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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 十八学士

2012-10-20 09:00:40 | 十八史略

王暇日輒至中、討論文籍、或至夜分。使閻立本圖像、褚亮爲贊。號十八學士。士大夫得預其選者、時人謂之登瀛洲。時府僚多補外、如晦亦出。玄齢曰、餘人不足惜、如晦王佐才。大王欲經營四方、非不可。王即奏留之、使參謀帷幄。剖決如流。玄齢毎入奏事、高祖曰、玄齢爲吾兒謀事。雖隔千里、如對面語。秦王功蓋天下、身幾危。頼玄齢・如晦決策。至是即位。首放宮女三千餘人。

王、暇日(かじつ)には輒(すなわ)ち、館中に至って、文籍を討論し、或いは夜分に至る。閻立本(えんりつぽん)をして像を図せしめ、褚亮(ちょりょう)をして賛を為らしむ。十八学士と号す。士大夫のその選に預ることを得る者をば、時の人之を登瀛洲(とうえいしゅう)と謂う。
時に府僚(ふりょう)多くは外に補せられ、如晦も亦出ず。玄齢曰く、「余人は惜しむに足らず。如晦は王佐の才なり。大王、四方を経営せんと欲せば、如晦に非ざれば不可なり」と。王即ち奏して之を留め、帷幄に参謀せしむ。剖決(ぼうけつ)流るが如し。玄齢入って事を奏する毎に、高祖曰く、「玄齢吾が児の為に事を謀る。千里を隔つと雖も、面に対(むか)いて語るが如し」と。
秦王、功天下を蓋(おお)い、身幾(ほとん)ど危うし。玄齢・如晦に頼って策を決す。是(ここ)に至って即位す。首として宮女三千余人を放つ。


賛 徳を称揚する四字句で押韻する。 登瀛洲 瀛洲は三神山のひとつで東海上にあって神仙が棲むという。 府僚 秦王府の幕僚。 王佐 王の補佐。 帷幄に参謀 枢密の議会に参画する。 剖決 裁決。 首 手始め。

秦王世民は政務が早く終ると、文学館に赴いて学問や書籍について、討論した。時には夜分にわたることもあった。閻立本に学士の像を画かせ、褚亮に賛をつくらせて十八学士と呼んだ。士大夫でこの中に選ばれた者のことを、人は「登瀛洲」と呼んで名誉を讃えた。
この頃秦王府の属官たちは建成らの画策によって次々に地方官に転属させられ、杜如晦もまた出されてしまった。房玄齢は秦王世民に、「他の人はさておき、杜如晦は帝王の補佐となる人材であります。大王が天下を統治されることを望まれるなら、如晦なくては適いません」とうったえた。秦王はすぐさま高祖に奏上して如晦を秦王府に留め置いて、より枢機に預からせると、裁決は滞ることがなかった。また玄齢が参内して高祖に奏上するごとに「玄齢は世民のためによく政務を謀ってくれる。わしは遠く千里も離れていながらまるで世民と対面して話しているような気がする」と褒めた。
秦王の功績が顕われて名声が上がるにつれて、かえって身の危険が増してきた。玄齢と如晦の助言によって玄武門の変事を決断し、ここに至って即位することになったのである。まず初めに手をつけたことは、宮女三千人を後宮から出したことである。


文学館学士十八人のうち著名な四人
杜如晦(585~630) 字は克明、陜西京兆の人。尚書右僕射となり、決断力に長じた。

房玄齢(578~648) 字は喬、尚書左僕射となり、右僕射の杜如晦とともに貞観の治を現         出した。深謀遠慮の人。
虞世南(558~638) 字は伯施、浙江余姚のひと。「北堂書鈔」を著す。特に書に長じ、         孔子廟堂碑が残る。
孔頴達(574~648) くようだつとも、字は仲達、河北衡水のひと。国子祭酒となり、顔         師古と共に「五経正義」「隋書」などを撰。


十八史略 濟世安民

2012-10-18 08:58:50 | 十八史略

太宗文武皇帝名世民。幼日有書生見之曰、龍鳳之姿、天日之表。其年幾冠、必能濟世安民。書生去。高祖使人追之。不見。乃採其語爲名。年十八擧義兵。李密降唐初見高祖、色尚傲。及見秦王、不敢仰視。退而歎曰、眞英主也。高祖、以秦王功高、特置天策上將。位在王公上。以秦王爲之。開府置屬。開館以延文學之士。杜如晦・房玄齢・虞世南・褚亮・姚志廉・李玄道・蔡允恭・薛元敬・願相時・蘇勗・于志寧・蘇世長・薛収・李守素・陸明・孔頴達・蓋文達・許敬宗爲文學學士、分爲三番、更日直宿。

