天路歴程

日々、思うこと、感じたことを詩に表現していきたいと思っています。
なにか感じていただけるとうれしいです。

夕顔

2012-12-31 07:03:11 | 小説
「『八犬伝』読んでる。」
「読んでますよ。」
『八犬伝』を借りて以来、挨拶がわりに澤部さんからかけられる言葉に、俺はいつも同じ返事を返していた。昼休みになると、俺は澤部さんに読んだところまでの感想を話した。例えばこんなふうに。
「不思議なんですけど、八犬士の一人の犬江親兵衛て九才じゃないですか。それなのに、強すぎるし、賢すぎません。他の八犬士は立派な大人なのに、かなわない。自分で、『八犬士の随一』て言っちゃうし。それを他の八犬士もまわりの登場人物も納得して、誰もつっこまない。不自然だし、違和感を感じるですけど。」
「確かにね。隆君がそう思うのも無理ないよ。今の感覚だとそう感じるよね。ただ、『南総里見八犬伝』は儒教の考えがベースになった世界だから。『仁』ていうのは、儒教では一番大切な教えなの。それを体現した犬江親兵衛は完璧なスーパーヒーローじゃなきゃだめなんだよ。個人的な意見だけど、それが大人だといやみになっちゃう。汚れなき神童のほうが、非現実を極めてしまうでしょう。いっそのこと、突き抜けちゃったほうが物語世界に入りこみやすいんじゃないかな。そんな気がする。」
「そういうもんですかね。リアリティがまったくないんですけど。」
澤部さんは茶目っ気たっぷりに微笑む。
「この物語にリアリティは求められないよ。」
澤部さんの白い頬に浮かんだえくぼのくぼみに俺は胸が高鳴った。


はっきり言ってしまおう。俺は澤部さんに惹かれていたのだ。『八犬伝』ももちろん面白かったが、それ以上に八犬伝の世界を澤部さんと語り合いたかった。『八犬伝』を通じて、澤部さんとの距離を詰めたかった。そして、距離は縮まった。澤部さんの俺に対する呼び方が、「秋里君」から「隆君」に変わっていったのは紛れもない事実だった。しかし、そこまでだった。「バイトの同僚」から「よく話すバイトの同僚」になっただけだった。澤部さんはいつも優しかったが、毅然としていた。線がビシッと引かれていて、俺はそこを踏み込むことはできなかった。目に見えない糸が張り巡らされていて、澤部さんの心には近づけない。そんな感じだった。
結局、俺は澤部さんの連絡先も聞けず、なんのとっかかりもないまま、夏のバイトを終えたのだった。


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