狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

⑦13097、第四章 歴史か講談か、曽野綾子vs太田朝博の討論

2022-12-23 09:04:19 | 政治

 

 

 

第四章 歴史か講談か、曽野綾子vs太田朝博の討論

■曽野対太田の討論「歴史か講談」

『ある神話の背景』を出版した作家の曽野綾子は、伊佐良博記者が書いた『鉄の暴風』を指して、語気を荒だてた。

「これは歴史ではない。講談です。」

曽野は、沖縄タイムス紙上で行われた太田良博記者との対談で、太田記者が伝聞のみで書き上げた『鉄の暴風』を、沖縄戦記ではなく講談と言い切った。

曽野は、以前から『鉄の暴風』の描写を「文学的」などと皮肉っていた。 それを「講談」と断言したのは、曽野の脳裏に「講釈師見てきたような嘘を言う」というフレーズが過ったのだろう。

「講談」を簡単に説明すると、語呂の良い言葉の羅列の合間に、張り扇で釈台をパンパンと調子良く叩き、武勇伝や人情物語などを語り聞かせる寄席演芸のこと。現代でも用いられる慣用句として、他にも「講釈師 扇で嘘を叩き出し」などもあり、嘘でも実(まこと)しやかに本当のことと思わせるその話芸は、現代版スポーツ新聞の感覚に近い。

曽野が『鉄の暴風』を講談と指摘したのはの中の次の部分だ。

「住民は喜んで軍の指示にしたがい、その日の夕刻までに、大半は避難を終え軍陣地付近に集結した。ところが赤松大尉は、軍の壕入り口に立ちはだかって『住民はこの壕に入るべからず』と厳しく身を構え、住民たちをにらみつけていた」

確かに現地取材もせずこのような描写ができるのは「見てきたような嘘を吐く講講釈師」と言われても仕方がない。

本来、裏付け取材が必要な『鉄の暴風』の執筆に際し、太田記者は事件の現場で取材することなく「見てきたよう」に記事を書いた。それに対し、創作を生業とする作家の曽野綾子が新聞記者の常識ともいえる裏付け取材を足で稼いでまとめ上げ、そして『ある神話の背景』を出版した。 両者の執筆手法は、二人の職業の性質から言っても極めて対照的だった。 そして作家の大江健三郎が、太田記者の「講談」に尾ひれを付け、「見てきたよう」に書かれた「講談」は、さらに尾ひれが付いて話は膨らんでいく。

 

作家の大江健三郎は、太田記者が書き上げた『鉄の暴風』という「講談」を種本にして、自身も一度も現地取材せずに『沖縄ノート』を出版する。 そして「講談」に登場する主人公を、罵詈雑言の上「残虐非道」な極悪人として描く。 そのため、集団自決論争は白熱を帯び、遂には裁判沙汰にまで発展することになる。

 

昭和258月発行の『鉄の暴風』は渡嘉敷島での集団自決を次のように描いている。

 

「轟然たる不気味な轟音は、次々と谷間に、こだました。瞬時にして――男、女、老人、子供、嬰児――の肉四散し、阿修羅の如き、阿鼻叫喚の光景が、くりひろげられた。死にそこなった者は互いにこん棒で、うち合ったり、剃刀で自らの頸部を切ったり、鍬で親しいものの頭を叩き割ったりして、世にも恐ろしい情景が、あっちの集団でも、こっちの集団でも同時に起こり、恩納河原の谷川の水は、ために血にそまっていた」。

執筆者の太田良博記者が伝聞のみで書き上げた『鉄の暴風』が、後に「軍命があったか否か」で県内外を二分する大論争に発展する。

ことの発端は『鉄の暴風』の次の記述であった。

「日本軍が降伏してから解ったことだが、彼らが西山A高地に陣地を移した翌二七日、地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は『持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで闘いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して、持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねぱならぬ。事態は、この島に住むすべての人間に死を要求している』ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」

米軍の占領統治下に発行された『鉄の暴風』は米軍のヒューマニズムを謳いあげ、その一方、日本軍の描写は、憎悪を剥き出しに表現する物語風の文体で貫かれている。

そこに描かれた「軍命令による集団自決」という主張は、GHQが日本人に刷り込もうとした「非人間的な日本軍」というプロパガンダに見事に合致していた。そして、あたかも目撃証人が語るかのように物語風の表現が効果的で、沖縄戦記として沖縄県民に読まれることになる。

