(48)札幌大通り公園の歌碑 昭和56年9月建立(『一握の砂』より)
札幌大通り公園の歌碑
しんとして幅廣き街の
秋の夜の
玉蜀黍の焼くるにほひよ
北溟書
啄木は、明治40年、函館から札幌に来て、9月14日から27日までの2週間を北門新報で過ごし、小樽に旅立ちました。この歌碑は石川啄木の没後70年を記念して昭和56年9月14日に建立されました。建立日の9月14日は啄木が初めて札幌の地に足を踏み入れた月日です。
碑の側面の「秋風記より・・」
碑の側面の「秋風記より・・」
歌碑側面には『「秋風記」より「札幌は寔に美しき北の都なり。初めて見たる我が喜びは何にか例へむ。アカシヤの並木を騒がせ、ポプラの葉を裏返して吹く風の冷たさ。札幌は秋風の国なり、木立の市なり。おほらかに静かにして、人の香よりは、樹の香こそ勝りたれ。大なる田舎町なり、しめやかなる恋の多くありさうなる郷なり、詩人の住むべき都会なり。 明治四十年作 」』 とある。
啄木日誌(明治40年)
9月18日 せつ子より小樽発のハガキ来る、函館を十六日夕出立せしが、停車場までは岩崎並木大塚の諸君及びお幸ちやん秀ちやん、吉野の潔さん等見送りくれし由、諸友の好意謝するの辞なし、
9月23日 小国君より話ありたる小樽日報杜に転ずるの件確定。月二十円にて遊軍たることと成れり。函館を去りて僅かに一旬、予は又茲に札幌を去らむとす。凡ては自然の力なり。小樽日報は、初号は十月十五日発行すべく、来る一日に編輯会議を開くべしと。野口君も共にゆくべく、小国も数日の後北門を辞して来り合する約なり。
9月27日
午前北門社にゆき、村上社長に逢ひて退社のことを確定し、小樽に向ふこととせり。滞札僅かに十四日、別れむとする木立の都の雨は予をして感ぜしむること多し。午后四時十分諸友に送られて俥を飛ばし、海を見て札幌を忘れぬ。 なつかしき友の多き函館の裏浜を思出でて、それこれと過ぎし日を数へゆくうちに中央小樽に着す。