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沖縄タイムス編著『鉄の暴風』による歪められた沖縄戦の歴史を是正すべく、「慶良間島集団自決」を中心に長年当ブログで書き綴ってきた記事をまとめて出版する予定です。
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狼魔人日記
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第四章 歴史か講談か、曽野綾子vs太田朝博の討論
■曽野対太田の討論「歴史か講談」
『ある神話の背景』を出版した作家の曽野綾子氏は、伊佐良博記者が書いた『鉄の暴風』を指して、語気を荒だてた。
「これは歴史ではない。講談です。」
曽野氏は、沖縄タイムス紙上で行われた太田良博記者との対談で、太田記者が伝聞のみで書き上げた『鉄の暴風』を、沖縄戦記ではなく講談と言い切った。
曽野氏は、以前から『鉄の暴風』の描写を「文学的」などと皮肉っていた。 それを「講談」と断言したのは、曽野氏の脳裏に「講釈師見てきたような嘘を言う」というフレーズが過ったのだろう。
「講談」を簡単に説明すると、語呂の良い言葉の羅列の合間に、張り扇で釈台をパンパンと調子良く叩き、武勇伝や人情物語などを語り聞かせる寄席演芸のこと。現代でも用いられる慣用句として、他にも「講釈師 扇で嘘を叩き出し」などもあり、嘘でも実(まこと)しやかに本当のことと思わせるその話芸は、現代版スポーツ新聞の感覚に近い。
曽野氏が『鉄の暴風』を講談と指摘したのはの中の次の部分だ。
「住民は喜んで軍の指示にしたがい、その日の夕刻までに、大半は避難を終え軍陣地付近に集結した。ところが赤松大尉は、軍の壕入り口に立ちはだかって『住民はこの壕に入るべからず』と厳しく身を構え、住民たちをにらみつけていた」
確かに現地取材もせずこのような描写ができるのは「見てきたような嘘を吐く講講釈師」と言われても仕方がない。
本来、裏付け取材が必要な『鉄の暴風』の執筆に際し、太田記者は事件の現場で取材することなく「見てきたよう」に記事を書いた。それに対し、創作を生業とする作家の曽野綾子が新聞記者の常識ともいえる裏付け取材を足で稼いでまとめ上げ、そして『ある神話の背景』を出版した。 両者の執筆手法は、二人の職業の性質から言っても極めて対照的だった。 そして作家の大江健三郎氏が、太田記者の「講談」に尾ひれを付け、「見てきたよう」に書かれた「講談」は、さらに尾ひれが付いて話は膨らんでいく。
作家の大江健三郎氏は、太田記者が書き上げた『鉄の暴風』という「講談」を種本にして、自身も一度も現地取材せずに『沖縄ノート』を出版する。 そして「講談」に登場する主人公を、罵詈雑言の上「残虐非道」な極悪人として描く。 そのため、集団自決論争は白熱を帯び、遂には裁判沙汰にまで発展することになる。
昭和25年8月発行の『鉄の暴風』は渡嘉敷島での集団自決を次のように描いている。
「轟然たる不気味な轟音は、次々と谷間に、こだました。瞬時にして――男、女、老人、子供、嬰児――の肉四散し、阿修羅の如き、阿鼻叫喚の光景が、くりひろげられた。死にそこなった者は互いにこん棒で、うち合ったり、剃刀で自らの頸部を切ったり、鍬で親しいものの頭を叩き割ったりして、世にも恐ろしい情景が、あっちの集団でも、こっちの集団でも同時に起こり、恩納河原の谷川の水は、ために血にそまっていた」。
執筆者の太田良博記者が伝聞のみで書き上げた『鉄の暴風』が、後に「軍命があったか否か」で県内外を二分する大論争に発展する。
ことの発端は『鉄の暴風』の次の記述であった。
「日本軍が降伏してから解ったことだが、彼らが西山A高地に陣地を移した翌二七日、地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は『持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで闘いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して、持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねぱならぬ。事態は、この島に住むすべての人間に死を要求している』ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」
米軍の占領統治下に発行された『鉄の暴風』は米軍のヒューマニズムを謳いあげ、その一方、日本軍の描写は、憎悪を剥き出しに表現する物語風の文体で貫かれている。
そこに描かれた「軍命令による集団自決」という主張は、GHQが日本人に刷り込もうとした「非人間的な日本軍」というプロパガンダに見事に合致していた。そして、あたかも目撃証人が語るかのように物語風の表現が効果的で、沖縄戦記として沖縄県民に読まれることになる。