 

それは後に「大江岩波訴訟」の標的となった岩波書店発刊の大江健三郎著『沖縄ノート』をはじめ、上地一史著『沖縄戦史』、山川泰邦著『秘録沖縄戦史』、嘉陽安男著『沖縄県史第8巻各論篇7』といったほとんどすべての沖縄戦史に引用され、新聞、週刊誌、テレビ報道の根拠となって、「沖縄戦史のバイブル」とまで言われた。 

ここで一言補足すると、曽野は自著『ある神話の背景』で、「軍命があった」とも「無かった」とも明示していない。

それどころか「軍命」を示す確定的証拠が出てきたら自説を訂正すると述べている。

 

続いて「講釈師」太田良博記者と作家曽野綾子との白熱した対談を期待するのが本文構成の流れだろうが、曽野綾子の意を汲んでしばらく「講談」の解説を続けよう。


昭和20(1945)年3月27日、米軍は沖縄の西にある渡嘉敷島に上陸した。

『鉄の暴風』の戦記描写は、曽野の言葉を借りると「見てきたよう」な「講談」の名調子だが、講談を知らない読者にとってはまるで映画の一シーンでも見ているようなドラマチックな場面である。

赤松隊長が軍命を下す重要な場面に登場し「悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」と描かれている沖縄出身の知念少尉は、後に次のように証言している。

「渡嘉敷島に、将校会議を開く地下壕は存在しませんでしたね。作り話ですよ。沖縄タイムスは嘘ばかり書くから、私は読んでいませんよ。」


『鉄の暴風』で、描かれている知念少尉は『鉄の暴風』の編著者である沖縄タイムスから、一度も取材されたことがないと証言し、「私が赤松隊でただ一人の沖縄出身者ということで、きっと同情心から、想像して書いたのでしょうね」と言う。そして住民自決という「軍命」があったことを真っ向から否定した。

曽野が喝破する「講談本」から、「住民自決命令」という「講談」が一人歩きして、教科書に載ることになる。 そこで、この沖縄タイムスの「見てきたような嘘」を、誰がどのような過程で創作したのか検証してみよう。


「思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた」

先ず『鉄の暴風』が描く「見てきたよう」な場面を、振り返ってみよう。 赤松大尉による住民自決の「軍命」が伝えられ、そして集団自決が実行された最も重要な場面である。

 恩納河原(おんながわら)に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。

「こと、ここにいたっては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから全員玉砕する」というのである。(中略)

住民たちは死場所を選んで、各親族同志が一塊(かたまり)り塊り(原文のママ)になって、集まった。手榴弾を手にした族長(ママ)や家長が「みんな笑って死のう」と悲壮な声を絞って叫んだ。一発の手榴弾の周囲に、二、三十人が集まった。

 住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。

 手榴弾は、あちこちで爆発した。轟然(ごうぜん)たる不気味な響音は、次々と谷間に、こだました。瞬時にして、--男、女、子供、嬰児(えいじ)--の肉四散し、阿修羅の如き、阿鼻(あび)叫喚の光景が、くりひろげられた。

死にそこなった者は、互いに棍棒で、うち合ったり、剃刀(かみそり)で、自らの頸部(けいぶ)を切ったり、鍬(くわ)で、親しいものの頭を、叩き割ったりして、、世にも恐ろしい情景が、 あっちの集団でも、こっちの集団でも同時に起こり、恩納 河原の谷水は、ために血にそまっていた≫

■安里巡査の反論「あなたたち非戦闘員は生きられる限り生きてくれ」

 実際に地元の駐在巡査として村民と行動を共にし、赤松大尉と接触もあった安里(あさと)喜順(後に比嘉と改名)は、沖縄タイムスから一度も取材を受けていないという。

 

安里巡査は、「赤松大尉が軍命を出した」と報道した沖縄タイムスを鵜呑みにした元厚生省調査団の徳嵩氏に反論の手紙を出した。

 

