、膿盆で受けたが3回ぐらい入れ替える量が出血。歯茎を再切開し出血部を
焼いてガーゼを詰めて何とか出血を抑えることができた。
この時は生の血液600mlを輸血。
一週間くらい経過してガーゼを抜くことになったが、念のため4人ほど職場の
仲間で同じ血液型の人に待機してもらった。幸い出血もなく回復に向かった。
ところがかなり良くなってきた時点で抜き取ったガーゼの数が一枚足りないと
言うことで再度歯茎を切開。しかしガーゼは無かった。
とんだ蓄膿手術だった。
最初に手術したのは個人病院で先生は手術翌日、翌々日とゴルフで不在。
出血を知っていたがそのうち止まるといって気にも留めていなかった。
国立病院で聞いた話では鼻の動脈を切ったことによる出血とのこと。
普通一週間くらいで退院できるのが40日もかかってしまった。
命が助かってそれまでの人生の2倍生きている。

蒸し暑い日が続いている。陽が照りつけないだけましである。
小雨に煙る福田公園も切り取り方で幻想的になる。


白鳥の卵は親が包卵してから優に40日以上経つ
今年も無精卵だったか。親はそれでも温め続けている。哀れ。

ミスタープロ野球

2025-06-03 17:14:11 | 昔の思い出
今日、「長嶋茂雄氏が亡くなった」のニュースが飛び込んできた。私の青春時代の
ヒーローだった人だ。小学生の頃から巨人ファンで水原監督の時代から巨人を応援
してきた。
その頃記憶に残っているのが日笠選手の代打、逆転、さよなら、満塁ホームラン
だ。ラジオで聴いていて興奮したのを覚えている。
私が中学2年生頃に、大学で大いに活躍した長嶋選手が巨人に入ると言うことで
一層巨人を応援するようになった。長嶋選手で記憶にあるのは、入団一年目の
デビュー戦で当時の国鉄スワローズの金田投手から4打数4三振を喫したことだ。
テレビ観戦したが金田投手を憎らしく思った。
いくら大学で素晴らしい活躍をしてもやはりプロでは通用しないものと思ったが
シーズン終了時に本塁打王、打点王の二冠そして新人王に輝く素晴らしい成績を
した。さすがである。
もう一つの記憶は翌年だったと思うが天覧試合だ。同点で迎えた9回に天皇陛下
の前でサヨナラホームランを打った時だ。これもテレビ観戦していて大いに興奮
した。格好いいな~と思いながら大興奮したのを思い出す。このブログを書いて
いても胸がドキドキしてくる。訃報を聞いていろいろ思い出が駆け巡ったが、
一時代の終わりを感じてしまう。

ウォーキングの途中でよく見かける花。名前は分からない。
女郎花のように見えるが花の色がちょっと違う。

ピンポンダッシュ

2025-06-02 16:07:37 | 昔の思い出
今日、玄関インターホンの電池交換を行った。
最近の住宅は殆どインターホンが設置されている。それもワイヤレスが
多い。
70年以上前(小学3~4年生)のことだが、私の住んでいた近辺は空襲から
免れた建物がチラホラあったが、何軒かは新築の家を建てていた。
大きな敷地に真新しい家ができ、門塀に呼び鈴が取り付けてあった。
今のようにインターホンではなく「ピンポン」でもなく「チン」だけだった
と思う。なぜ他所の家の呼び鈴の音色まで知っているかと言えば、今で
言うところの「ピンポンダシュ」で遊んでいたからだ。
呼び鈴を押しては駆け足で逃げるだけだが、いたずらの楽しさと、逃げる
スリルを味わっていたのだろう。2~3回同じ家でピンポンダッシュをやったが
現場を近所の人に見られ、叔父(育ての親)に連絡が入り、当然怒られた。
正座させられ、思い切りビンタを張られた。叔父叔母は普段は優しい人で
有ったが、悪いことに対しては徹底的に厳しく、一緒に生活していた従兄
(叔父の本当の息子)にも厳しかった。
自分の息子と分け隔てなく育てていただいたことに本当に感謝している。
今あるのもそのおかげだと思っている。

