昨今、「歴ジョ」なるモノがそこかしこを跋扈しているらしい。
彼女達が聞けばこぞって参加したくなるような興味深きマラニックに参加してきた。
龍馬マラニック。
下記コースで龍馬ゆかりの地をランで巡るという企画。
三条-河原町界隈(旧長州藩邸、桂小五郎・幾松寓居跡、酢屋、旧土佐藩邸、近江屋跡)-蛸薬師通-四条大宮(10時30分)-壬生界隈(新撰組屯所、壬生寺)-島原(島原大門、輪違屋、角屋)-梅小路公園-東寺-羅城門跡-旧千本通(鳥羽の作り道)-鳥羽離宮跡(コンビニ有、昼休憩)-伏見界隈(旧薩摩藩邸、龍馬通り、寺田屋、月桂冠大倉記念館)-桃山御陵前(1時)-御香宮-R24-橦木町-琵琶湖疎水-本町通-東福寺-東山通-霊山神社(坂本龍馬の墓見学、有料300円)-円山公園-龍馬とおりょう結婚の地-白川新橋-三条 約30km(約6時間)
この素晴らしき発案をより一層引き立ててくれたのがラン仲間Kさんによる京都観光ガイド。歴ジョをも唸らせる卓越の解説だった。
その一端を楽しんでいただく為に公開されたKさん解説書をここでもお披露目させていただく。
以下、Kさんの解説書より抜粋。
少々長いですが歴史のお勉強やマラニック企画等にお役立てください。
京阪三条駅に荷物を預けさぁ出発!
■三条小橋を高瀬川沿いに南に折れ、1筋目を西へ入ったところが「酢屋」。
材木商の酢屋嘉兵衛が龍馬に住居と海援隊の事務所を提供。近江屋で暗殺される3日前まで住んでいたところ。今はギャラリーになって、龍馬関係のお土産も売っています。
■その「近江屋」は河原町通りを南へ、蛸薬師をわずかに下ったところ。
1867年11月15日、ここで龍馬は中岡慎太郎とともに刺客に襲われ、わずか33歳で死去。龍馬は頭蓋骨を割られ、その血しぶきを浴びた掛け軸が京都国立博物館にあります。
■河原町通りを挟んで、すぐ向かい側が「土佐藩邸」。脱藩したとはいえ、藩邸にかくまっていれば・・・。それに、河原町通りは今のような道幅ではなかったから、近江屋と藩邸はわずか4、5メートルほどの距離だったはず。悔やまれますねぇ。ところで、龍馬を殺したのは誰か?という犯人探しには諸説あって、いまだに結論は出ていません。当初、実行犯は新撰組とされ、のちの近藤勇の斬首につながるのですが、現在では見回り組が通説のようです。その黒幕となると、さらに諸説紛々。岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛、桂小五郎・・・そうそうたる顔ぶれ。まぁ、それだけ敵が多かったわけですね。
■龍馬とは直接関係はありませんが、三条小橋の西が「池田屋」。新撰組が尊攘派の長州藩士に壊滅的打撃を与えた、あの池田屋騒動の舞台。先ほど名前が出た桂小五郎は、この日、早く着いてまだ誰も集まっていないので、いったん池田屋を出て、対馬藩邸(河原町教会の裏)に行っていたため難を逃れた強運の持ち主。いくら桂といえども新撰組の猛者たちを相手には勝ち目はなかったでしょうね。歴史の明暗ですなぁ。木屋町御池を上がったところが、その桂と幾松の寓居跡(現在は料理旅館「幾松」)。その向かいが佐久間象山と大村益次郎の遭難碑、大村宅はそのすこし北。河原町御池角のホテルオークラが、かつての長州藩邸。
■「二条城」は、慶応3(1867)年10月13日、大政奉還が発表されたところ。この日、龍馬は近江屋で海援隊の同志たちと「歴史的な瞬間」を待っていました。慶喜の英断を聞いた龍馬は、男泣きに泣いたといわれています。これで、多くの同士の命が救われ、日本の近代が幕を開けたと・・・ちなみに、「倒幕の密勅」が薩摩に下されたのが13日、長州へは14日でした。みごとなタイミングでしたねぇ。
