第十二章 追い詰められた沖縄タイムス、原告必勝の「三点セット」
現代史家秦郁彦氏は、当初原告弁護団の一員であり、証言台に立つ予定であった。だが、余りにも楽観的な原告弁護団と意見が合わず自身が歴史専門家として証言台に立つことを拒否されたことを機に弁護団を辞め、法廷外から支援するようになる。
秦郁彦さんは、大江訴訟敗訴の原因として裁判長の「ノーベル賞作家への配慮」など複数の要因を挙げているが、実は秦氏は「原告弁護団の力量不足」を挙げている
小田裁判長も認める歴史の専門家の意見なので、秦郁彦著『沖縄「集団自決」の謎と真実』(PHP研究所)から長いが該当部分を引用する。
≪2 原告団の力量不足
形勢不利と判断した被告の弁護団は支援勢力を動員して同調圧力を加え、軍命否定論者を次々に「転向」させた。それに対して形勢有利と信じた原告弁護団は対抗手段を怠った上、準備書面の不備や遅刻などで裁判官の心証を著しく害した。
宮平証言が新聞、雑誌で報じられ当然、本人が証人として登場するだろうと予想されていたのに、なぜか弁護団は申請しなかった。裁判官も意外に思ったのか、判決文で「訴訟代理人は、期日前には、当審で宮平秀幸の証人申請を求めるとしていたが。結局、証人申請は成されなかった」(240ページ)と述べている。証人調べをする予定を狂わせられた裁判所の強い不満を窺わせる。
裁判官の心中は窺い窺いようがないので、いずれも推測の域を出ないが、本格的審理に入る前から心証はほぼ決まっていた。つまり「最初から結論ありき」ではなかったか、というのが共通の前提になっているようだ。(略)いずれにせよ双方の言い分を検討した末に帰納したのではなく、被告勝訴と決め、その理由づけに苦心した演繹的判断だったとの印象を持つ。(略)泥棒にも三分の理という諺がある。だが、小田判決では原告側が提出した諸証拠はことごとく「信用しがたい」「採用できぬ」と退けられた。一分の理さえ認められなかったのである。 逆転ホームランか、と被告側が青くなった宮平秀幸の新証言(『沖縄「集団自決」の謎と真実』に収録)に至っては、「明らかに虚言」と名誉棄損にもなりかねない「暴言」で斬り捨てた。
これほどあからさまな一方的判決では、勝訴した被告側も薄気味が悪かったのだろう。
「大きな喜びです」(大江健三郎)、「わたしたちの主張をさらに進化させた」(秋山主任弁護士)と型通りのコメントに混じって、「個人の名誉にかかわる点が争点でコメントしにくいが、棄却という判断をそのまま受け止めたい。県民の気持ちを裁判所がちゃんと考えて判断したことだ。大江さんの本の中で、県民の気持ちがある程度そういうものだろうと判断していただいた点は、ちょっとほっとする点があるのではないか」(『沖縄タイムス』11月1日付、傍点は筆者、以下同じ)という仲井真沖縄県知事のコメントが心に響いた。歯切れは良くないが、発言の隅々まで神経が行き届いた感があり、「この人は何もかも分かっているんだなあ」と感じ取れたからである。
■原告必勝の「三点セット」
法廷に提出されない証言や証拠、あるいは裁判長に提出を否定された証言や証拠は、内容が如何に確定的でも証拠能力を持たない。
大江岩波訴訟で、被告側が青ざめたとされる「宮平証言」は、何故か法廷には提出されなかった。
現代史家秦郁彦さんの裁判に対するコメントをしばし聞いてみよう。
≪二人の原告のうち赤松は個人だが、座間味の梅澤隊長はかつて『鉄の暴風』で「慰安婦と心中死した」と事実無根のスキャンダルを書かれたのに90歳の高齢ながら心身共に衰えを見せず法廷に出ているからやりずらい相手だ。しかも隊長命令を否認する故宮城初枝の手記、故宮村幸延の「詫び状」、宮平秀幸証言の三点セットが揃っているから、それを突き崩すのは容易ではない。そのうえ三点セットを採用すれば、「自決するな」と命じたとする梅澤供述迄が生きてくることになる。そこで本人の直筆、捺印とは言え詫び状は宿泊客の梅澤が旅館主の幸延を泡盛で酔わせむりやり書かせた、初枝手記は一応信頼できるが、公判中(ママ)に被告側へ寝返った娘の晴美が『母の遺したもの』ので、実母の手記を部分的に否認したので相殺できる。梅澤供述を裏づける宮平証言は、「明らかに虚言」と強引に切りすてるしかないというのが、私なりの推測である。≫(『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』PHP研究所)