安里巡査の手紙は、集団自決の現場に居合わせた証人のに直接の取材に相当する歴史的一次資料なので、長文だが引用する。



■比嘉喜順巡査の手紙

それで私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論自決場所のことも一部始終わかっております。 あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。
責任者として天地神明に誓ひ真実を申しあげます。 今までの戦争は満州、支那大陸で戦い、私達もその体験者の1人であります。 それが而も一番(不明)島、沖縄県、離島の自国内で連合軍の包囲を受け家族とも共戦争体験をしたのは、その人でなければ実際を語ることは出来ません。
「鉄の暴風」が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せてくれて驚いた程であります。 その時には既に遅く、全国に販売されていたようです。
それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した責任ある私達に調査もされず刊行されたことは私の一生涯の痛恨の極みであります。
沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べたことは今もって一度もございません。(略)

それで私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論自決場所のことも一部始終わかっております。 あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。
責任者として天地神明に誓ひ真実を申しあげます。 今までの戦争は満州、支那大陸で戦い、私達もその体験者の1人であります。 それが而も一番(不明)島、沖縄県、離島の自国内で連合軍の包囲を受け家族とも共戦争体験をしたのは、その人でなければ実際を語ることは出来ません。
「鉄の暴風」が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せてくれて驚いた程であります。 その時には既に遅く、全国に販売されていたようです。
それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した責任ある私達に調査もされず刊行されたことは私の一生涯の痛恨の極みであります。
沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べたことは今もって一度もございません。(略)それに比較して赤松隊長のとった行動は本当に良かったと思われました。 戦争中而も敵の海、空よりの砲撃のさ中で軍の食料(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さったあの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。 あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚りません。 徳嵩さんがどう云う理由で十二年保存されて、然も赤松さんが故人となられた今頃にから沖縄タイムスに掲載されたか、私には理解に苦しむものです。
赤松隊の生存者もをられるし、当時の村民も尚健在者が多数残っています。 それでお願いですが曽野綾子著「ある神話の背景」沖縄、渡嘉敷の集団自決、文藝春秋社刊をお読みにお読みになられたらと思います。
真実と云ふのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一歩的に出してそれで何も知らない人々がそれを信じることになり、大方はそんなものではございません。 私はそう思います。
歴史の事実も本当はそうであったかと、両方の調査をし、綿密に調べられてから、正しく報らすのが真の在り方と思われます。 私も貴方が出された「タイムス」の記事を見て、当時の沖縄戦の生々しい実態が甦り、本当に何とも言ひようのない悲憤慷慨と申しましょうか痛恨の念が一極です。

 


戦後一貫して沖縄に在住した安里巡査を沖縄タイムス等地元メディアは一度も取材していない。だが、県外のジャーナリスト鴨野守氏や『うらそえ文藝』の星雅彦編集長は安里巡査に複数回取材している。 安里巡査によれば、自分は赴任したばかりで島の地理に疎いので、赤松隊長に村民の避難場所を尋ねたところ、「作戦の邪魔にならない、部隊近くのどこか安全なところに避難させておったらいいでしょう。我々は死んでもいいから最後まで戦う。あなたたち非戦闘員は生きられる限り生きてくれ」と答えた。

しかし集まった村の幹部たちは、米軍の艦砲射撃の爆音で動揺しており、自決した方が良いという結論になった。自決が始まったが、手榴弾の使い方が分からない人がいたり、不発弾も多く、自決に失敗した村民たちが部隊の陣地になだれ込み、銃を貸してくれと頼んだ。 赤松部隊は村民の要請を拒否したが、そこに米軍の迫撃砲が撃ち込まれ、約60人が死亡しそれを見て皆われに返った。

 赤松隊長は自決の知らせに驚き、「早まったことをしてくれた」と嘆いたという。米軍が上陸すると、赤松隊長は軍の食料の半分を民間と分け、安里氏はその分配に立ち会った。「部隊は最後まで頑張る。あなたがたは、このあるだけを食べて、あとは蘇鉄(そてつ)でも食べて生きられるだけ生きなさい」と言った。

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★琉球新報の原稿削除の経緯。「全体主義の沖縄」狙われる沖縄、雑誌「WILL」で暴露!