■四条の一筋南、綾小路通りを西へ向かい、大宮通りを越えると「壬生」。
新撰組が屯所を置いた「旧八木邸」と「旧前川邸」が現存しています。1863年、江戸から来た近藤勇・芹沢鴨ら13名が八木源之丞邸を宿舎とし、その他の隊士は斜め向かいの前川邸に分かれて住みました。前川さん一家は新撰組に屋敷を占領され、本家の方へ移らざるを得なかったといいますし、八木さんもご近所も相当迷惑したようです。困った居候ですが、どうすることもできません。だって、逆らったら怖いですもんね。
現在、八木家が経営する隣の茶房・鶴壽庵で「屯所餅」「誠最中」など新撰組ファンにはたまらないお菓子も売っています。
■八木邸の斜め向かいが「新徳寺」。
ここで1863年、江戸から上洛した浪士隊の隊長・清河八郎が、総勢234名を前に尊皇攘夷の大演説を行った。どうも話がおかしいと江戸に戻る清河らに反して、近藤勇・芹沢鴨ら13人は京都に残り八木さんにお世話になるという、先ほどの話につながります。新徳寺の本堂は当時とほとんど変わっていないそうですが、どう見ても200人以上が入れるとは思えないから、外まではみ出して大騒ぎだったんでしょうね。内部は残念ながら非公開なので、外から眺めるだけ。
■そこから西へ行くと壬生狂言で有名な「壬生寺」。
毎年節分会で上演されるユーモラスな狂言を新撰組の隊士たちも見たはず。沖田総司が境内で子供たちと遊んでいたという話も伝わっています。坊城通から入った右手には新撰組隊士の墓「壬生塚」もあります。また、新撰組は境内で軍事訓練をして、寺側はとても迷惑したらしく、朝廷に嘆願書を出しています。
■壬生からさらに南下して、五条通りをこえると「島原」。
かつては京都一の遊廓。祇園町は薩長の田舎侍が遊ぶところで、格式の高い島原は幕府方。新撰組もよく遊んだといわれていますが、なにせ値段が高いので、幹部連中はともかく、一般の隊士には縁遠いところだったようです。
今残っているのは、揚屋建築の「角屋」や置屋建築の「輪違屋」、それに島原大門くらいで、当時の賑わいを偲ぶよすがもありません。
■時間があれば「西本願寺」へ寄ってもいいかも。
慶応元(1865)年3月、新撰組は壬生から西本願寺境内に屯所を移しました。隊士の人数も増え、壬生の屯所が手狭になったことと、市中取り締まりに不便を感じての移転だったようですが、新撰組は境内で豚を飼って鍋にしたり、軍事訓練をしたので、臭いや騒音で寺側は大変迷惑したといいいます。 2年後、新撰組は屯所を近くの不動堂村(今のリーガロイヤルホテルあたり)へ移しますが、移転費用は西本願寺が全額出したそうです。お金を払ってでも出て行ってほしかったんでしょうね。
壬生の八木さんや前川さん、壬生寺や西本願寺にとって、新撰組はずいぶんと迷惑な闖入者だったようです。まぁ、新撰組にしてみれば、京都守護職・松平容保の配下として、京都の治安維持にあたっているわけで・・・
そこからすぐ南西が梅小路公園。ここで小休止。ここまで約7キロ。
■「梅小路公園」は、平清盛の屋敷「西八条第」(にしはちじょうてい)があったところ。広い芝生とトイレもいっぱいあって、市民の憩いの場です。JRの線路を越えると「東寺」、正式には「教王護国寺」。幕末&龍馬との関係は特筆するようなことはありませんが、なんたって平安時代からの庶民の寺。龍馬だって、新撰組だってお参りに来たことくらいはあるでしょうし、「弘法さん」の縁日を冷やかしたかもしれませんね。五重塔は、京都のどこからでも見えるシンボルタワーでした。
