薄暗い曇りの朝、昼弁当は用意したが朝食がいまいち進まない。
冷蔵庫に放置してあったコンビニの干し葡萄蒸しパンを出して来た。
オーブントースターで焦げ目がつく程度に焼き、これを朝食とした。
さて、仕事行こう。
・・・・・
仕事終わった。
今日は昼休みに散歩に出る事もしなかったな。
何だか空腹だ。
食堂でカレー食べて帰ろう。
珍しく常連客も来ておらず客は私だけだった。
来た来た、カレー。
うまー♪
食べていると常連客が入って来た。
あーウマかった。
有り難や。
腹ごなしに遠回りして歩いて帰ろう。
街路樹がナトリウム灯に照らされている。
またも二十世紀梨を食べる。
時期はもう終わりだな。
昨夜、たまたま気が向いて「THIS IS US」というテレビドラマを見た。
主人公達が36歳で人生の分岐点に立っている。
36歳か。
今日、道を歩きながらその事を考えていた。
自分が36歳の時に何をしていたか。
36歳の時私はまだ札幌にいて脳外科の病院で働きながら定時制の看護学校に通っていた。
散々社会人をやった後に行き詰まり進路を見失った事を切っ掛けに病院の介護業務をしていたが
職場の上司から勧められて進学した。
受洗後6年めだった。
両親や妹とは全くの絶縁状態で10年以上経過していた。
長年音信不通になるに至った家族との問題と向き合う事も無く、
ただ無条件で赦されただけの罪人である自分自身のあり方すら自覚していなかった。
当時眠るとよく夢に患者さんが登場した。
重篤でいつ何時急変しても不思議の無い、明日出勤したらもういないかも知れないあの人この人が
よたよたとふらつきながらこちらに歩いて来る夢や、床一面に鼻血を流すのをガーゼで拭き取って計測する夢を見て
飛び起き、心電図モニターの心拍を刻む音が聞こえないためにパニックになって、自室で寝ている事に気づくまでに
しばらく時間がかかったり、そんな日々が多かった。
36歳の自分の誕生日は全く記憶に無い。
そんなものに構ってはいられない非日常が自分の日常であり、目の前の他者の生死に直面する日々の中では
臨床でまだ一人前になってもいない36歳の自分がこれから何処に向かうのかを省みる余裕は無かった。
翌年に父が孤独死しかけて否応無しに自分の進路を軌道修正するべく追い立てられるまで、
日々患者さんの急変の夢にうなされながら修行中のつもりでいた。
そんな36歳の自分はお気楽だったと今思う。
何故なら36歳の自分はそのまま脳外科分野で急性期、慢性期、リハビリ期と経験を積んで
お礼奉公で奨学金という借金を返済し終える頃には脳外科のあらゆる部門の知識と経験を身に着けて
颯爽と働いているであろうと自分を思い描いていた。
年齢だけは老けていても臨床では一人前ではない看護学生の36歳は受け持ち業務すらしていなかった。
傍らで見ていただけだからこそ人の死を恐怖に感じた。
日々急変し亡くなって行く人々を目にしながらまだ自分が直接人の死に携わった事はまだ無く、
人の死の様々なあり方に向き合う事も経験していなかったのに、
随分虫のいい未来を思い描いていたものだとも思う。
36歳の時の自分は人の死に遭遇する事が無闇に怖かった。
絶縁していた父が一人自室で死にかけたのを切っ掛けに、36歳で思い描いていた方向とは全然違う
消化器外科で働きながら徐々に衰えて行く父と向き合う事になった。
考える事はいつも自分の行動に追いつかない。
36歳から10年間は突然来る誰かの死に対して常に身構えて考え行動する日常を通過し、
棚上げしてあった自分の二人の親達と向き合い、いつか来る彼らのこの世の最後の日に対して身構えるようになった。
ドラマの中に、36年前に赤ん坊だった自分を捨てた父親を見つけ出した男が登場する。
再会した父親は極貧であり末期癌だった。
息子は何とか適切な治療を受けられるよう奔走する。
父の生涯が終わってしまう前に彼にはしなければならない事がたくさんある。
再会した父親の残り僅かな余命。
その限られた時間のうちに彼は取り戻し、詰め込むためにこれから時間と戦うのだ。
まだ話していない事や伝えていない気持ちや36年間共有出来なかったありったけの喜怒哀楽を、
とりわけ嬉しい事と楽しい事を。
36歳だった自分は人の生死をそのように見てはいなかった。
日々の仕事で日常的に見ておりながら、
自分がこの世での最後の日に向かって時間と戦う現実の中にある事に眼を向けていなかった。
36歳の時点で自分は向き合うべきものと向き合っていなかった。
ドラマの登場人物には「明日」というものがある。
36歳の主人公達には37歳に向かって物語の時間が流れている。
今、ここまで書いて私はこの9月に逝去された人を思い出している。
35歳で世を去ったために36歳になる事が出来なかった。
SNSを通じてこの日記ブログを読んで下さり、TLでは日本の幻想文学や音楽の話をした。
PCを通したネットの向こう側には生身の人間がいた。
私達は皆、時間と戦っている。