2022-12-23 00:37:57 | ★原稿

 

 

 

 

「全体主義の沖縄」、雑誌「WILL」で暴露!2011-01-31

沖縄集団自決「軍の命令ではない」 地元誌が特集記事
産経新聞 2009.6.10

上原氏は長く「鉄の暴風」を疑ったことがなく、現地調査した作家の曽野綾子氏が1973年に「ある神話の背景」で疑問を呈したさいも、軍命による集団自決を事実として信じて疑わなかった。ところが、沖縄タイムスや琉球新報などで沖縄戦に関連した連載記事を書くうちに、新たな住民の証言や米軍の報告書などを入手、「(『鉄の暴風』は)現地調査しないまま軍命による集団自決をでっち上げたという結論に達した」という。

 上原氏によると、こうした結論を2年前に琉球新報で長期連載中の沖縄戦をめぐる記事に盛り込もうとしたところ、「新聞社側の圧力で断念せざるを得ず、『うらそえ文藝』での発表に踏み切った」と説明している。

 また、星氏も沖縄県史編纂(へんさん)で40年ほど前に、集団自決事件の起きた渡嘉敷島を訪問した際、住民の話から軍命の存在に疑問を抱いたが、「鉄の暴風」が沖縄県民の間で定着し、疑問を差し挟めない状況だった。しかし、「今回は勇気を持って真実を知らせるべきと決心した」と、話している。

 富田詢一・琉球新報社編集局長の話「上原氏への圧力はありません」

                        ◇ 

■琉球新報の言論封殺、雑誌「WILL」が暴露!

星、上原両氏の勇気ある告発にも関わらず、沖縄メディアは己が行った言論封殺を否定している。

だが、次に述べるように、筆者(狼魔人)は、何時でも琉球新報の言論封殺を読者として体感しており、法廷でも証言できる立場にある。

当時、筆者は琉球新報を購読し、上原氏の問題の連載記事を愛読していた。

 ところが、琉球新報は読者に一言の断りもなく同連載を「無期限中止」にした。 

筆者は何度も琉球新報に問い合わせの電話をした。

だが、対応した新報職員は中止の理由はもちろん、再開するかどうかについても納得できる説明はできず、「目下調整中」の一言しかなかった。 

その詳しい経緯については当日記でもしつこくエントリーしてある。

⇒ 【再掲】琉球新報の言論封殺に抗議します

琉球新報の上原正稔氏についての言論封殺については、さらには筆者(狼魔人)は、その年(2007年)の月刊誌『WILL』8月増刊号でも「偏向報道ウォッチング これが沖縄の言論封殺」と題する小論を書いている。

月刊誌『WILL』の一部を引用するとこうだ。

・・・平成19年6月19日は、琉球新報の長期特集記事(火曜から土曜の夕刊に掲載)の第二話「パンドラの箱を開ける時 沖縄戦の記録」の掲載予定日であった。 第一話「みんないなくなった 伊江島戦」が前日で終了、19日からは第二話「慶良間で何が起きたか」が始まる予定であった。 筆者上原正稔氏は掲載日の前、知人に「集団自決」に関するもので、圧力に屈することなく執筆する」と語っていたと聞いた。
「集団自決」というテーマは地元二紙を中心に沖縄メディアが“民意”を煽っている最もホットなテーマのはずだった。 言うまでもなく慶良間とは「集団自決」に関する「軍命令の有無」が問題になっている座間味島と渡嘉敷島を含む、慶良間諸島のことを指す。 
だが、その特集記事は、読者に何の断りもなく、突然、中止になった。執筆者あるいは新聞社側の「お知らせ」や「弁明」等は一行も掲載されていなかった。 
地元を代表する新聞が、「集団自決」に関する連載記事を突然中止したことに対しては当然、いろんな憶測が飛び交った。
「新聞を中心に展開されている教科書検定運動に水をかけることになる内容になるため」だとか、「編集担当者の態度に変化があり、今回の事態になった」とも言われた。 偏向記事で知られる沖縄紙ではあるが、連載中止という非常手段に打ってでるのはよっぽどのことがあったに違いない。 
上原氏の連載が中止された日の朝刊、文化面のトップに林博史関東学院大学教授の「沖縄戦」特集の第一回目が掲載されていた。 林教授といえば日本軍は残虐非道だと糾弾するサヨク学者で、「集団自決訴訟」でも被告側の証拠を収集したことで知られている。
上原氏の記事「慶良間で何が起きたか」には、一体、琉球新報を動揺させるどんな内容が書かれていたのだろうか。(月刊誌『WILL』より)

