狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

沈黙の謎 証言を阻む南の島の呪縛

2022-12-28 14:18:06 | ★集団自決

 

 

 

 

 

最も大きな障害は体験者の沈黙である■

沖縄戦、それも、特に「集団自決」の体験者の証言の聞き取り調査では、ある程度の話はしても肝心のポイントになると「多くを語らない」とか、場合によっては始めから沈黙を守る、とはよく聞く話である。

大城将保(嶋 津余志)元県立沖縄史料編集所主任編集員は、

その豊富な聞き取り調査の経験から、(真相解明の)「最も大きな障害は体験者の沈黙である」と断言する。

そして体験者のかたくな沈黙の理由をその著書『沖縄戦を考える』(ひるぎ社)の中で次のように分類している。

①あまりに残酷な目にあったために思い出すだに精神の苦痛に耐えられないという場合。 

②自分が真相を語れば関係者の誰かにめいわくが及ぶだろうと配慮している場合。 この場合共同体のタブーになっている場合が多い。

③遺族年金などとの関係で、すでに公式化された記録とくいちがう真相を語ると自分に不都合になる場合。

特定の思想信条の立場から、戦争の悲惨な側面を強調するのは好ましくないと考えている場合。

 

沖縄の新聞に登場する沖縄戦体験者の、

「多くを語りたがらなかった」といったフレーズは、

上記①の理由の「想いだすのも残酷だから」といった印象があるが、

真相に触れる重要なポイントでは、むしろ②と③が複雑に絡んで真相解明の障壁になっている。

これは、「軍命あり派」の大城氏も認めていることである。

「多くを語らなかった」どころか、事件当時村のリーダーであり、また島のリーダーの中の唯一の生存者でありながら、

自分の体験談を一切か語らなかった山城安次郎氏の言動は今でも謎に満ちて不可解だ。

山城氏の記録はネット上には、渡嘉敷島の「鬼の赤松」に関する伝聞証言のみで他には一切無い。

沖縄では普通のオジーオバーが長寿の記念等で「自伝」を出すひとも多く、「集団自決」関係者にも自決を指導したとされる座間味村助役宮里盛秀氏の父も自伝を出している。

ちなみに筆者の友人の母親も普通のオバーだが長寿のお祝いに自伝を出して親族一同に配ったという。(執筆・編集は長男があたった)

そんな沖縄の風潮の中で戦後沖縄のマスコミ業界を歩み、沖縄テレビの社長を務めたほどの著名人が「自伝」はおろか一冊の著書・共著も無く沈黙を守ったままなくなったのは不自然な話だ。

山城氏が沖縄テレビ社長に在任中に同社で勤務経験のある友人に同氏の印象を聞いてみた。

だが社長と一平社員では会話する機会もほとんど無く、唯一回だけ入社試験で社長自ら面接を行ったときの会話だけしか記憶に無いという。

その時は、「ロマンスグレーの温厚な紳士」といった印象だけで、勿論「参謀長」と呼ばれた男の面影は微塵も無かったという。

 

自由主義史観研究会機関紙『歴史と教育』(5月号)に掲載の拙文を下記に引用するが時間のある方は下記エントリーに目を通してから読んでいただくと幸いです。

「証言集」に見る新たな謎★教科書執筆者と体験者が初対面

「参謀長」と呼ばれた民間人★座間味で何があったのか

続・参謀長と呼ばれた民間人★座間味で何があったのか

「眼前の敵」 座間味で何があったか

悲劇を呼ぶ濃密な人間関係

                     ◆

証言を阻む南の島の呪縛(『歴史と教育』6月号掲載記事)

狼魔人(沖縄在住ブロガー)
「狼魔人日記」

◆取材記者と取材対象者

ある事件の取材に奔走する新聞記者を、その事件の体験者が記事にしてくれと訪問してきた。記者にとってタナボタ式のこんなオイシイ話は滅多にないはずだ。しかも社を挙げてこの事件を単行本にするという。場合によっては、その体験者を中心にした特集を企画しても良いはずだ。ところがその体験者は、自分の体験は語らず類似の別の事件の伝聞情報のみ語った。結局出版された本には、この体験者の体験記は一行も記されることはなかった。