昨日、釣りの状況を確認に水島港へ行ってみた。対岸でチヌ釣りらしき釣り
人を確信したが、遠くて釣果などは分からず。


歩いた岸壁では疑似餌でイカを狙っている人を見かけたが、釣果は不明。
釣りに行きたいが妻の病院予定や潮、天候、風の強さなどを考慮すると
なかなかタイミングが合わない。とりあえずウォーキングで暇をつぶし
ている。
ウォーキング途中で見かけたアヤメ(多分)。初夏を感じる。



ゲルマニユウムラジオの思い出

2025-05-26 15:09:32 | 昔の思い出
今年はラジオ放送が始まって100年目らしい。
ラジオ放送と言えば「君の名は」である。これが放送される時間になると
銭湯の女湯がガラガラになったとか。確かに叔母もこの放送を聞いていた。
私の時代で思い出に残るのは「三つの歌」「昼のいこい」。
「昼のいこい」は今も続いているのでもう72~73年続いている長寿番組と
言うことになる。
まだ十代の頃、ゲルマニュウムラジオ作りに夢中になったことが有る。
多分「子どもの科学」と言う本だと思うけど作り方が書いてあったので
それをもとに部品を秋葉原まで買いに行き、コイルも手巻きで作り接続は
初めての半田づけ。
バリコンの意味だとかコンデンサーの役割など特に理解したわけではなく
ただ書いてある部品を集め表示に従ってつないだだけ。
アンテナ線を家の中に張り巡らし、アース線を水道管に接続した
と思う。
1台目は何も聞こえず失敗。2台目はしっかり聞こえるものができた。
イヤホーンから声が聞こえた瞬間の興奮は今でも覚えている。
ラジオのケースも木で作り、しかも継ぎ目は組木作りで仕上げた。
家が工務店だったので道具は何とかなった。仕上がりはどうだったか覚えて
いない。
小さい頃から叔父が家の設計図を書くのを見ていて大きくなったら設計か
モノ作りの仕事をしたいと思っていた。今では家の棚、椅子などの手作り
程度で結局仕事は化学会社に就職してモノづくりの現場をまとめる仕事に
就いた。モノづくりは楽しい。

福田公園の池では白鳥が卵を温めている。


3,4年前にも5羽のひながかえり可愛い姿を見せてくれたが、今回もそれが
見られそう。もう10日以上経つのでそろそろと思って毎日見ているがなか
出てこない。楽しみだ。


神田祭の思い出

2025-05-14 16:53:51 | 昔の思い出
先日テレビで神田明神の祭りが放映されていた。この時期神田祭として
日本橋界隈はお祭りに沸く。私の幼少時代に住んでいた日本橋浜町三丁目
でもこの神田明神の祭りに合わせて神輿、山車が出る。
テレビに映る神輿担ぎでは掛け声は「ソイヤ!ソイヤ!」だ。昔は「ワッ
ショイ」だった。美空ひばりの「お祭りマンボ」だって「ワッショイ」だ。
でも「ソイヤ」の方がリズム感がよいかも知れない。
祭りが有る何日かは小学校も休みか半ドンだった記憶が有る。
お祭りよりも学校が休みと言うのがうれしかった。
町内のメインストリートに櫓が組まれ、お囃子や演芸が行われていた。
漫才で「内海けいこ、よしえ」が来たのを覚えている。まだ全国的に売り
出す前だったと思う(70年くらい前)。
倉敷では神輿が出るお祭りは無い(知らない)。
神輿がでて担ぎ手の掛け声を聞くと気持ちが昂るのは、この思い出の
おかげだろうか。

今日は気温は夏日であったが湿度が40%程度と低く、過ごしやすかった。
久しぶりに妻と二人でドライブ。とは言っても1時間ほどで着く笠岡市の
「菅原神社」へカキツバタを見に行っただけ。盛期は過ぎていたがメガネ
橋に映えていた。