少し西へ行って「羅城門跡」から南下します。
■ここから伏見までは、幕末当時は九条ネギなどの畑が続く農村地帯で、鴨川と桂川の氾濫原です。大きな建物は「城南宮」の社がくらいだったでしょうか。
城南宮は、白河天皇の建てた鳥羽離宮の一部で、京都御所の裏鬼門を守る神社。今でも方除け、厄除けの神として信仰されています。
すぐ南の「鳥羽離宮跡」の公園で昼食。近くにコンビにもあります。東寺からここまで約4キロ。
■このあたりは「鳥羽・伏見の戦い」(戊辰戦争)の舞台です。
慶応4(1868)年1月3日、旧幕府軍と新政府軍が、鳥羽街道の小枝橋付近でにらみ合いになり、旧幕府軍が強硬突破をしようとした際に、この鳥羽離宮に陣取っていた薩摩軍の大砲が一発。これがきっかけとなり鳥羽・伏見の戦いが始まりました。
現在、小枝橋近くと、大砲が置かれていた公園内の秋の山に「鳥羽伏見戦跡」の碑があります。
フゥ~、やっと伏見に着きました。市内から10キロちょっと。結構離れています。だから、伏見は京都市内といっても、ちょっと京都とはちがうんです。そもそも、伏見は一時「伏見市」だった時もあったくらいで、地理的には、淀川水系の北河内に属しているし、生粋の伏見人は、洛中の京都人とは明らかに気質も言葉も違います。だいぶ前ですが、伏見桃山の駅前に「お買物は京へ」という大丸の看板がかかっていて、なるほどなぁと感心した記憶があります。
伏見は、秀吉の伏見城の城下町であり、伏見港の港町であり、後には第十六師団司令部が置かれた軍都でもあり、酒は美味いし(関係ないか)・・・伏見は多彩な顔を持った町です。ここだけで1日中走り回ることもできますが、今回は幕末の志士のように一気に駆け抜けることにします。
■伏見で龍馬といえば「寺田屋」。
慶応2(1866)年1月24日、深夜2時ごろ、龍馬は長府藩士・三吉慎蔵とともに泊っていた船宿「寺田屋」で、伏見奉行所配下の捕方約百人に包囲されます。この時、入浴中のお龍さんが裸で階段を駆け上がり急を知らせ、龍馬は高杉晋作から贈られたピストルで応戦しますが、不覚にも指を切られピストルに弾も込められない。結局、三吉とともに何とか寺田屋を脱出して、材木小屋に隠れているところを薩摩藩に救出されます。三吉が薩摩藩邸(現在の「玉乃光酒造」あたり)に駆け込む前に、すでにお龍さんが龍馬の危機を知らせていたというから、彼女の活躍がなければ・・・女傑ですなぁ。
この後、龍馬は切られた指の治療のため鹿児島(薩摩)の温泉へ向かいます。この湯治は西郷が勧めたもので、幕吏の追求を逃れるためでもあったようです。この旅行が、龍馬とお龍さんの新婚旅行になりました。
なお、当時の「寺田屋」は鳥羽・伏見の戦の時に消失していて、現存する建物は後に再建されたものであることが、2008年に京都市から公式に発表されました。以前は「柱の刀傷」とか「お龍の入った風呂」とかを売り物にしていたんですが・・・まぁ、野暮なことは言わないことにしましょう。
寺田屋のすぐ東から、北に向かう細い商店街が「龍馬通り」。
昨今の龍馬ブームで、商店街も活気づいているようです。
■さて、前回に続いて「鳥羽・伏見の戦い」。