『鉄の暴風』取材中の沖縄タイムス大田記者と彼を訪問した当時の座間味村助役山城安次郎氏のことである。座間味島の集団自決が起きた当時、山城氏は座間味村の国民学校教頭をしており、校長や村の三役と並んで島のリーダーだった。当時の島のリーダーは山城氏を除いて全て集団自決で亡くなっていたので、その時山城氏は、集団自決前後の村の状況を最も知る人間だった。だが実際は『鉄の暴風』には山城氏の証言や彼に関する記述は一行も掲載されていない。折角の実体験者の訪問を受けて大田記者は「座間味の出来事」を何も取材しなかったのだろうか。獲物には貪欲なはずの新聞記者が、ネギを背負った鴨を前に、座間味での集団自決を取材しなかったというのはいかにも不自然だ。  

山城氏が取材を避けているのならともかく、自ら事件告発のため新聞社を訪問した山城氏が、自分の体験を一言も話さなかったのも、同じく不自然な話だ。とすると大田氏は記者魂を発揮して取材し、山城氏は体験談を詳しく話したと考えるのが自然だろう。

では何故大田記者は、山城氏の体験談を記事にしなかったのか。二人が既に亡くなった今となっては、推測に頼る以外に術はない。  


◆「軍の命令」という思惑  

沖縄を占領していた米軍は、沖縄を日本から分断して、永久占領を目論んでいた。そのため沖縄人宣撫のために発刊されたのが『鉄の暴風』であり、同書は米軍のプロパガンダの役目を担っていた。『鉄の暴風』に山城氏の体験談が記載されなかったのは、太田氏と山城氏の夫々の思惑が合致したからではないか。その思惑は、更に次の三つの思惑に分けられる。    

〈米軍の思惑〉  
米軍にとって、山城氏の体験談を記載することは、「残虐な日本軍」の印象を県民に植え付けるのが目的の『鉄の暴風』の主旨にそぐわなかった。  

〈島の思惑〉  
戦後、村の助役として戦後補償に奔走したとされる山城氏は、「援護法」を集団自決の犠牲者全てに適用させたかったが、実際は軍命令ではなく村のリーダーのパニックによる誘導が原因だった。
 
〈加害者と被害者の思惑〉
集団自決といっても、座間味島の場合、手榴弾による自決者は暴発による犠牲者が数名だけで、他は農具等による殺し合いが主であり、自決を「手伝った人」も多くいた。そして生存者の中には、自らが被害者であり、また、加害者の立場に立たされた人が多くいた。  

この三つの思惑を見事に一致させる唯一のキーワードが「軍の命令」である。「軍の命令」さえあれば、自決の「手伝い」をした生存者は、贖罪意識のいくらかは救われる。そして現実的な問題として、「援護法」を自決した住民へ適用させるという思惑と、米軍の『鉄の暴風』発刊への強力な思惑が一致して、山城氏の体験証言は、以後、永久に闇に葬られることになる。  

山城氏はその後、島を出て、新聞社編集長を経て、テレビ会社に入社し、マスコミ業界を歩みつづけ、沖縄テレビの社長にまで上り詰めるが、大田記者とどのような約束があったのか、彼は一切自分の体験を語ることはなかった。  

ここに「残虐非道な日本軍の命令による集団自決」という神話が誕生する。「軍の命令」さえあれば、八方丸く納まったのだ。  


◆死亡広告は血縁社会の象徴

沖縄では沖縄タイムス、琉球新報の両紙が読者を二分している。地元紙の極端な偏向記事をブログネタにさせてもらっているが、地元の読者から次のようなコメントを何度か頂いた。

「死亡広告さえなければ、偏向した地元紙の購読は即刻やめるのだが…」

新聞の死亡広告は、沖縄県民の人間付き合いには、不可欠のもので、これだけは毎朝欠かさず目を通すという人もいる。沖縄の地元新聞を初めて見る他県人は、一面または、日によっては、二面にまたがる死亡広告欄に度肝を抜かれる。