新聞配達の思い出ー3

2025-05-07 10:29:52 | 昔の思い出
新聞配達の思いがもう一つ有った。
私の受け持ちは最初のうちは新聞を肩にかけた紐で抱えて徒歩で配達できる
範囲で有った。多分100部位を受け持って、二回に分けて配達した記憶が有る。
朝日新聞の販売店だったが、合わせて日本経済新聞、日刊工業新聞、日刊スポ
ーツも扱っており、配達に出る前にそれらを順番に朝日新聞の間に挟み込んで
いく。配達するときは頭の中で「次家は●●新聞」と考えながら実物と合致する
ことを確認して配達する。当時は玄関に郵便受けが無い家も多くあり扉の隙間
から差し込むことが多かった。
先輩たちは配達の時に新聞を「キュッ、キュッ」と鳴らしていて、それが格好
良くて色々真似してみたが最初のうちはなかなか鳴らない。そのうちコツを
つかめてなるようになった。印刷の油が指に馴染むと大きな音が出る。
厚みのある新聞は鳴り難いが夕刊などは案外簡単できるようになった。
夕刊は玄関の扉を開けて投入することが多く
「キュッ、キュッ」「夕刊で~す」と声をかける。この時が最高に気分が良かった。
雨の降る日の配達は一苦労。肩にかけた紐に抱えた新聞の束をビニールシート
で覆い濡れるのを防いでいたがそこから新聞を抜き取るときにどうしても雫
で濡れてしまう。今だったらクレームものかもしれないがその当時は多少は
多めに見てもらえた。時代が変わっても新聞配達は大変な仕事だ。

今日でゴーヤ、キュウリの棚が完成。今年も美味しい野菜が食べられるかな?
右がゴーヤ、左がキュウリの棚


新聞配達の思い出ー2

2025-05-06 08:42:04 | 昔の思い出
高校1年(65年位前)の夏休みから新聞配達を始めた。親戚の家が新聞屋さんで配
達員に欠員ができたので応援依頼があり夏休み中だけとの約束で手伝うことに。
下宿生活で、大学生二人と起居を共にした。食事も食堂で大学生と同じものを
食べる。
10畳くらいの部屋に大学生用の机が二つあり、その畳敷きの部屋で寝る。
朝に布団をたたんで押し入れに入れることになっているが、大学生たちはたたんだ
まま出しっぱなし。
夕食が終わると、手ぬぐい、へちまたわし、洗面器、石鹸を持って銭湯へ出かける。
大学生たちは銭湯の帰りに「モツ煮」屋へ寄って「みそ煮込み」を好んで買って帰っ
ていた。それを窓辺の狭い所に置き、ギターを弾き始める。
今思うと「これぞ昭和!」という感じで、「かぐやひめ」の世界。
親戚と言うこともあっって集金も担当させられた。今のように「振り込み」制度
が無かったので一軒一軒歩いて集金していた。
夏の暑さで参っている時に今で言うところのマンションへ集金に行ったとき、短パン
とブラジャーだけで中年の奥さんが出てきてお金を払ってくれた時は目のやり場に
困ってしまった記憶が有る。集金の時そのマンションに行くのが楽しみで有った。
夏休みだけと言うことだったが配達員が応募してこないので11月まで続けた。
夏の間は朝5時頃でも明るいが、11月となるとまだ真っ暗。マンションの中に入って
行くと自分の足音が響き、お寺への配達では何とも言えない恐怖感を覚えた記憶が
ある。その時期になると嫌で嫌で仕方なっかた。幸い冬前に次の人が入ってくれて
助かった。