自覚するしないを問わず、誰もが時間と戦っている。
冷蔵庫に放置してあったコンビニの干し葡萄蒸しパンを出して来た。
オーブントースターで焦げ目がつく程度に焼き、これを朝食とした。
さて、仕事行こう。
・・・・・
仕事終わった。
今日は昼休みに散歩に出る事もしなかったな。
何だか空腹だ。
食堂でカレー食べて帰ろう。
珍しく常連客も来ておらず客は私だけだった。
来た来た、カレー。
うまー♪
食べていると常連客が入って来た。
あーウマかった。
有り難や。
腹ごなしに遠回りして歩いて帰ろう。
街路樹がナトリウム灯に照らされている。
またも二十世紀梨を食べる。
時期はもう終わりだな。
昨夜、たまたま気が向いて「THIS IS US」というテレビドラマを見た。
主人公達が36歳で人生の分岐点に立っている。
36歳か。
今日、道を歩きながらその事を考えていた。
自分が36歳の時に何をしていたか。
36歳の時私はまだ札幌にいて脳外科の病院で働きながら定時制の看護学校に通っていた。
散々社会人をやった後に行き詰まり進路を見失った事を切っ掛けに病院の介護業務をしていたが
職場の上司から勧められて進学した。
受洗後6年めだった。
両親や妹とは全くの絶縁状態で10年以上経過していた。
長年音信不通になるに至った家族との問題と向き合う事も無く、
ただ無条件で赦されただけの罪人である自分自身のあり方すら自覚していなかった。
当時眠るとよく夢に患者さんが登場した。
重篤でいつ何時急変しても不思議の無い、明日出勤したらもういないかも知れないあの人この人が
よたよたとふらつきながらこちらに歩いて来る夢や、床一面に鼻血を流すのをガーゼで拭き取って計測する夢を見て
飛び起き、心電図モニターの心拍を刻む音が聞こえないためにパニックになって、自室で寝ている事に気づくまでに
しばらく時間がかかったり、そんな日々が多かった。
36歳の自分の誕生日は全く記憶に無い。
そんなものに構ってはいられない非日常が自分の日常であり、目の前の他者の生死に直面する日々の中では
臨床でまだ一人前になってもいない36歳の自分がこれから何処に向かうのかを省みる余裕は無かった。
翌年に父が孤独死しかけて否応無しに自分の進路を軌道修正するべく追い立てられるまで、
日々患者さんの急変の夢にうなされながら修行中のつもりでいた。
そんな36歳の自分はお気楽だったと今思う。
何故なら36歳の自分はそのまま脳外科分野で急性期、慢性期、リハビリ期と経験を積んで
お礼奉公で奨学金という借金を返済し終える頃には脳外科のあらゆる部門の知識と経験を身に着けて
颯爽と働いているであろうと自分を思い描いていた。
年齢だけは老けていても臨床では一人前ではない看護学生の36歳は受け持ち業務すらしていなかった。
傍らで見ていただけだからこそ人の死を恐怖に感じた。
日々急変し亡くなって行く人々を目にしながらまだ自分が直接人の死に携わった事はまだ無く、
人の死の様々なあり方に向き合う事も経験していなかったのに、
随分虫のいい未来を思い描いていたものだとも思う。
36歳の時の自分は人の死に遭遇する事が無闇に怖かった。
絶縁していた父が一人自室で死にかけたのを切っ掛けに、36歳で思い描いていた方向とは全然違う
消化器外科で働きながら徐々に衰えて行く父と向き合う事になった。
考える事はいつも自分の行動に追いつかない。
36歳から10年間は突然来る誰かの死に対して常に身構えて考え行動する日常を通過し、
棚上げしてあった自分の二人の親達と向き合い、いつか来る彼らのこの世の最後の日に対して身構えるようになった。
ドラマの中に、36年前に赤ん坊だった自分を捨てた父親を見つけ出した男が登場する。
再会した父親は極貧であり末期癌だった。
息子は何とか適切な治療を受けられるよう奔走する。
父の生涯が終わってしまう前に彼にはしなければならない事がたくさんある。
再会した父親の残り僅かな余命。
その限られた時間のうちに彼は取り戻し、詰め込むためにこれから時間と戦うのだ。
まだ話していない事や伝えていない気持ちや36年間共有出来なかったありったけの喜怒哀楽を、
とりわけ嬉しい事と楽しい事を。
36歳だった自分は人の生死をそのように見てはいなかった。
日々の仕事で日常的に見ておりながら、
自分がこの世での最後の日に向かって時間と戦う現実の中にある事に眼を向けていなかった。
36歳の時点で自分は向き合うべきものと向き合っていなかった。
ドラマの登場人物には「明日」というものがある。
36歳の主人公達には37歳に向かって物語の時間が流れている。
今、ここまで書いて私はこの9月に逝去された人を思い出している。
35歳で世を去ったために36歳になる事が出来なかった。
SNSを通じてこの日記ブログを読んで下さり、TLでは日本の幻想文学や音楽の話をした。
PCを通したネットの向こう側には生身の人間がいた。
私達は皆、時間と戦っている。
自覚するしないを問わず、誰もが時間と戦っている。