常識に従うなら、死亡広告とは、故人がその地方で社会的に知名度が高く、特に交際範囲が広い場合に、新聞に掲載するもの。ところが沖縄の死亡広告は、本土のそれとは趣を異にする。

沖縄では、ごく一般の県民の死亡広告が、連日紙面を大きく占拠する。しかも本土紙の「訃報」記事とは異なり、故人の生前の業績等には一切触れず、故人の親戚縁者の名前を孫から曾孫、従弟、従妹そして義兄弟に至るまで詳細に記載する。親戚縁者は沖縄に留まらず千葉在、ハワイ在と世界中に在住する縁者の名前にも及ぶ。死亡広告に記される親類縁者の名前が、百人に及んでも、沖縄ではけっして珍しいことではない。死亡広告は、沖縄の濃密な血縁社会と人間の絆を示す象徴である。

濃密な人間の絆は、祖先を大事にする沖縄独特の風習であり、それに基づく相互扶助の精神は、「結いまーる」といった形で現在も残っている。

だが濃密な血縁社会の絆も、大事件に遭遇すると人々の判断を大きく狂わす場合がある。周辺を海で囲まれた沖縄の県民性は、現在では一見陽気な印象を受けるが、古い世代の県民性は、逆に内向的とされており、特に外部の人には閉鎖的になることが多かった。沖縄の離島の村落では更にその傾向が強く、血縁・地縁・職縁が渾然一体となり、島全体に閉塞的な空気を作り出す。  

沖縄人は、他県人に比べて、年寄りを大事にするといわれるが、戦前の沖縄では、年寄りは、地域社会の長老として大きな発言権を持ち、重要な決定事項には長老の意見が大きく反映された。  

リーダーの意思決定に異を唱えるものや遵守しない者に対しては、本人や肉親、更に関わった者まで異端視される。集団自決は、そんな沖縄の、渡嘉敷と座間味の両島で起きた悲劇である。そして村長を筆頭に村のリーダーが、集団自決の意思決定に大きく関わった。  

野生動物でも人間でも、大事件に遭遇しパニックになった集団のリーダーは、往々にして判断を誤る。座間味、渡嘉敷島の集団自決では、周囲を敵艦船に包囲され袋のネズミ状態に直面した村のリーダーの意思決定がとんでもない方向に向かった。そして誰もこれに逆らうことが出来なかった。


◆宮城初枝氏の口を塞ぐ島の呪縛

座間味島の集団自決の生き残りである宮城初枝氏は、証人として「援護法」の調査に来た厚生省の役人の調査に臨む前に、村の長老から脅迫的圧力を受け、「軍の命令」を証言する。  

その証言と自分の書いた「軍の命令」の手記が、梅澤隊長の運命を狂わしたことを知り、血縁社会の呪縛と真実の狭間で初枝氏は悩み葛藤する。『家の光』に虚偽の手記を書いてから数十年後の昭和55年、初枝氏は梅澤氏への贖罪意識から梅澤氏に面会し、「あなたが命令したのではありません」と真実を告白した。


◆更なる悲劇の登場

初枝氏は梅澤氏への真実の告白に留まらず、改めて事実を記した手記を出版することで、流布する「梅澤命令説」を覆そうとした。村の長老の脅迫的とも言える地域社会の呪縛を直に経験した初枝氏は、戦後生まれで村のしがらみにはとらわれないと思われた娘晴美に、真実を書き綴った一冊のノートを託す。  

晴美氏は、母の死後『母の遺したもの』を出版することになるが、それにより新たな悲劇が晴美氏を襲うことになる。戦後も〈当事者〉の親族に絡みついてくる悲劇の島の呪縛である。  

「軍の命令による自決」という虚構が、軍への協力という名目で戦後の村を潤していた。軍の命令を聞き分けられないと判断される6歳未満から零歳児の戦没者まで、「軍の命令」による死亡として「準軍属」とみなされ、年金の対象とされていたのだ。  

当然のごとく晴美氏は、島の関係者から猛烈なバッシングを受けた。血縁社会の島では、〈当事者〉遺族が年金の恩恵を受けており、そのしがらみは、「偽証言」に関わった初枝氏や村の長老に留まらず、村の年金担当課長にまで及んでいた。  

