王暇日輒至中、討論文籍、或至夜分。使閻立本圖像、褚亮爲贊。號十八學士。士大夫得預其選者、時人謂之登瀛洲。時府僚多補外、如晦亦出。玄齢曰、餘人不足惜、如晦王佐才。大王欲經營四方、非不可。王即奏留之、使參謀帷幄。剖決如流。玄齢毎入奏事、高祖曰、玄齢爲吾兒謀事。雖隔千里、如對面語。秦王功蓋天下、身幾危。頼玄齢・如晦決策。至是即位。首放宮女三千餘人。
王、暇日(かじつ)には輒(すなわ)ち、館中に至って、文籍を討論し、或いは夜分に至る。閻立本(えんりつぽん)をして像を図せしめ、褚亮(ちょりょう)をして賛を為らしむ。十八学士と号す。士大夫のその選に預ることを得る者をば、時の人之を登瀛洲(とうえいしゅう)と謂う。
時に府僚(ふりょう)多くは外に補せられ、如晦も亦出ず。玄齢曰く、「余人は惜しむに足らず。如晦は王佐の才なり。大王、四方を経営せんと欲せば、如晦に非ざれば不可なり」と。王即ち奏して之を留め、帷幄に参謀せしむ。剖決(ぼうけつ)流るが如し。玄齢入って事を奏する毎に、高祖曰く、「玄齢吾が児の為に事を謀る。千里を隔つと雖も、面に対(むか)いて語るが如し」と。
秦王、功天下を蓋(おお)い、身幾(ほとん)ど危うし。玄齢・如晦に頼って策を決す。是(ここ)に至って即位す。首として宮女三千余人を放つ。
賛 徳を称揚する四字句で押韻する。 登瀛洲 瀛洲は三神山のひとつで東海上にあって神仙が棲むという。 府僚 秦王府の幕僚。 王佐 王の補佐。 帷幄に参謀 枢密の議会に参画する。 剖決 裁決。 首 手始め。
秦王世民は政務が早く終ると、文学館に赴いて学問や書籍について、討論した。時には夜分にわたることもあった。閻立本に学士の像を画かせ、褚亮に賛をつくらせて十八学士と呼んだ。士大夫でこの中に選ばれた者のことを、人は「登瀛洲」と呼んで名誉を讃えた。
この頃秦王府の属官たちは建成らの画策によって次々に地方官に転属させられ、杜如晦もまた出されてしまった。房玄齢は秦王世民に、「他の人はさておき、杜如晦は帝王の補佐となる人材であります。大王が天下を統治されることを望まれるなら、如晦なくては適いません」とうったえた。秦王はすぐさま高祖に奏上して如晦を秦王府に留め置いて、より枢機に預からせると、裁決は滞ることがなかった。また玄齢が参内して高祖に奏上するごとに「玄齢は世民のためによく政務を謀ってくれる。わしは遠く千里も離れていながらまるで世民と対面して話しているような気がする」と褒めた。
秦王の功績が顕われて名声が上がるにつれて、かえって身の危険が増してきた。玄齢と如晦の助言によって玄武門の変事を決断し、ここに至って即位することになったのである。まず初めに手をつけたことは、宮女三千人を後宮から出したことである。
文学館学士十八人のうち著名な四人
杜如晦(585~630) 字は克明、陜西京兆の人。尚書右僕射となり、決断力に長じた。
房玄齢(578~648) 字は喬、尚書左僕射となり、右僕射の杜如晦とともに貞観の治を現 出した。深謀遠慮の人。
虞世南(558~638) 字は伯施、浙江余姚のひと。「北堂書鈔」を著す。特に書に長じ、 孔子廟堂碑が残る。
孔頴達(574~648) くようだつとも、字は仲達、河北衡水のひと。国子祭酒となり、顔 師古と共に「五経正義」「隋書」などを撰。