それは後に「大江岩波訴訟」の標的となった岩波書店発刊の大江健三郎著『沖縄ノート』をはじめ、上地一史著『沖縄戦史』、山川泰邦著『秘録沖縄戦史』、嘉陽安男著『沖縄県史第8巻各論篇7』といったほとんどすべての沖縄戦史に引用され、新聞、週刊誌、テレビ報道の根拠となって、「沖縄戦史のバイブル」とまで言われた。
ここで一言補足すると、曽野氏は自著『ある神話の背景』で、「軍命があった」とも「無かった」とも明示していない。
それどころか「軍命」を示す確定的証拠が出てきたら自説を訂正すると述べている。
続いて「講釈師」太田良博記者と作家曽野綾子氏との白熱した対談を期待するのが本文構成の流れだろうが、曽野綾子氏の意を汲んでしばらく「講談」の解説を続けよう。
昭和20(1945)年3月27日、米軍は沖縄の西にある渡嘉敷島に上陸した。
『鉄の暴風』の戦記描写は、曽野の言葉を借りると「見てきたよう」な「講談」の名調子だが、講談を知らない読者にとってはまるで映画の一シーンでも見ているようなドラマチックな場面である。
赤松隊長が軍命を下す重要な場面に登場し「悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」と描かれている沖縄出身の知念少尉は、後に次のように証言している。
「渡嘉敷島に、将校会議を開く地下壕は存在しませんでしたね。作り話ですよ。沖縄タイムスは嘘ばかり書くから、私は読んでいませんよ。」
『鉄の暴風』で、描かれている知念少尉は『鉄の暴風』の編著者である沖縄タイムスから、一度も取材されたことがないと証言し、「私が赤松隊でただ一人の沖縄出身者ということで、きっと同情心から、想像して書いたのでしょうね」と言う。そして住民自決という「軍命」があったことを真っ向から否定した。
曽野が喝破する「講談本」から、「住民自決命令」という「講談」が一人歩きして、教科書に載ることになる。 そこで、この沖縄タイムスの「見てきたような嘘」を、誰がどのような過程で創作したのか検証してみよう。
■「思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた」
先ず『鉄の暴風』が描く「見てきたよう」な場面を、振り返ってみよう。 赤松大尉による住民自決の「軍命」が伝えられ、そして集団自決が実行された最も重要な場面である。
≪ 恩納河原(おんながわら)に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。
「こと、ここにいたっては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから全員玉砕する」というのである。(中略)
住民たちは死場所を選んで、各親族同志が一塊(かたまり)り塊り(原文のママ)になって、集まった。手榴弾を手にした族長(ママ)や家長が「みんな笑って死のう」と悲壮な声を絞って叫んだ。一発の手榴弾の周囲に、二、三十人が集まった。
住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。
手榴弾は、あちこちで爆発した。轟然(ごうぜん)たる不気味な響音は、次々と谷間に、こだました。瞬時にして、--男、女、子供、嬰児(えいじ)--の肉四散し、阿修羅の如き、阿鼻(あび)叫喚の光景が、くりひろげられた。
死にそこなった者は、互いに棍棒で、うち合ったり、剃刀(かみそり)で、自らの頸部(けいぶ)を切ったり、鍬(くわ)で、親しいものの頭を、叩き割ったりして、、世にも恐ろしい情景が、 あっちの集団でも、こっちの集団でも同時に起こり、恩納 河原の谷水は、ために血にそまっていた≫
■安里巡査の反論「あなたたち非戦闘員は生きられる限り生きてくれ」
実際に地元の駐在巡査として村民と行動を共にし、赤松大尉と接触もあった安里(あさと)喜順(後に比嘉と改名)は、沖縄タイムスから一度も取材を受けていないという。
安里巡査は、「赤松大尉が軍命を出した」と報道した沖縄タイムスを鵜呑みにした元厚生省調査団の徳嵩氏に反論の手紙を出した。
安里巡査の手紙は、集団自決の現場に居合わせた証人のに直接の取材に相当する歴史的一次資料なので、長文だが引用する。
■比嘉喜順巡査の手紙
それで私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論自決場所のことも一部始終わかっております。 あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。
責任者として天地神明に誓ひ真実を申しあげます。 今までの戦争は満州、支那大陸で戦い、私達もその体験者の1人であります。 それが而も一番(不明)島、沖縄県、離島の自国内で連合軍の包囲を受け家族とも共戦争体験をしたのは、その人でなければ実際を語ることは出来ません。