島ぐるみで守ってきた「島の秘密」を、『母の遺したもの』で暴露され、晴美氏へのバッシングは激しさを増し、「年金が差し止められたら晴美氏が補償してくれるか」との声もあったと聞く。


◆左翼勢力の呪縛

晴美氏の悲劇は、母から引き継いだ呪縛だけではなかった。日本復帰後、急速に台頭してきた沖縄左翼勢力の呪縛である。戦後生まれの晴美氏は、地元の大学に進み左翼学者安仁屋政昭教授の薫陶を受け、地元の「プロ市民」になっていた。  
自著が大阪地裁の原告側証拠として提出されるや、被告側証人となった恩師との板ばさみという苦境に立たされることになる。晴美氏は母の遺言に反して被告側の証言台に立つことになるが、証言直後に『母の遺したもの』を書き変えるという恥ずべき行為に及ぶ。  

母は戦中戦後と島の呪縛に悩んだが、これを引き継いだ娘は新たな左翼勢力の呪縛に巻き込まれることになる。集団自決が親子二代に渡って引き起こした悲劇である。


◆二人の体験者の戦後

渡嘉敷島の生存者金城重明氏は、親兄弟のみならず、他人の自決にも「手を貸した」。島を出た金城氏は「軍の命令」と現在も叫び続けているが、そうしなければ戦後生きてはいけなかった。一方、座間味島の生存者山城安次郎氏は、自分の体験を黙して語らないまま、真実を墓場まで持ち込んだ。
 
集団自決の生存者は、単に死にきれなかった人たちだけではなく、金城氏や山城氏のように、他人の自決を「手助け」したり、自決に誘導した人が大勢いる。  

集団自決の真相は、これら生存者の証言に絡みつく濃密な共同体の呪縛と、死んだ人への贖罪意識を抜きにしては解明できない。

特集・沖縄集団自決:虚構の軍命令 不当判決篇の目次へ   

特集の目次へ

                       ◆

大江健三郎著『沖縄ノート』は、沖縄タイムス編著『鉄の暴風』が主張する「軍命令による集団自決」を大前提として書かれ、1970年の初版以来、今日まで59版(合計30数万部が発行) を重ねてきた。
 大江氏は慶良間列島の座間味及び渡嘉敷両島で集団自決を命令したとされた梅澤裕少佐と赤松嘉次大尉らを、〝屠殺者〟と呼び、その行為を〝人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊〟と断罪した。

人は「軍命」で死ねと言われて容易に死ねるものではない。ましてや自決命令をした軍人は現場に臨場しておらず、米軍との応戦で大童の状況にあった。

 少なくとも2023年1月の時点で「日本軍が集団自決を命じた」という客観的証人も証言は一件も存在しない。

これらは1973年の曽野綾子氏の『ある神話の背景』(ワックBUNKO「『集団自決』の真実」と改題)に詳述されている。

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政府主導の「公金横領」■茶番劇!靖国合祀訴訟 戦争加害者と同列視するなだって

2022-12-28 12:30:07 | ★改定版集団自決
 

 

 

 

沖縄戦の再検証のため過去ブログを編集して再掲しています。

今回はこれ。⇒茶番劇の靖国合祀訴訟 戦争加害者と同列視するなだって2010-10-31

古い記事の引用なので、新しい読者にとっては理解しにくい部分が予測できる。

例えば証言者としての石原昌家沖国大教授や玉井渡嘉敷村村長など。そして関連する裁判も大江・岩波・集団自決訴訟の他に靖国合祀取消訴訟など。

沖縄戦については再検証の上、いずれ資料集として発刊の予定だが、その前に現在の読者の理解のため関連記事を再掲しよう。

今回は石原教授の致命的証言!援護法申請で2020-08-28に関連する記事。

               ★

 

