田舎生活実践屋

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朝ドラの「らんまん」に出てくる、主人公の親友(2023/7/7)

2023-07-07 13:53:14 | 田舎で読んだ本
NHKの朝ドラ、明治以降の世相を反映したドラマが毎回。
今は、植物学者の牧野富太郎をモデルにした「らんまん」。
 半分ほどは見ているが、なかなか面白い。

 牧野富太郎の名前を初めて聞いたのは、私が小学生の時、映画のニュース番組(当時はテレビがないので、映画の合間にニュースを映写)に、植物学者で世界的に有名な牧野富太郎博士が亡くなったというもの。
 世界的に有名という説明があり、当時、戦争に負け、貧乏で、世界に誇るもの皆無と思っていた日本に、世界的に有名な人がいたのかと、嬉しくなった記憶。
 牧野富太郎は1862~1957まで生きた人で、このニュースは私が8歳の時のニュース映画。

 その後、名前は知っているが、詳しいことは知らなかった。
高知の友人が企画してくれた高知旅行で、牧野富太郎記念植物園に行って、その昔見た、ニュース映画の記憶がよみがえったことも。
 また電力の鬼の松永安左エ門の登山日記に、尾瀬が原で、牧野富太郎が、馬にいっぱい積んだ草花を、持ち帰ることはならんと、尾瀬の平野長蔵氏から、説教を食らったという話が、こんなことをしていた人かと思い出したり。

 今回の朝ドラは、東大の植物学教室に出入りして、実力を教授から認められるも、小学校中退、虫けらのような君に、発見した植物の発表の道はない、俺の下請けをしろと、ダメだしされた場面。
 その後、登場したのが、ドラマでは、広瀬裕一郎という名前の、高知での、藩校時代の親友。
 この親友も苦学して、東京に出て、最後は官費で学べる札幌農学校で、土木を勉強したということ。
 広瀬氏の教授への痛烈な批判、土木工事でも現場作業員は虫けらのような取るに足りないと思われているが、これからの新しい日本は、この虫けらのような日本人の力で作っていくと。
 大学のルートでしか新種の植物の発表できないと教授が言うが、上野の博物館に牧野富太郎の知人がいるのだから、そこを訪ねたらどうかの、絶妙のアドバイスも。

 その痛快な、広瀬裕一郎に拍手だが、いったいどういう人がモデルかと、気になり、ネットで検索、すぐ、分かりました。
 広井勇という人物で、高知出身、札幌農学校の2期生で、内村鑑三、新渡戸稲造といった、近代日本の礎を築いたクリスチャンと同級生。
 土木技師として、日本で仕事をしたあと、自費で苦労してアメリカに渡りミシシッピ川の改修工事に現場作業員として入り、技師としても優れた論文を発表、帰国後は、小樽港の港湾建設を行なった。
 現在の小樽港は、この工事のお蔭で発展。
建設現場では、率先して現場作業をした、札幌農学校、東京大学でも教鞭をとり、優れた港湾・橋梁土木の技術者を沢山育てた人物。
 大学の講座制度に代表される、権威主義的なやり方には、同調しなかった人らしい。
 
 広井勇氏の経歴を詳しく調べた記事があり、どこかで見た写真が。
ありました、時々読んでいる、内村鑑三の「一日一生」の中に。
 洗礼して50年を記念して集まった、内村鑑三、新渡戸稲造らの写真。(冒頭)
 ここに広井勇氏の姿が。
この写真を撮った4カ月後に、広井勇氏は亡くなったとのこと。

 広井勇氏が、港湾土木の日本のバイオリアで、後継者を多数育てたというくだりで、私が22歳の学生の時、どんな仕事についたものかと、思案して、訪ねたことのある、先輩を思い出した。
 飯嶋十郎という、昭和8年、東大の土木学科を卒業した、私が当時暮らしていた同志会という小さいキリスト教系の学生寮の先輩。
 この先輩を訪ねたのは、当時、学生の指導をしていた、高瀬恒徳という聖公会の牧師さんが、この先輩の話をして、建設省にはいり、銚子港の建設に携わった方で、今は、奥さんの実家の芦屋の三田谷治療療育院という、知的障害児の施設で責任者として働いているという話がきっかけ。
 突然の訪問もこころよく応対してくれて、寿司をご馳走になり、広い畑のある施設を見学した思い出。
 この飯嶋氏は、広井勇が亡くなった後、大学に入っていると思うので、その弟子から教わった孫弟子だったと思われる。知識だけでなく、幅広いものの見方も受け継いでおられたものと、今推測しているところです。
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