■宮村幸延ー座間味村援護係が「詫び状」/「隊長命令」申請を謝罪
その頃、梅澤氏は、マスコミにより「慶良間島で住民に自決命令を出した残虐非道の隊長」との汚名を着せられ、家族崩壊の危機にあった。せめて家族にだけも汚名を晴らしたいと考えた梅澤氏は、援護法の真実を記した「侘び状」を宮村幸延に要求する。梅沢氏の許可なく「隊長命令による」 と書いた贖罪意識にさいなまされた幸延氏は、言われた通り自筆押印の「侘び状」を書いて梅澤氏に手渡した。
この「侘び状」が後になって「大江・岩波集団自決訴訟」の原告側の証拠物件として提出されるのである。
通常、民事裁判で争われる事例では、契約の「有効」か「無効」かを争う場合が多い。本人が自筆押印した書類があれば、絶対的な証拠となる。
大江岩波訴訟で「軍命派」の支援者でありながら、梅澤隊長に謝罪文を書き、その一方援護法の適用に奔走した宮村幸延氏について解説しよう。
宮村幸延(戦後、宮里より改姓)氏は、座間味村の遺族会長であり、当時の援護係として「座間味戦記」を取りまとめた人物である。座間味島の守備隊長を務めた梅澤裕氏らが作家の大江健三郎氏と岩波裁判を相手取った「大江・岩波集団自決訴訟」では被告側に立って証言した人物だ。
終戦を福岡で迎えた幸延氏は、故郷の座間味村に帰ると、長男の盛秀を含む兄弟4人のうち3人が戦死したことを知る。しかも、助役を務め兵事主任を兼任していた盛秀は集団自決を先導した張本人と噂されていた。宮城晴美著「母の遺したもの」(高文研)によると、宮里助役は梅澤隊長に自決用の爆薬を求めた村の有力者の一人。村役場に常備されていた銃と銃弾帯を常に携帯し、16歳以上の若者で組織された民間防衛隊の隊長を務め、軍人より軍人らしい民間人といわれていたという。 座間味村役所の援護係となった幸延氏は、補償申請の書類を遺族に代わって書き、厚生省援護局へ郵送した。ところが、書類が全部送り返されてきた。
業を煮やした幸延氏は、厚生省との直談判のため何度も上京をした。その結果、0歳児を含め6歳未満も、昭和38年以降、準軍属として確定する。こうした努力について、座間味村役所は昭和41年功労者としてとして表彰している。
昭和56年、幸延氏は座間味村の慰霊祭の日、梅澤氏と鉢合わせた。援護金申請書に「隊長命令による自決」と記入し、多額の給付金受給の手続きをした張本人が、梅澤隊長の姿を見て動揺したことは想像に難くない。
この「詫び状」が後になって「大江・岩波集団自決訴訟」の原告側の証拠資料として提出された。
■宮村が「侘び状」を書いた理由■
元座間味村遺族会会長宮村幸延氏は、座間味島の自分が経営するペンションに訪ねてきた梅澤元戦隊長に「軍命を出した」と濡れ衣を着せたことを謝罪し、自筆捺印の「詫び状」を梅澤氏に書いた。
座間味村役所の援護担当の宮村氏は、『鉄の暴風』に死亡したと記述されていることを良いことに、梅澤氏の署名捺印を偽造して厚生省に「命令書付き申請書」を提出していた。
そして、宮村氏は、『鉄の暴風』に「不明死」と記載され、「死んだ」はずの梅澤さんが目前に現れ生きていると知って驚天動地の心境に陥った。
何しろ、梅澤氏の署名捺印を偽造していたのだから、「公金横領」、少なくとも公文書偽造の個人責任はまぬかれない。
梅澤氏に対する「侘び状」は、そんな宮村氏の個人的な後ろめたさも加わって書いたのだろう。
ところが、宮村氏はその後突然、「梅沢氏に無理やり泥酔させられて書いた」として前言を翻す。
その態度豹変の裏には沖縄タイムスの強力な圧力があった。
■「侘び状」による沖縄タイムスの衝撃■
それには、その後の梅沢さんの行動から、宮村氏の心の動きは容易に推定できる。
その時点(1987年)で、沖縄タイムは『鉄の暴風』の「梅澤死亡」の誤記を、口止め料を富村順一氏に払った上、人知れず削除している(1980年版から削除)。