那覇地裁で沖縄靖国合祀訴訟の判決が出た。

結果は、もちろん原告の敗訴。

だが、常識ある人なら誰でも原告敗訴を予想できた。

さらにこの真っ当な判決に「不当判決」といきり立つ「識者」がいるのも想定できる。

世の中は面白い。(笑)⇒靖国合祀取り消し訴訟不当判決

この裁判は根っこで「集団自決」「援護法」そして「教科書記述」と複雑に絡み合う。 

だが、当日記がブログで取り上げるのは今回が初めてである。

集団自決に関しては、しつこいほど書いている当日記がこれまで避けてきた理由は、きわめて単純。

馬鹿馬鹿しくて論評に値しないからだ。

だが、その馬鹿馬鹿しい裁判も新聞が一面や社会面のトップで曲曲しく報道すると、多くの読者が誤解する。

当然、当日記としては誤解を解かねばならぬ。

それにしても「集団自決訴訟」の当事者ともいえる沖縄タイムスが、この靖国合祀取り取消訴訟について社説を書いていないのは不可解だ。

沖縄タイムスは、この訴訟が「死者の尊厳」の問題にみせながら、実際はイデオロギーのみの茶番劇であることを一番分かっているからではないか。

まあ、社説はしばらく待つとして、この問題で張りきっている琉球新報の社説を引用する。

靖国合祀訴訟 戦争加害者と同列視するな

琉球新報社説 l2010年10月28日               

 沖縄戦で肉親を亡くした上、無断で靖国神社に「英霊」として合祀(ごうし)され、精神的苦痛を被ったとして、県内の遺族5人が起こした合祀取り消し訴訟で、那覇地裁は国、靖国神社双方への請求を退け、損害賠償も棄却した。
 今回、原告が問題視したのは、戦争の被害者である肉親が、加害者側に立つ軍人・軍属と同列視されているからだ。判決は、尊い肉親の御霊(みたま)を無関係な宗教団体が勝手に祭ることで当然生じる精神的苦痛に背を向け、非戦に向けて沖縄戦の歴史を正確に刻む営みに対する理解が欠けている。
 
沖縄戦で犠牲になった人たちの意思確認がない無断合祀を追認した上で、神社側の「信教の自由」を認める形の筋違いの司法判断が及ぼす影響は大きい。先例となる大阪地裁判決をほぼ踏襲し、激しい地上戦があった沖縄戦の特殊事情を深く考察した形跡もない。
 判決理由で、平田直人裁判長は、英霊として祭られたことへの原告の嫌悪感も理解できないわけではないとしながら、「合祀によって社会的評価が低下するとは想定できず、遺族の信教の自由の妨害とは認められない」と指摘した
 
国が神社に情報提供したことが合祀につながった点についても、「宗教的な色彩はなく、合祀の一部を構成しているとまでは言えない」と国の責任を否定している。
 判決によると、
靖国神社は援護法と絡んだ国による情報提供に基づき、遺族の同意なしに10人を合祀した。うち6人は避難壕から追い出され、砲弾の雨の中で死を迎えた主婦や2歳の幼児ら一般住民だが、「準軍属」として合祀された。判決はこうした矛盾と非人間性を正当化、追認した。
 遺族の苦痛が法的保護の対象か、権利侵害になるか否かという狭い解釈論にとらわれ、大局を見失ったという印象を抱かざるを得ない。
 
法廷でも証言した石原昌家沖縄国際大名誉教授は「壕から追い出され死亡した住民が壕を提供したとされるなど、沖縄戦の真実を捏造(ねつぞう)した」と強調し、合祀取り消しが沖縄戦の真実を正す手段と指摘してきた。
 事実と違う合祀に伴う遺族の二重の苦しみは救済されず、原告は控訴をすぐ決断した。控訴審は沖縄戦の本質に迫りつつ、被害者を戦争に馳せ参じた英霊として祭る無神経さを常識で問う曇りのない裁きにしてもらいたい。

                       ◇

「集団自決訴訟」と「靖国訴訟」では真逆のことを平気で主張する石原昌家沖国大名誉教授と「援護金」について2、3述べてみたい。

 

■政府主導の「公金横領」■

原告は、肉親が英霊として靖国に祭られているのは精神的苦痛だというが、戦死した親の墓を暴いて遺骨を靖国神社に持ち込んだわけでもなければ、また合祀して皆で英霊を侮辱し貶めているわけでもない。

