江沢民氏は日本との関係では歴史問題で厳しい姿勢をとり学校で反日教育を進めた。1998年の日本訪問で江氏は過去の歴史について謝罪を要求したほか天皇陛下との晩さん会では過去の日本の軍国主義を批判し、中国の反日政策の端緒となった。
中国の強国・強軍路線に道筋、歴史問題巡り日中対立きっかけも…江沢民氏死去
【北京=比嘉清太】中国の江沢民(ジアンズォーミン)元国家主席(元共産党総書記)が30日午後0時13分(日本時間同1時13分)、白血病による多臓器不全のため上海市内で死去した。96歳だった。国営新華社通信が伝えた。江氏は毛沢東、トウ小平に続く世代の指導者として中国を高速経済成長に導き、現在の習近平(シージンピン)政権が突き進む強国・強軍路線への道筋をつけた。 【江沢民氏・写真特集】天皇陛下と乾杯・習氏の報告中にあくび…
死去を受けた「全党・全軍・全国各民族人民に告げる書」では、江氏を「崇高な威信を持つ卓越した指導者」「偉大なマルクス主義者」などとたたえた。
2019年10月1日、北京で建国70年を記念する軍事パレードに臨む江沢民氏(右)。隣は習近平氏と胡錦濤前国家主席=片岡航希撮影
江氏は1989年6月、天安門事件で失脚した趙紫陽元総書記の後任として当時の最高実力者・トウ小平に、上海市トップの市党委員会書記から抜てきされた。トウが敷いた改革・開放路線を忠実に歩み、2000年には指導思想「三つの代表」を提唱し、資本家の入党に公式に道を開いた。01年には世界貿易機関(WTO)への加盟も果たした。総書記在任中の13年間の経済成長率は年平均9%を超えた。
一方、対外的には強硬な面も目立った。96年3月の台湾初の総統直接選挙を前に、中国軍が95年7月から96年3月にかけ、台湾上陸訓練や台湾沖への弾道ミサイル発射を繰り返し、台湾独立の動きをけん制した。
江氏は愛国主義教育も進め、「日本に対して歴史問題を永遠に言い続けなければならない」と主張。98年の来日時には宮中晩さん会で歴史問題を持ち出し、日本国内の対中感情を悪化させるなど歴史問題での日中対立のきっかけを作った。
引退後も党や軍に隠然とした影響力を保ち、後任の胡錦濤(フージンタオ)前政権への「院政」を敷いたとされ、習国家主席の政権発足には江氏の支援もあったとされる。習氏は自らの「1強体制」確立へ、汚職摘発を通じて江氏に連なる勢力の排除を進め、その影響力の低下を図ってきた。江氏が公の席に姿を見せたのは、19年の建国70年記念式典が最後だった。
江沢民氏は1989年6月4日の天安門事件後に、当時の最高権力者の鄧小平氏によって中国共産党総書記・中央政治局常務委員に抜擢された。これを受け、江氏は若者への愛国主義教育と反日教育を推進した。江氏が権力の階段を駆け上っていた1992年2月、中国の全国人民代表大会(国会に相当)常務委員会で領海法を制定し、尖閣諸島を中国領土と明記したことも忘れてはならないだろう。 江氏は1998年の訪日時には宮中晩さん会で天皇陛下の前で歴史問題を持ち出し、軍国主義批判を展開。日本国内の対中感情を悪化させた。