太宗文武皇帝、名は世民。幼(よう)なりし日、書生有り、之を見て曰く、「龍鳳の姿、天日(てんじつ)の表あり。其の年、冠するに幾(ちか)くして、必ず能く世を済(すく)い民を安(やす)んぜん」と。書生去る。高祖、人をして之を追わしむ。見えず。乃ち其の語を採って名となす。年十八にして義兵を挙ぐ。李密、唐に降(くだ)り、初めて高祖に見(まみ)えて、色、尚傲(おご)れり。秦王に見ゆるに及んで、敢えて仰ぎ視ず。退いて歎じて曰く、「真の英主なり」と。高祖、秦王の功高きを以って、特に天策上将を置く。位、王公の上に在り。秦王を以って之と為す。府を開いて属を置く。館を開いて以って文学の士を延(ひ)く。杜如晦(とじょかい)・房玄齢(ぼうげんれい)・虞世南(ぐせいなん)・褚亮(ちょりょう)・姚志廉(ようしれん)・李玄道・蔡允恭(さいいんきょう)・薛元敬(せつげんけい)・願相時(がんしょうじ)・蘇勗(そきょく)・于志寧(うしねい)・蘇世長・薛収(せっしゅう)・李守素・陸明・孔頴達(くえいたつ)・蓋文達(こうぶんたつ)・許敬宗(きょけいそう)を文学館の学士と為し、分(わか)って三番と為し、日を更(か)えて直宿(ちょくしゅく)せしむ。

天日の表 太陽のような容貌。 冠 元服加冠。 天策上将 高祖が世民のために特に天策府という官署をつくった、その長。 府 天策府。 属 部下。 延く 結集する。 三番 三班。 直宿 宿直。

太宗文武皇帝の名は世民。まだ小さい頃、ある書生が幼子を見て、「まるで龍や鳳凰の気高さ、太陽のような相をしている。加冠する年齢に近くなれば、必ずよく世を済い民を安らかにすることであろう」と言って去った。高祖は急いで人をやって追わせたが、見失ってしまった。その書生の言葉を採って世民と名づけた。年十八で義兵を挙げ、遂に天下を平定した。李密が敗れて唐に降り、初めて高祖に謁見したとき、その顔にはなお倣岸不遜の色をたたえていたが、秦王世民に会った時には、まともに顔を見ることができず、退いて歎息して言うには、「彼こそ真の英主というものだ」と。
高祖は秦王の功績が他に抜きんでていたので、特に天策府を設けて王公の上位とした。世民を上将に就かせ、属官を置いた。
また学問所を設け、十八人の学者、杜如晦・房玄齢・虞世南・褚亮・姚志廉・李玄道・蔡允恭・薛元敬・願相時・蘇勗・于志寧・蘇世長・薛収・李守素・陸明・孔頴達・蓋文達・許敬宗を三班に分け、交替でつめさせた。


唐代の主な官制

2012-10-16 17:27:27 | 十八史略

三師(太師・太傅・太保) 直接政務には関与せず、空位の場合もある。
三公(太尉・司空・司徒) 同じ
六省
   中書省 長官を令という。天子の命令を伝え、詔勅を奏する。
   尚書省 長官を令という。政務を統べ、詔勅を施行する。僕射を統括。
   門下省 長官を侍中という。中書省の宣奏した詔勅を審査履奏する。
       以上を三省といい、長官を宰相という。
   秘書省 長を監という。経籍図書のことを掌る。
   殿中省 長を監という。衣服車乗のことを掌る。
   内侍省 長を内侍という。宮内に供奉し、制令の伝達を掌る。

      左僕射   尚書省の管轄下、以下の三部を統括する。
       吏部 人材の進退、官吏の任免を掌る。長を尚書という。
       戸部 人民賦課税のことを掌る。長官を尚書という。
       礼部 儀礼のことを掌る。 長官を尚書という。

      右僕射   尚書省の管轄下、以下の三部を統括する。
       兵部 軍旅、武官のことを掌る。長官を尚書という。
       刑部 刑罰のことを掌る。
       工部 宮室、器物、水利のことを掌る。
             以上を六部という。

十八史略 魏徴、自若として屈せず

2012-10-16 08:59:17 | 十八史略

於是密奏、兄弟專欲殺臣、似爲世充・建報讐。明日帥兵伏玄武門。建成・元吉入、覺有變欲還。世民追射建成殺之。尉遅敬射殺元吉。
遂立世民爲太子、軍國事悉委太子處決、然後聞奏。
初東宮官屬魏徴、屢勸建成除世民。及是世民召徴、責以離間兄弟。徴擧止自若對不屈。世民禮之。王珪亦嘗爲建成謀。皆以為諌議大夫。
帝自稱爲太上皇帝、詔傳位於太子。是爲太宗文武皇帝。