それどころか毎日多くの参拝者が手を合わせて戦死者の鎮魂を祈っているのではないか。

それが精神的に我慢できないというのなら、せめて金銭面では身辺をきれいにしてから言うべきではないか。

まず靖国に合祀された根拠となる「援護金の受け取り」を拒否し、過去に受け取った総額を国に叩き返してから、大口を叩くべきではないか。

英霊としての援護金はしっかりもらっていながら、その一方で精神的苦痛クソもないだろうが。

軍人でもない一般住民が、沖縄に限って靖国に合祀さたれた経緯は、戦後沖縄の市町村が援護法の一般人への適用を熱心に国に働きかけ、それに同情した国側が「拡大解釈」で支給するために軍人扱いしたことが原因である。 その過程で2歳の子供も軍人あるいは軍属として靖国神社に連絡が行き、それが合祀に繋がった。

従って何とか「援護法」を沖縄の民間人に適用したいという国側の善意が、「軍への協力」や「軍の命令」を考え出させたのだ。

現在の弛みきった厚生省官僚達と違って、当時の厚生省援護課には、担当窓口職員にわざわざ沖縄出身者を配属し、沖縄の声を出来るだけ聞くという心優しき官僚がいた。 これは後述のタイムス記事から窺い知ることが出来る。

石原教授は、援護法について「靖国訴訟」では、「戦闘行為が不可能な2歳児が軍属扱いで合祀されるのは、国家による歴史捏造だ」と主張している。 つまり国が援護金を沖縄の民間人に支給するため民間人が「壕提供」や「食料提供」等を軍の命令・強制で行ったと申請書の作成を指導したというのだ。これらは自らの意思で行ったのでははなく、国が指導した書類上の方便であるための事実ではない。 従ってで歴史捏造という論法だ。

ところがこの人物、「集団自決訴訟」では「集団自決」は軍の命令だと主張している。

一方では国が援護金支給の口実にするため「軍の命令」を捏造したと言いながら、その同じ口で「軍の命令」で集団自決をしたと主張する。

こんないい加減な人物が沖縄の新聞では「識者」として意見を吐くので事情を知らない読者は皆騙されてしまう。

「軍への協力」「軍命による行為」が書類上に記載されなければ、遺族は「擁護法」で救済されなかったのだ。

そこに国側の「善意」の思惑が働き、「援護法」が適用されるに文章を改ざんしてまで救済の道を開いた。 これがが事実である。

ところが石原教授は、この事情を一番良く知る人物でありながら、「靖国訴訟」では「国が歴史を捏造した」と原告側の応援団になり、その一方で「集団自決訴訟」では、国側が自決命令と方便を使った事実には目を閉ざし「集団自決は軍の命令だ」と被告側の応援団にまわるような二枚舌の人物である。

そこに教科書問題が絡むと石原教授はさらに、教科書にも「残虐非道な日本軍」と記述しなければならないと主張する。 

当時の厚生省は「援護法」申請者に可能な限り許可を与えるため、政令を連発して軍命を暗示、誘導して申請書を書き換えさせた。

拡大解釈してでも何とか「援護法」申請を受理しようとした当時の厚生省は、「軍命があれば受理出来る」と何度も誘導の文書を村役所の担当者に送っているという。

言葉を変えれば当時の厚生省の措置は、村役場と遺族を含む三者が口裏を合わせて公金を横領したと言われても仕方のない強引な処理であった。

従って靖国に合祀された戦死者の遺族が「合祀取り消し」を訴える裁判なsど馬鹿馬鹿しくて付き合ってはおれないのである。

ただ、実際には存在しない軍の命令を政府指導で捏造し、「援護金」と言う形の公金を横領したことも現在の価値観や法律で断罪できない。

原告は、控訴をするというが、援護金の受け取りを拒否してからの控訴でなければ、恥の上塗りになるだけだ。

 

【おまけ】

■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■

当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。

 沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さん(77)=静岡県=だ。

 一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。

 沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。四五年三月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣する集合に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。

 大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として、亡くなった。戦後、そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。