モミジの葉の間に竹とんぼのような葉が。
果して木の葉はどうなるのだろう。経過観察してみたい


ウォーキング途中の家の庭にはカキツバタ?が。春ですね~。


新聞配達の思い出

2025-04-30 20:27:36 | 昔の思い出
先月(3月)中学のクラス会に行った時、その前日に同期入社の何人かが
集まってくれて懇親会。場所は品川駅前の居酒屋。
品川駅も大きく変貌して高層ビル群の街になっている。
65年ほど前に田町で新聞配達をしていたころは殆どビルらしいものはなかった
記憶が有る。配達範囲は田町と品川の間ぐらいから品川の運河沿いまでで徒歩での
配達で2時間くらいかかったていたと思う。
品川の運河沿いには船上生活者が多くいて、そこにも新聞を配達していた。
船と船はロープでつながれており、船上には物干しが有ったと思う。
船と船の間をぴょいと飛びながらの配達で有った
今は運河沿いまで行ったことが無いので今でも船上生活を見ることができるのか
それとも運河は埋め立てられて護岸は整理されているのか。多分後者だろう。
親戚の家が新聞屋で、欠員が出てしまって応援を頼まれ2~3日指導を受けて
即に一人で配達に回った。100部くらい配達したのではなかろうか。
一回では持ちきれないので2回に分けて配達していた記憶が有る
同期会は必ず品川で行う。都内在住者と川崎、横浜在住者が集まりやすい場所と
言うことで品川が選ばれている。駅を降りるたびに昔を思い出す。

今の季節、ウォーキングには最適。少し汗ばみ春風で冷やされ気持ち良い。
福田公園のツツジも満開。






目に恐怖の麻酔注射

2025-04-19 12:55:43 | 昔の思い出
妻が心筋梗塞で倒れてから1年半になる。しかも間質性肺炎まで患って薬も
沢山服用している。先日白目が真っ赤だったので眼科へ行ったら「血液サラ
サラの薬を服用しているので仕方ない」と言われ目薬を処方され今は治っている。
白目が真っ赤と言えば小学校高学年の時(70年ほど前)にトラホームに罹ったこ
とが有る。昔は衛生状態が悪かったためかトラホームが流行ったのだろう。
治療は手術と言うことで、瞼の裏側の皮膚をはがして膿粒の部分を焼く手術
だったと記憶している。目に注射で麻酔をするが「目はとじないで」と言われ
注射針がグッと近づいてきた記憶が今でも鮮明の覚えている。目に針を刺され
る恐怖でその後のことは良く覚えていないがコテか何かで焼いているのは覚え
ている。両目だったので何日か後にもう片方をやったのだろう。これもあまり
覚えていない。幸い今のところ白内障の兆候もないので目に注射することも
無いだろうと思っている。

福田公園の花はサクラからツツジに変わりつつある



寄生虫駆除

2025-04-12 10:55:25 | 昔の思い出
3月中頃から胃痛、腹部痛、吐気、背痛が続いていた。
胃腸科専門病院へ行って胃の内視鏡、腹部エコーを行うも異常なし。
下痢も時々あり大腸の内視鏡も実施。これも問題なし。その間処方
薬を服用していたが良くならず。念のために血液検査(腫瘍マーカー)
を実施したが異常なしの結果。クスリを変えてから徐々に良くなり今は
すっかり以前の状態になった。クスリが効いたのか検査で異常なしの
結果でホッとしたのが効いたのか。多分後者。
腹痛で思い出すのが小学生の頃の「回虫駆除」
多分軽い腹痛が続いていたのだろうし痩せていたこともあって肛門に
絆創膏のようなものを当ててサンプルを採取して顕微鏡検査をしたの
だろう、回虫駆除が必要と言うことになり駆除薬を飲んだ記憶が有る。
その翌日、驚く光景に出会った。家のトイレはまだポットン便所だっ
だったので股の間から便を見ることができる。出てきた便はうどんを
数本絡ませたような長い筒状の白い便がでて、その一本一本が動いて
居たのだ。自分でも恐怖を感じたと思う、すぐトイレから出て叔母に
伝えた記憶が有る。
私は5歳くらいまで母親の姉が住む愛媛の田舎で育った。(父親は戦死、
母親はその後病死)その時に農作物などから感染してしまったのだろう。
今では人糞肥料などないので回虫などほとんどいないのではなかろうか?
今になってNetで調べてみると回虫が寄生したまま放っておくと取り返し
のつかないことになることをした。恐ろしい。

いま福田公園のモミジは花がいっぱい。