上原氏の封殺された原稿には、まさに琉球新報が動揺するような「慶良間島の真実」が描かれていたのである。

上原氏は琉球新報のあからさまな言論封殺に遭い、遂に地元の文芸誌『うらそえ文藝』に「慶良間島で何が起きたか」の内容を発表するという非常手段に訴えたのだ。

ところが沖縄二紙は、『うらそえ文藝』が発刊された後一か月経過しても黙殺を続けた。

上原氏は沖縄二紙の黙殺という卑怯な態度に業を煮やし、記者会見に踏み切った。

さて、琉球新報に突然の連載中止を受けた後、琉球新報は読者に向かってその顛末をどのように説明したのか。

当日記はこれについても、しつこくエントリーしている。

 ⇒再開された上原正稔氏の特集  パンドラの箱は開くか?

四ヶ月にも渡る長期中断の後(その間に「11万人集会」が行われた)、連載再開に当たって琉球新報は連載中止には一言も説明せず、卑怯にも執筆者の上原氏に苦しい弁解を強いてお茶を濁した。

『WILL』にその後の経緯についても書いてあるので、引き続き同記事を引用する。

10月16日、連載再会の冒頭で、執筆者の上原氏は次のような弁明をした。《「パンドラの箱の順序も中身もちょっと変更を加えることにしたのでご了承お願いしたい。 だが、読者が「あっ」と驚く話が続くことには何ら変わりはない》
前述のように事前の予告では「慶良間で何が起こったか」を明らかにし、集団自決の真実を白日の下にさらすとのことだった。 
しかし、再開した上原氏の原稿タイトルは「軍政チームは何をしたか」であった。 「集団自決」が起きた1945年3月下旬の慶良間を飛び越えて、4月以降の沖縄本島の米軍上陸、投降住民の管理の模様を記しており、「慶良間に何が起こったか」については触れていない。(『WILL』より)

では、問題の『うらそえ文藝』で上原氏は自分が琉球新報から受けた言論封殺をどのように語っているのか。

 そうですね。現在でもある意味では統制されているわけですからね。

 上原 もう完全に右も左も統制です。僕は琉球新報のⅯ(※)記者たちに「パンドラの箱…」の掲載をストップさせられた。怒鳴りつけてやった。「君らは表現の自由を知ってるか」ってね。しかし動じる様子もなかった。連載は二〇〇七年四月から四ケ月も中断した。

  社の方針に反するということだろうね。それはまたその人たちも統制の枠の中にいるってことだが、意識してないかもしれない。

 上原 彼らはまず沖縄の知識人、自分たちは文化人だと思い込んでいるんですよ。それで自分たちの発言や行動はすべて正しいと思っているわけです。

 星 正しいかどうかは何十年か何百年か経たないと分からない。

 上原 いつも彼等は正しいと思ってる。だから、僕が本当のことを書こうとしたら、もう読みもしないうちからストップかけるわけです。これは新報の編集方針に反するからといってね。僕は二回にわたって四人組の記者から吊し上げられ、連載を申止させられた。一番腹が立ったのはM記者だったが、彼も新聞社をバックに空威張りしたのにすぎない。彼等も統制のオリの中にいるわけですよ。

注(※)Ⅿ記者とは当時上原さんの原稿を担当していた前泊盛博記者。

前泊記者は上原さんを言論封殺した功績で、沖縄国際大学教授に出世している。

一方上原さんを批判する沖縄タイムスの屋良朝博記者はめでたく国会議員に出世した。

一方、上原さんを支援した星雅彦さんは琉球新報・沖縄タイムスへの連載を断られ失職中である。

             ★

産経新聞はどのように報道したか。

産経新聞の那覇支局は、県庁近くの琉球新報の旧本社社屋内に事務所を間借りしている。 

沖縄タイムス社内に事務所を構える朝日新聞那覇支局なら、お互いに同じ論調なので問題はないが、琉球新報が大家さんに当たる産経那覇支局としては、大家が報道しない記者会見を報じるのは大家の顔に泥を塗るとになるとでも思ったのか、昨日の記事でも記者会見そのものについては触れていない。