 多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。

 沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。

 前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ。

 「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」

 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。

 沖縄の市町村が受け付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに、尋ねた。

 「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか」

 沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられた。・・・ (社会部・謝花直美) >

                    ◇

【おまけ2】

政府が援護法認定のために、実際は存在してない「軍命令」を、「軍命令があった」と申請するように示唆した。

その「政府の書き換え指導」を調査した石原昌家沖国大教授の論文はこれ。

政府が書き換え指導  援護法認定、「軍命」基準に

語るに落ちたとはこのことだが、石原教授は「集団自決」という言葉さえ「強制集団死」とすべきだと主張している。

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自決命令を下した「田中軍曹」の謎

2022-12-28 09:38:09 | 資料保管庫

 

 

 

 

 

■自決命令を下した「田中軍曹」の謎

 集団自決は、沖縄だけではなく樺太や満州でも起きていた。それでは、なぜ沖縄の集団自決だけが大きく問題にされるのか。
 理由の一つが「援護法」の沖縄県民への拡大適用。もう一つが『鉄の暴風』(沖縄タイムス社編、朝日新聞)、『沖縄ノート』(大江健三郎著、岩波出版)などの沖縄戦関連書籍による元隊長へに対するいわれなき誹謗である。
 集団自決で特に問題にはならなかった沖縄本島中部の金武村(現在の金武町)では、援護金申請の依頼を受けた村の指導者が、すべての申請書に「軍の命令による」と記入し、命令を発した軍人の名を「田中軍曹」という架空の名前を使用した。

  元々、沖縄住民に援護金給付をする目的の特例だったため、当時の厚生省は、裏付け調査を省いて、書式さえ整っていたらすべてを給付の対象にした。

架空の軍人を申請書に書いて援護金の受給を受けた成功談は、戦後金武町教育委員会町史編纂室に務めた奥間俊夫氏がこう証言している。


 <もらえるものはもらいなさい、という役所の指導があって病気や空襲で死んだ人たちの遺族も便乗して申請したんです。申請書類には誰の命令で行動したか、を記入する欄があるんですがなぜかほとんどが“田中軍曹”でして調べてみるとそんな人は実在しないんです。 聞き取り調査をしても、本で読んだ話を自分の体験のように語るし何人かで集まってもらっても、「それ、言っちゃダメ」とかお互いに牽制しあう。結局丸くおさめるには「みんな日本軍にだまされて協力させられた」という話にするしかないわけです」>(引用「からくり民主主義」高橋秀美著、新潮社)

 

「援護金」を受給するために“田中軍曹”という架空の日本兵をでっち上げた金武町の場合は丸く収まったが、渡嘉敷、座間味両村の場合は、実在の梅澤裕氏と赤松嘉次氏を「軍命を下した日本兵」と明記したため、その後に大きな問題を残した。これら歪曲・捏造された証言も一旦、公的刊行物に掲載されると公式見解としての「沖縄戦史」として一人歩きすることになる。

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世界は贈与でできている

2022-12-28 04:37:13 | 経済

世界は贈与でできている

世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学 (NewsPicksパブリッシング)
贈与は、モースからグレーバーに至るまで、人類学の中心的テーマである。資本主義は近代西欧に固有のシステムであり、市場経済もそれほど普遍的なルールではない。人類の圧倒的多数は市場を通さない贈与で生活してきたので、そのしくみを明らかにすることは、本来は経済学者の仕事である。

しかし新古典派経済学は、対象を価格メカニズムに限定したので、贈与に取り組んだのはバタイユやフーコーぐらいだが、いずれも未完に終わった。今も贈与を成り立たせるメカニズムは不明である。
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本書の「世界は贈与でできている」という発想はいいが、そのあとの話が散らかって、何を言いたいのかわからない。主題になっているウィトゲンシュタインの話もトンチンカンだ。贈与は単なる言語ゲームではなく、資源を他人に与える実物的コミットメントであり、おそらく言語より古いのだ。

肉体的に弱いホモ・サピエンスが、生存競争の中で生き残る戦略として発見したのが、集団行動だった。人類は直立歩行で自由になった手で道具をつくり、大きな脳で他の個体と協力して、大型哺乳類を殺す技能を獲得した。集団行動のためには他人とコミュニケーションをとり、自分が集団のメンバーであることを示す必要があるが、その通信手段が贈与だった。

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