是(ここ)に於いて密かに奏すらく、「兄弟(けいてい)専ら臣を殺さんと欲し、世充・建徳の為に讐(あだ)を報ずるに似たり」と。明日(めいじつ)兵を帥(ひき)いて玄武門に伏す。建成・元吉入り、変有るを覚(さと)って還らんと欲す。世民、追いて建成を射て之を殺す。尉遅敬徳(うつちけいとく)、元吉を射殺す。
遂に世民を立てて太子と為し、軍国の事悉く太子に委ねて処決せしめ、然る後聞奏せしむ。
初め東宮の官属魏徴(ぎちょう)、屡しば建成に勧めて世民を除かんとす。是に及んで世民、徴を召し、責むるに兄弟を離間するを以ってす。徴、挙止自若として対(こた)えて屈せず。世民之を礼す。王珪も亦嘗て建成の為に謀る。皆以って諌議大夫(かんぎたいふ)となす。
帝自ら称して太上皇帝となり、詔(みことのり)して位を太子に伝う。是を太宗文武皇帝となす。


軍国 軍事と国事。 諌議大夫 天子を諌め、政治の得失を論じた官。

世民は密かに高祖に奏上して、「兄と弟はまるで王世充や竇建徳(とうけんとく)の復讐のように私の命を狙っています」と訴えた。次の日、兵を率いて玄武門に待ち伏せした。建成と元吉は門に踏み入れると、ただならぬ気配を感じ取り、きびすを返した世民はこれを追って建成に矢を射かけて殺した。続いて尉遅敬徳が元吉を射殺した。
ここに至って帝は世民を立てて太子とし、国事、軍事ともに世民に委ね、事後に帝に奏上することとした。
これ以前、東宮付きの魏徴はしばしば建成に、世民を無き者にするよう進言していたが、ここに至って、世民は魏徴を召喚して、兄弟を離間した罪を糾弾した。しかし徴は、恐れる風もなく、一つひとつに反論して屈しなかった。世民は感じ入って、礼を以って遇した。王珪もまた、建成の謀略に参画したが、魏徴とともに諌議大夫に登用した。
変後二か月、武徳九年(626年)八月、帝は自ら太上皇帝と名乗り、詔を下して帝位を太子世民に譲った。これが太宗文武皇帝である。


十八史略 周公の事を行わしめん

2012-10-13 12:41:47 | 十八史略
初唐之起晉陽、皆世民之謀。帝欲以世民爲儲嗣。世民固辭而止。太子建成、喜酒色遊畋、齊王元吉多過失。而世民功名日盛。建成乃與元吉、協謀傾世民曲意諂事諸妃嬪。世民獨不事之。由是左右皆譽建成・元吉、而短世民。
武九年六月、太白經天、見秦分、建成・元吉欲殺世民。秦府僚屬、勸王行周公之事、力請乃決。

初め唐の晋陽に起こりしは、皆、世民の謀なり。帝、世民を以って儲嗣と為さんと欲す。世民固辞して止む。太子建成は、酒色遊畋(ゆうでん)を喜(この)み、斉王元吉は過失多し。而して世民は功名日に盛んなり。建成乃(すなわ)ち、元吉と、謀を協(あわ)せて世民を傾けんとし、意を曲げて諸妃嬪(ひひん)に諂事(てんじ)す。世民、独り之を事とせず。是に由(よ)って、左右皆建成・元吉を誉めて、世民を短(そし)る。
武九年六月、太白天を経(わた)り、秦の分に見(あらわ)る。建成・元吉、世民を殺さんと欲す。秦府の僚属、王に勧めて周公の事を行わしめんとし、力め請うて乃ち決す。


儲嗣 世継ぎ、世子。 遊畋 狩猟。 諂事 へつらい仕える。 妃嬪 帝の宮女、女官。 太白 金星。 天を経る 日中に現れた、凶事とされる。 周公の事 周の武王發が崩じ、成王誦が継いだが、幼いため武王の弟周公が政を摂った。このとき兄弟の管叔と蔡叔が中傷したので、周公が二人を誅した故事。

初め唐が晋陽から興ったのは、すべて世民の知略によったものである。それで帝は世民を世継ぎに考えていたが、世民が固辞したために沙汰やみになった。高祖の長男、建成は酒色と遊猟を好み、三男の斉王元吉は過失が多かった。世民の声望は日に日に高まっていった。そこで建成と元吉は結託して世民を陥れようと謀って、まず帝のお気に入りの女官たちに取り入った。世民はもちろんそんなことには無関心であったから、帝の側近たちは建成と元吉を褒めそやし、世民をけなした。
武徳九年六月、太白星が日中天空をよぎり、秦の地に対応する南方に現れた。これを秦王が天子となる前兆だとする噂が立った。建成と元吉はいよいよ世民を亡き者にしようとした。それに気づいた秦王の幕僚たちは、昔周公が兄の管叔と弟の蔡叔を、周室の安泰のために誅した故事に倣うように口を極めて説いた。世民はここでようやく意を決した。