ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

昔、子供が大勢いた

2017-10-05 22:50:20 | 日常
今朝も快晴。
雲がいないと空気が皮膚に刺さるほど冷たい。

冬物セーターと冬ジャケット、脚には弾性タイツと軍足を着用し出勤する。
弾性タイツは血栓予防というよりも防寒目的になってしまっているが。

今日1日働いたら明日1日休みだな。

・・・・・

昼休み。
反省飯おにぎりを食べた後、外の空気を吸いに出た。
雲が伸びて来た。
間近に迫り、圧倒的な力で視界を塞ぐ。






この公園で、就学前の妹と小学生だった私は毎日近所の同年代の子供達と遊んだ。
誰かがボールを持っていれば数人集まって円陣を組んだり向かい合わせになってバレーボールの真似事をしたり
野球をやっている子供達も大勢いて逸れた球が飛んで来るのを警戒しなければならなかった。
低学年や幼稚園や保育園の子供達は砂場の砂を掘って山を作ったり棒倒しをしたり、
年長の子供達と一緒にブランコや滑り台やシーソーで遊んでいたので野球の球は本当に危なかった。
子供達が大勢いた時代、誰もが遊ぶ場所を求めてあっちの公園こっちの空き地と仲間連れ立って場所を探した。

紙芝居のお爺さんが毎日この公園に来たのを憶えている。
自転車に手作りの木製の枠と厚紙に描かれた絵の束を積んでお爺さんはいつもやって来た。
この公園の中で自転車を停め、拍子木を打つと我々子供は走って行ってお爺さんを取り囲んだ。
皆、所持金など与えられていなかったが親が在宅の子供は10円か20円をねだって貰って駆け付けた。
爪楊枝の先に黒糖飴がついているのが5本入りで確か10円だったと記憶する。
お爺さんはくじも売っていて当たるとその黒飴がまた余分に貰えるとか
「型抜き」というのを買って巧く型を抜く事が出来るとこれまた黒飴が貰えるのだった。
黒糖の飴の味を覚えたのは公園の紙芝居の爺さんの黒飴からだった。
紙芝居のお爺さんは突然来なくなった。
道路で車に撥ねられて亡くなったと大人達の噂を聞いた。
撥ねた車を運転していた若者の親が知り合いだとかいう近所の人がいて言い広めていた。
毎日公園で楽しみに見た筈の、肝心の紙芝居は何だかよく憶えていない。

子供は大勢いて誰もが退屈しており何して遊ぶかの相談をしていた。
誰か1人が野球かバレーのボールを持っていれば集団で遊べた。
ボールに触る毎に歓声を上げ大声で数を数えたり点呼取る真似事をしたり、賑やかだった。
我々子供達の人間関係も多様だった。
同級生の遊び仲間と、同年で他の学級の友達と、同じ団地の建物に住んでいる友達と、その兄弟姉妹もいて
ボール遊びをするためにそこらにいる同年代ならば誰にでも声をかけて頭数を集めて遊んだ。
昼過ぎの今の時刻は皆学校に行っているが、まだ学校に行っていない幼児達が集まって遊んでいた。
年長の子供達が学校から戻って来るまでは公園で安全に遊べたのだった。
夏休みには盆踊りで浴衣を着た子供達が集まり、
冬休みには団地の町内会の人々が公園の雪を踏み固め水撒きしてスケートリンクを作り、
子供達が大勢集まって犇めきあいぶつかって転んだりケガなどもよくした。

今、公園には私一人しかいない。
初夏にはここは一面真っ黄色い絨毯を敷き詰めたようにタンポポが咲く。
今は伸びた草が枯れ古木の切り株から茸が延び出ている。
踏み散らす子供がいないからだ。
 


ん。
誰もいないのかと思ったら高齢の夫婦らしき男女がベンチで一緒に何か食べている。
ちょうど食べ終わったところなのか二人は立ち上がった。
一人は手車みたいなものを押し一人は杖を突いてゆっくりと、連れ立って帰ろうとしている。
杖の方が手押し車の方を気遣って先に行かず待っている。
老老介護かな。
天に在りて比翼の鳥、地に在りて連理の枝。
私の両親にはついぞ見る事の無かった姿である。

・・・・・

仕事を定時に終えた。
明日の休みは天気が良いらしい。
満月にまだ1日足りないが薄白く明るい月が昇って来た。


母宅に様子を見に立ち寄ると先日差し入れた十五夜の芒と鬼灯を喜んでしきりに愛でるので
花瓶に挿した様子の写メを撮った。

こんな些細な事でも喜ぶものなのか。

明日休みだから今夜は夜更かしする。
夜更かしのため糖分を摂る。
六花亭の青豌豆大福と栗きんとん。
くりきんとんやっと食べた。
六花亭の栗きんとんは例年競争率高くていつも完売して買えなかったのがやっと今日買えた。
最後の2個だった。


洗濯をし、音楽を聴きながら編集途中のこの日記ブログを更新したり写真画像の整理をしている。
明日は久しぶりに散歩しよう。
ここしばらくは休日と言えば台風が来たり大雨だったから。
ぶらぶらそこらを歩くだけでいいのだ。

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