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迷走していた「たんなさん」のつぶやき

※個人の感想です・・・

「ぴあ」の思い出 情報誌「ぴあ」39年の歴史に幕 首都圏版、7月で休刊

2011年04月22日 | 社会
「ぴあ」が大きくなったのは「ちけっとぴあ」のシステムが出来てからのように思います。
1980年頃じゃないのかな。
それ以前は、チケット発売日にプレイガイドに並んだり、徹夜したりして、お目当てのチケットを手に入れたものでした。
新宿PEPEの7Fの行列に並びながら、歌舞伎町のゲームセンターで遊んでたなどという記憶もあるし、渋谷パルコの周囲を大行列で囲んだなんてこともありました。
友人はその時、喫茶店でコーヒーを差し入れしてもらったという昔話をしていましたが、残念ながら私にはそのような思い出話はありません。

「ぴあ」ができたことで便利になった面もありますが、当然ながらデメリットもありました。
それはチケットが印刷された印字だけの味気ないものばかりになってしまったことです。
かつてのチケットは、アーティストの趣味趣向が凝らされた味わい深いものが多かったものですが、「ちけっとぴあ」以降は印字だけの本当につまらないチケットになってしまいました。
そんななか、浜田省吾はある時期まではライブ会場入場時にメモリアルチケットを配っていましたが、いつの間にかそれもやらなくなってしまいました。
今の若者たちは便利さを手にしてはいますが、味わい深いメモリアルチケットを手にする機会がなくなってしまった被害者でもあるのですね。

それから「ぴあ」がてきてからは自宅にいながらチケットが手に入るものと勘違いしていましたが、人気公演になると電話をしてもつながらないなんてことはよくありました。というか、今もあるんだろうな。
どんな興行だったのか覚えていませんが(ローリングストーンズだったかなー?)、新宿だったか、渋谷の公衆電話に若者がかじりついたままで公衆電話が使えなくなったなんてこともありました。
「ぴあ」に電話をすると人気公演ではすぐに規制が掛かってしまうため、それをすり抜ける裏技として公衆電話が利用されたのでした。
その公衆電話も電話の相手先と同じエリアの方が有利だということで、わざわざそのエリアまで出掛けて行って公衆電話でリダイヤルするのです。
当時はヤフオクなんてなかったので、純粋にその公演に行きたい人たちが電話をしていたのですが、いつの間にかヤフオクで転売する目的でチケットを入手する人たちに使われるようにもなってしまったのですね。

この歳になると、「ぴあ」のあの細かい字を見るのはつらいよなー。
情報誌「ぴあ」39年の歴史に幕 首都圏版、7月で休刊
 ぴあ株式会社(東京)は21日、エンターテインメント情報誌「ぴあ」の首都圏版(隔週刊)を7月21日発売号で休刊することを決めた。映画やコンサートなどの興行スケジュール情報は、これまで通りインターネットで提供する。
 「ぴあ」は1972年、当時学生だった矢内廣社長らが創刊。80年代後半に53万部まで部数を伸ばしたが、エンターテインメント情報がインターネット上で無料で調べられるようになり、最近では6万部まで落ち込んでいたという。
 中部版は昨年6月、関西版も同10月に休刊した。
 同社によると、売り上げの約9割はチケット販売事業で、「ぴあフィルムフェスティバル」などの事業は今後も続ける。今秋には新しいエンターテインメント誌を立ち上げるという。(石飛徳樹)
アサヒ・コム2011年4月22日9時2分

「お父さん、ありがとう」妻の声津波に消え

2011年04月20日 | 社会
「お父さん、ありがとう」妻の声津波に消え
 東日本大震災の津波で数百人の行方不明者が出たにもかかわらず、福島第1原発の事故に伴う避難指示で1カ月以上捜索が実施されなかった福島県浪江町請戸(うけど)地区。津波に遭い、九死に一生を得た男性の耳には、50年近く連れ添った自分への感謝の言葉とともに波間に消えた妻の声が残る。「一刻も早く見つけてほしい」。男性は14日に始まった捜索による発見を祈るように待ち続けている。

 「真っ黒い波が数十メートルの高さに立ち上がり、一気に倒れてきた」。海岸から数百メートル先に住む無職、熊川勝さん(73)は目前に迫る大波に度肝を抜かれた。妻洋子さん(73)の手を引いて2階に駆け上がったが水位はみるみる上がり、洋子さんを抱えて顔を出すのがやっとになった。死を覚悟し「これまで、ありがとな」と呼び掛けると、洋子さんはうなずいて唇を動かした。「お父さん、ありがとう」

 もう一度、熊川さんが「2人で孫3人の名前を呼んで終わりにしよう」と声を掛けた直後に強い衝撃があり、洋子さんが沈んだ。必死で手をたぐったが、渦巻く波に引き込まれていった。熊川さんは着ていたジャンパーが偶然浮袋代わりになり、天井と屋根の隙間(すきま)で息ができた。引き波で家ごと沖に向かって流されかかったが、橋桁に飛び移って助かった。その間、ずっと洋子さんの名を叫び続けた。

 その後、身を寄せた県内の親族宅も原発事故の深刻化でいられなくなり、横浜市の長女(42)の元へ。だが、原発から約5キロの請戸地区には捜索が入らないままで「原発内で(復旧の)作業している人もいるのに、何で警察も自衛隊も助けに行かねんだ」。もどかしさが募った。

 今月14日。警察の捜索がようやく始まり、熊川さんはすぐ福島に戻った。洋子さんが最後までつかんでいたジャンパーを着て、日々、遺体安置所や遺留品写真の掲示所を回る。もし、捜索が打ち切られたら自分で捜しに行くつもりだ。「女房は『金婚式の時は、日光の紅葉を見たい』と楽しみにしていた。秋には骨つぼ抱いて紅葉見に行ぐんだ」【大場弘行】
希望新聞(毎日新聞)