「鉄の暴風」が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せてくれて驚いた程であります。 その時には既に遅く、全国に販売されていたようです。
それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した責任ある私達に調査もされず刊行されたことは私の一生涯の痛恨の極みであります。
沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べたことは今もって一度もございません。(略)
それで私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論自決場所のことも一部始終わかっております。 あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。
責任者として天地神明に誓ひ真実を申しあげます。 今までの戦争は満州、支那大陸で戦い、私達もその体験者の1人であります。 それが而も一番(不明)島、沖縄県、離島の自国内で連合軍の包囲を受け家族とも共戦争体験をしたのは、その人でなければ実際を語ることは出来ません。
「鉄の暴風」が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せてくれて驚いた程であります。 その時には既に遅く、全国に販売されていたようです。
それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した責任ある私達に調査もされず刊行されたことは私の一生涯の痛恨の極みであります。
沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べたことは今もって一度もございません。(略)それに比較して赤松隊長のとった行動は本当に良かったと思われました。 戦争中而も敵の海、空よりの砲撃のさ中で軍の食料(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さったあの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。 あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚りません。 徳嵩さんがどう云う理由で十二年保存されて、然も赤松さんが故人となられた今頃にから沖縄タイムスに掲載されたか、私には理解に苦しむものです。
赤松隊の生存者もをられるし、当時の村民も尚健在者が多数残っています。 それでお願いですが曽野綾子著「ある神話の背景」沖縄、渡嘉敷の集団自決、文藝春秋社刊をお読みにお読みになられたらと思います。
真実と云ふのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一歩的に出してそれで何も知らない人々がそれを信じることになり、大方はそんなものではございません。 私はそう思います。
歴史の事実も本当はそうであったかと、両方の調査をし、綿密に調べられてから、正しく報らすのが真の在り方と思われます。 私も貴方が出された「タイムス」の記事を見て、当時の沖縄戦の生々しい実態が甦り、本当に何とも言ひようのない悲憤慷慨と申しましょうか痛恨の念が一極です。
戦後一貫して沖縄に在住した安里巡査を沖縄タイムス等地元メディアは一度も取材していない。だが、県外のジャーナリスト鴨野守氏や『うらそえ文藝』の星雅彦編集長は安里巡査に複数回取材している。 安里巡査によれば、自分は赴任したばかりで島の地理に疎いので、赤松隊長に村民の避難場所を尋ねたところ、「作戦の邪魔にならない、部隊近くのどこか安全なところに避難させておったらいいでしょう。我々は死んでもいいから最後まで戦う。あなたたち非戦闘員は生きられる限り生きてくれ」と答えた。
しかし集まった村の幹部たちは、米軍の艦砲射撃の爆音で動揺しており、自決した方が良いという結論になった。自決が始まったが、手榴弾の使い方が分からない人がいたり、不発弾も多く、自決に失敗した村民たちが部隊の陣地になだれ込み、銃を貸してくれと頼んだ。 赤松部隊は村民の要請を拒否したが、そこに米軍の迫撃砲が撃ち込まれ、約60人が死亡しそれを見て皆われに返った。
赤松隊長は自決の知らせに驚き、「早まったことをしてくれた」と嘆いたという。米軍が上陸すると、赤松隊長は軍の食料の半分を民間と分け、安里氏はその分配に立ち会った。「部隊は最後まで頑張る。あなたがたは、このあるだけを食べて、あとは蘇鉄(そてつ)でも食べて生きられるだけ生きなさい」と言った。
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