ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

「父なる神」という文言の是非

2018-10-21 23:56:34 | 日常
5℃。
使い慣れないiphone、アプリアイコンを消しまくって今は12個。
更に減らした。
画面上断捨離。
整理しまくって最終的にアイコンは2個になった。
これで十分。

・・・・・

画面上はすっきり何も無くなった。(笑
目障りなアイコンは画面から消して使いたくなった時に呼べばよい。
PCのデスクトップもそのようにスカスカにしてある。

さて、教会に行かねば。

・・・・・

今朝も快晴。


教会仲間が育てた花を日当たり良い場所に置いたらしい。
 


主日礼拝

黙祷
招詞 詩編119;1~6
讃美歌(21) 56 509
聖句唱和 ヘブライ11;1~2
主の祈り
メノナイト信仰告白
祈り
讃美歌(21) 505
説教
讃美歌(21) 521
献金 讃美歌(21) 512
祈り
派遣 讃美歌(21) 90
祝祷

礼拝の後、昼食を挟んで午後から月一の会議がある。
昼食の準備の間に近所のスーパーに行って茶菓子を買って来た。
本日の昼食、畑をやっている教会仲間が団子汁を提供してくれた。
南瓜団子と馬鈴薯の芋団子、きんぴら、蕪の甘酢漬、キクイモの粕漬、鹿肉の生姜焼き、新高梨など。


・・・・・

定例の会議終わって徒歩で帰る。
来週の日曜日の受付当番の人が都合悪く来られなくなったらしい。
自分の勤務表を見ると来週の日曜日はシフト上休みになっている。
前日の土曜日の夜は急変待機の当番にも当たっていないのでやらせて頂く事にした。
普段幽霊教会員だからこんな時のピンチヒッターくらいしないと。

てくてく歩いているが、どうも下肢の筋力が落ちた感触がする。
じっと座っていると足腰にダメージが残る。
年老いたのう。
路面が凍って徒歩が命懸けになる前に、少しでも歩こう。

橋の上に来た。
殆ど無風の川面。




月が出ている。
何ぢゃこれは。
やはりガラケーの方がまだましに撮れると思う。


間もなく日没。
日の入りが早くなった。


ん。
あれ、いつもここの通りにいるキジトラ猫は?
代わりに違うのがいる。

あんた誰?
キジトラは?

陽が沈んだ。


一日中快晴だったのが今頃になって雲が伸びて来た。


肉眼的にはこんなに暗くはないが、ガラケーでさえ撮れる月面の模様がiphoneに写らないので
明度を下げたらこんな煤けた画面になってしまった。

がっかりするなぁ。

・・・・・

帰宅して、今日の事を考えている。
教会の話し合いの場に提示された、同じ教派内の遠方の地域の教会からの問題提起について。
自分達の教派の信仰告白の中にある「父なる神」という文言の是非についての提案が話題になった。

 「父なる神の、“父なる”という表現は、信仰告白の中では避けた方がよい。
  過去の男性優位社会で父=権威者、優越する性と意味づけされてきたために、
  父親、或いは男性から身体的に暴行を受けたり心理的に傷つけられた人達にとっては
  神を父と呼ぶ事に対して心理的な抵抗があり痛みを覚えるため、
  父権制社会が持っていた“父”という言葉は信仰告白で使う事を避けた方がよい。

  聖職者を“父”と呼んで父権的支配を教会の中にもたらし、
  父=神=権威主義=力=支配という負のイメージが付き纏うので“父”という言葉を避けた方がよい。」


“父”という文言を狩って削除してしまえば現実の問題が解決するのか?
何とお手軽な。
字面をいじくってしまえば問題が解決するかのように解釈する短絡さは何処から来るのだ?
役立たずのがらくたに過ぎない「言葉」で主なる神の意図と人間の心の在り方とを上っ面だけ撫でるのは
言葉の通用しない人間の心の現実を認めないからだ。
押田成人師が指摘した、דׇּבְרをλόγοςと訳した時から始まった脱線、すなわち言葉狩り、ここに極まれり。

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