<詩篇 130>
深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
主よ、この声を聞き取ってください。
嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
主よ、あなたが罪のすべてを心にとめられるなら
主よ、誰が耐え得ましょう。
しかし、赦しはあなたのもとにあり
人はあなたを畏れ敬うのです。
私は主に望みをおき
わたしの魂は望みをおき
御言葉を待ち望みます。
わたしの魂は主を待ち望みます
見張りが朝を待つにもまして
見張りが朝を待つにもまして。
イスラエルよ、主を待ち望め。
慈しみは主のもとに
豊かな贖いも主のもとに。
主は、イスラエルを
全ての罪から救ってくださる。
<キリスト品川教会 吉村和雄牧師のメール>
この詩は嘆きの詩です。
これを詠っている詩人は、深い淵の底に落ち込んでしまっています。淵とは、沼や湖の深い所です。深淵という言い方があるように、単に深いというだけでなく、果てしない深さを意味します。決して浮かび上がれないような深さ、絶望せざるを得ないほどの深さです。そこへ落ち込んでしまったのです。
どうしてそんなになってし まったのか。三節に、罪のことが書いてありますから、自分の罪が原因であることは確かです。自分の罪のために、大切な友人を失ってしまったのでしょうか。あるいは、自分の罪のために、家庭が崩壊してしまったのでしょうか。あるいは、罪のために、周囲の人々の信頼を失い、誰からも相手にされなくなってしまったのでしょうか。悔やんでも悔やみきれない、自分の罪です。それが、取り返しのつかない結果を生んでしまった。今はまったくのひとりぼっちになってしまいました。
こういう状況になった時に、人はどのようなことを考えるものでしょうか。ふと死の誘惑にかられるかも知れません。絶望して死んでしまう。それもひとつの道です。しかし、ユダヤ人は決してそうは考えません。聖書に自殺の記録が全くないわけではありませんが(イスカリオテのユダなど)でもごくまれです。それはやはり神さまを信じているからです。この詩人も、調子のよい時には、神さまを忘れていたのかも知れません。でも、痛恨の罪を犯して、ひとりぼっちになって、神さまを思うのです。誰にも顧みられないこの穴ぐらの底も、神さまの目には見えている。そのことを思い起こすのです。それ以外に、望みはないからです。だからそこから、神さまに向かって叫ぶ。誰も聴いてくれない自分の声を、神さまは聴いてくださ ると信じるからです。主イエスが語られた、神殿から遠く離れて祈った徴税人の思いも、同じであったかも知れません(ルカ一八・一三)。
<祈り>
慈しみ深い天の父なる神様。私はあなたを畏れ敬います。私の隠されたところも、全てご存じだからです。しかし、私がどんなつらい思いをしている時でも、あなたはそれをわかっていてくださる。どんな小さな祈りでも聞いていてくださる。あなたが私たちのもとにお送りくださったイエス様は、そう教えてくださいました。だから、私がどんな暗闇の中にいても、イエス様は希望の光です。ですから私は希望を失わないでいられます。感謝します。イエス様の御名によって祈ります。アーメン