だが、産経は昨日の記事で、上原氏が琉球新報で長期連載中の沖縄戦をめぐる記事に盛り込もうとしたところ、「新聞社側の圧力で断念せざるを得ず、『うらそえ文藝』での発表に踏み切った」というくだりに関して、富田詢一・琉球新報社編集局長の裏付けのコメントを取っている。

当然のごとく琉球新報の富田詢一・編集局長は「上原氏への圧力はありません」と上原氏の発言を否定している。

だが執筆者の上原さんが前日に予告までした最も書きたい記事、同時に読者も最も読みたがっていた記事が掲載予定日になって、何の断りもなく「無期中断」を強いられた。 富田編集局長は、これが新聞社の圧力でなければ一体誰の圧力だったと強弁するつもりか。

この「圧力の有無」で訴訟が起きるとは思わないが、その時は「狼魔人日記」と『WILL』の記事が大きな証拠物となるであろう。(笑)

【追記】(その後、上原さんは琉球新報を提訴している)

上原さんの勝訴確定については、次回掲載。

何しろ電話で問い合わせたときの新報職員の動揺ぶりはただ事ではなかった。

なお『WILL』(2008年8月増刊号)の記事にはほかにも、小林よしのり氏が琉球新報の罠にかかって、沖縄紙を根城にする「サヨク知識人」たちに袋叩きに遭う様子も「罠にかかった小林よしのり」という項目を設けて書いているので、興味のある方は一読をお願いしたい。

 

今回の星、上原両氏の沖縄マスコミへの挑戦に対して、沖縄タイムスや琉球新報に相手にされないのでその鬱憤晴らしの記者会見といったデマを流しているサヨクブログがある。

両氏は、少なくとも沖縄では知名人であり、上原氏は琉球新報に長期連載記事を書いていたし、星氏は沖縄紙の文化面の常連ともいえるほど頻繁にその論が掲載されており、昭和44年3月には第3回沖縄タイムス芸術選賞奨励賞を受賞しているくらいで、両氏とも沖縄メディアに冷たくされるどころか、大変重宝されていた知識人である。 

サヨクブログの誹謗は両氏の勇気ある発言に動揺し、これに反論しようとしても、やっかみと中傷の暴言を吐く以外に打つ手がないのであろう。これをゴマメの歯軋りと人はいう。

沖縄県庁での記者会見の内容を、地元紙が黙殺し、ほとんどの県民はつんぼ桟敷に置かれている。 わずかに全国紙を購読している一部の県民が会見の模様を全国紙で知るという異常な事態が沖縄の言論空間である。

これこそ沖縄が「全体主義の島」と呼ばれる所以である。

 

沖縄戦「集団自決」
狙われる沖縄

■目次 
 緊急特別対談 
■田久保忠衛×櫻井よしこ
「沖縄的なるもの」の正体

■渡部昇一
歴史教育を歪めるもの

 梅澤少佐独占手記 
■梅澤裕 (聞き手・鴨野守)
私は集団自決など命じていない

■藤岡信勝
教科書記述問題の決定版
文科省再検定で大膨張する反軍記述

■曽野綾子
強制された死か、個人の尊厳か

■鴨野守
村民多数を手にかけた
「悲劇の証人」金城牧師

 【特集】大江健三郎に問う! 
■曽野綾子
神の座に就いた作家と裁判官
■藤岡信勝
大江健三郎“勝訴”の深見判決を斬る
■徳永信一
ノーベル賞作家のまやかしのレトリック
■松本藤一
大江健三郎と岩波書店は不誠実だ
■松本藤一
沖縄の言論封鎖で住民は再び殺される
■飯嶋七生
母の「遺言」はなぜ改変されたか

 「反日」の沖縄 
■藤岡信勝・鴨野守
沖縄タイムスの「不都合な真実」
■皆本義博
渡嘉敷島、中隊長が語る「集団自決」の現場
■奥 茂治
沖縄タイムスを使った米軍の住民洗脳工作
■勝岡寛次
米軍の「心理作戦」で日本軍は沖縄の敵となった
江崎 孝
偏向ウォッチング これは沖縄の言論封殺だ

■グラビア特集
沖縄の「戦争」

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