鳥羽方面から大砲の音が聞こえてまもなく、伏見でも戦闘が始まります。東軍(旧幕府軍)の本拠地になったのが、伏見奉行所(現在の桃陵団地一帯)です。王政復古の大号令にともない大阪に引き上げていた新撰組も、まもなく戻ってきて最前線で戦います。一方、西軍(新政府軍)はすぐ北の「御香宮」に本陣を構え、大手筋を挟んで目と鼻の先の伏見奉行所に砲撃を加える。土方歳三率いる新撰組も刀や槍で応戦しましたが、大砲の威力には勝てず退却。その後も淀、橋本と東軍は退却を繰り返し、ついに大阪城へ撤退。
■「御香宮」は、神功皇后を祀る大社で安産の神様として知られています。伏見城の大手門を移した表門、桃山建築の拝殿、小堀遠州の石庭などがあります。拝殿の右の駐車場の奥に「戊辰戦争の碑」があり、神社には戦死者の名簿があって新撰組の戦死者24名の名前も載っているそうです。
さぁ、急ぎましょう。マラニック当日までに洛中へ戻らないと。
大石内蔵助も遊んだ撞木町の遊廓跡から、疎水に沿って北上します。
■かつて、京都と伏見を結ぶ水運は「高瀬川」だったのですが、現在の二条から木屋町通り沿いを南下する高瀬川は、鴨川以南の東高瀬川と繋がっていないので、残念ながら、京都から伏見港を経て宇治川・淀川を大阪まで下ることはできません。
疎水沿いの遊歩道を「藤森神社」、「第十六師団司令部」(現在は聖母学院)を右手にかすめながら一路北上。十条で疎水を離れ、本町通りから東山へ向かいます。
■「龍馬の墓」がある「霊山護国神社」へ一気に上ります。上り坂がきついですが頑張りましょう。この神社は、幕末から第二次世界大戦までの戦没者を護国大神として祀ってあります。中岡慎太郎と並んだ龍馬の墓には花やお供えが絶えず、ファンの熱い思いが伝わってきます。墓前からは京都市内が一望できます。
ただ、ここは入山料というか墓地に入るのに300円必要で、龍馬の墓を見るだけなら少々お高いような・・・まぁ他にも有名人のお墓がたくさんあって、一番上には桂小五郎(木戸孝允)と幾松(松子夫人)の墓があります。
神社の向かい側に、幕末維新の資料館・「霊山歴史館」があります。龍馬はもとより新撰組・桂・西郷・高杉らの手紙や肖像画、写真、遺品などが展示してあり、幕末ファンは必見。
■さて、この後は「円山公園」の龍馬と中岡の像を見て、知恩院、青蓮院の門前を三条通りに抜け、龍馬とお龍の結婚の地(現在の東山YH)を経て、八坂神社石段下の交差点の角のローソンのあるところが「祇園会所跡」。あの池田屋騒動の出発地です。
元治元(1864)年6月5日。祇園祭の宵山(当時は6月に行われていた)で賑わう祇園会所前に、新撰組の隊士たちが三々五々集まり、ここから近藤隊・土方隊の二手に分かれて過激派志士の探索に出かけます。夜10時頃、近藤隊5人が探索の末、三条小橋西の旅籠・池田屋にたどり着く。「御用改めでござる!」近藤の一声とともになだれ込む隊士たち。しばらくして土方隊も合流して・・・壮絶な斬り合いだったといいます。
話を戻して。
「龍馬とお龍の結婚の地」は現在の東山ユースホステルの前に石碑と説明版があります。もともとは青蓮院の塔頭・金蔵寺があったところで、元治元(1864)年8月、ここで龍馬とお龍さんは内々の結婚式をあげました。しかし、龍馬は薩長の和解に奔走するなど忙しく、新婚生活を楽しむいとまもなくお龍さんを寺田屋に託します。お龍さんは明治39(1906)年まで生きました。
以上。
Kさん、完璧なガイドありがとうございました。
維新の頃、歴史の大きなうねりの中にあったかの「池田屋」。
その跡地は平成の世になって居酒屋として蘇っている。
激動の時代の足跡を辿り、維新の「ツワモノ」どもの熱き息吹を宿したまま・・・・・・・。
名残の地で宴に興じる平成の「ツワモノ」ども。
ニッポンの行く末は安泰だっ! ?