ところが、梅澤さんが沖縄タイムスを訪問し、「侮辱的誤記」に関し謝罪を求めたため、事態は思わぬ方向へ進展していく。
梅澤さんは昭和63年(1988年)11月1日、沖縄タイムスで対応した新川明氏に「誤記」の謝罪を求め、宮村幸延氏の「侘び状」を見せる。
「軍命派」の総本山の沖縄タイムスは、梅澤さんの「誤記」に対する謝罪要求に動揺した。
だが、謝罪はともかく、軍命を否定した「侘び状」をそのまま是として受け入れるわけにはいかなかった。
沖縄タイムスがこれまでまき散らした「軍命による集団自決」というタイムス史観が根底から覆るからだ。
■詫び状は沖縄タイムス史観の瓦解
沖縄タイムスは次のように考えた。
富村氏の恐喝による口止め料支払いは、万が一露見してもあくまで「誤記」という些細な問題である。
だが梅澤氏の示した「詫び状」を沖縄タイムスが認めて、梅澤氏に謝罪文を書いたとしたら、戦後40年近く主張してきた『鉄の暴風』の歴史観が完全に覆ってしまう。
そうなれば沖縄タイムスの屋台骨を揺るがしかねない重大事件になる。
そこで、タイムスは時間稼ぎのため次回の面談を約束し、座間味村当局に「侘び状」の件と村当局の「軍命の有無」についての公式見解を問いただす。
驚いたのは座間味村当局。
宮村幸延氏の「侘び状」をそのまま認めたら、村ぐるみで「公文書偽造」をして「公金横領」したことを公的に認めたことになる。
そこで苦渋の結果考え出した結果はこうだった。
最初は「侘び状は偽物」と主張したが、本人の筆跡だと分かると急遽「泥酔させられて書いた。記憶がない」という苦し紛れの弁解を考え付く。
沖縄タイムスの問い合わせが同年の11月3日なのに、座間味村の回答が半月も遅れた理由は「侘び状」の言い訳を考えるため、宮村氏と座間味村長宮里正太郎氏が四苦八苦したことが推測できる。
結局、同月18日付けの宮里村長の回答は「村当局が座間味島の集団自決は軍命令としている」と主張、沖縄タイムス史観を踏襲したので、沖縄タイムスの新川明氏を安堵させることになる。
約10年前、富村順一氏に梅澤死亡の記事で恐喝された沖縄タイムスにとって、宮村氏の「侘び状」を座間味村当局が認めてしまったら、『鉄の暴風』の最重要テーマの「軍命説」が一気に崩壊してしまう絶体絶命の危機であった。
そこで、「公金横領」や「公文書偽造」で村の弱みを握る沖縄タイムスが座間味村当局に強い圧力を加えた。
沖縄タイムスは社運をかけて宮村氏自筆の「侘び状」を無効化させるため、座間味村と宮村氏個人に圧力を加え、最終的には運命共同体として共同戦線を張ったのだ。
「泥酔して書かされた侘び状は無効だ」という口実で。
■梅澤さんの心境
「集団自決を命じた男」として濡れ衣を着せられていた梅澤さんは、次の二つの理由で「汚名返上」と心の余裕があり、「梅澤軍命説」の元凶沖縄タイムスに対しても寛大であった。
①梅澤さんは、その頃既に宮城初枝氏の「梅澤さんは命令していない」という証言を得ている。
②宮村氏の「侘び状」まで得た。
梅澤さんの寛大な心境は、座間味村や宮村氏を苦しい立場に追い込むことは避けたい様子が、タイムス訪問時の次の発言から垣間見ることが出来る。(梅澤さんの生前、実際本人に確認済)
「座間味の見解を撤回させられたら、それについてですね、タイムスのほうもまた検討するとおっしゃるが、わたしはそんなことはしません。あの人たちが、今、非常に心配だと思うが、村長さん、宮村幸延さん、立派な人ですよ。それから宮城初枝さん、私を救出してくれたわけですよ、結局ね。ですから、もう私は、この問題に関して一切やめます。もうタイムスとの間に、何のわだかまりも作りたくない。以上です。」(梅澤氏の沖縄タイムスでの発言)
その時、梅澤氏は後年宮城初枝氏の実の娘晴美氏が母の遺言を否定したり、「侘び状」を書いた宮村氏が前言を翻すなどとは夢想もしていない。
したがって、このような余裕の発言をして、村当局や宮村氏を窮地に追い込むくらいなら、沖縄タイムスとの謝罪交渉を打ち切っても良いといったニュアンスの発言をしている。
事実その後交渉は打ち切られている。