COMMENTARY - "Thank You" is not necessary; U.S. forces honored to help reopen Sendai

2011年04月17日 | 社会
COMMENTARY - "Thank You" is not necessary; U.S. forces honored to help reopen Sendai
Posted 4/8/2011 Printable Fact Sheet

4月3日、仙台空港の27番滑走路から800メートルほど離れた砂浜で、松の大木を並べて描かれたARIGATO(ありがとう)のメッセージが見られた。同空港は3月11日の地震と津波により壊滅的被害を受けたが、嘉手納基地から派遣された第353特殊作戦群の支援を受け、3月16日に運用が再開され、人道支援活動の拠点となった。(写真 ロバート・トス米空軍大佐)

"ありがとう"などもったいない。米軍にとって仙台空港の運用再開を支援出来たことは光栄です。

統合支援部隊 統合特殊作戦隊司令官 ロバート P. トス 米空軍大佐

2011年4月6日 - 横田基地

2011年3月11日のマグニチュード9.0の地震とそれに続く33フィート(約10m)の津波によって残された惨状は言葉では言い表せない。日本の本州東沿岸300マイル(約480km)以上が破壊された。震災当初目にした中で最も悲惨な状況だったのは、仙台空港そして隣接する名取市と仙台市だった。津波が押し寄せた仙台空港と近隣の町のビデオは衝撃的だったが、3月16日に初めて仙台空港に到着してこれらの地域を目の当たりにした衝撃は、映像をはるかに超えていた。

何千もの潰れた車両、折れ曲がった飛行機、根こそぎにされた木々、崩壊した家々、水、砂、魚貝などが散乱し、機能が停止した空港のイメージは、フィルムに、そして我々の記憶にも記録された。しかしそれと対象的なのが今日の仙台空港の映像であり、それは希望と復興のそれである。

当初から私達の展望は、日本側と調整しながら人道支援物資を災害地域の中心まで直接配送可能にする為に、仙台空港再開を促進することであった。3月16日、最初の固定翼機が仙台空港の主滑走路に着陸したことによりその展望を達成した。

その4日後MC-130第一便が着陸し、日本人とアメリカ人で編成されるチームは全滑走路を整備してC-17の着陸を可能にした。我々は共同して拠点を築き、災害の中心地にむけての支援が流れ始めた。後に仙台空港の再開が希望の象徴として宮城県の人々に勇気を与えることになろうとは、当初は予想だにしなかった。我々の到着前、日本国土交通省航空局と仙台空港機関は仙台空港再開は不可能だろうと考えていた。

仙台空港を津波以前の状態に復興するには、日本政府、自衛隊、合衆国空軍、海兵隊、陸軍、海軍および政府機関どうしの全面的な協力が必要であった。二国間協議が設立された。委員会が当初練った計画では、当面は日本人従業員が復旧作業を行っている間、特殊部隊の兵士が支援物資の配送を可能にするべく、全ての飛行場運用に対処するというものであった。陸軍と海兵隊の部隊が3月20日に到着した際、直ちにこの流れに加わった。更なる支援を得て、両国間の調整委員会は計画に沿って、全ての空港運営を日本側の管理に戻す計画を、練り上げた。
 
4月1日に米国空軍戦闘部隊が行なっていた管制塔業務を仙台空港の管制官達に受け渡したのが、大きな節目だった。その日私が仙台空港に着陸する際、管制塔から日本人管制官の堂々とした声で着陸許可がおりるのを、胸が高鳴る思いで聞いた。

この日まで21日間という短い期間、米国空軍戦闘部隊の管制官は、オペレーション・トモダチに参加する米国空軍、海兵隊、海軍およびオーストラリア空軍等の250機以上の軍用機に着陸許可を与えた。これらの航空機は、これまでに231万ポンドの支援物資および現地で使用する重機・車両用の軽油およびガソリンを1万5000ガロン輸送した。

米軍が24時間態勢で空港運用を行ないながら物資を配送している間、空港の日本人は重機等を駆使して懸命に空港の整備と修理を行なった。

4月3日に最後の着陸を行なった時、これがほんの19日前には壊滅的な状態だった空港かと、我が目を疑った。

それよりもさらに驚いたのは、滑走路に向かって最終アプローチをかけた時だった。滑走路27番に向けて800メートルほど離れた砂浜の上空を飛行していた時、ふと下を見るとそこに日本語の"ARIGATO"の文字があるのに気がついた。津波でなぎ倒された松の木を20~30本使ってかたどったらしい。

我々の支援など日本の人々の労力に比べたら、何でもない。それどころか、我々が去った後も彼らの戦いは続くのだ。これまでも彼らは、自らが生き残るための戦いと行方不明者の捜索を行なう中、復興作業に懸命に取り組んできた。

陸上自衛隊東北方面隊を指揮する君塚栄治陸将は、4月5日に仙台空港を訪れて米軍から空港責任者に管制業務が引き継がれる場に立ち会った。仙台空港が再開した翌4月6日、空港は3月11日の朝当時、すなわち日本人により運営される元の姿に戻ったのである。

仙台空港においてオペレーション・トモダチに携わった米軍は、すべて本州と沖縄の駐留部隊である。支援活動に派遣された全米軍人に代わって言いたい事は、我々を迎え入れてくれた友人であり隣人の日本の人々を支援できたのは我々にとって名誉だということだ。

第353特殊作戦群、米国海兵隊富士機動隊、海兵隊第35兵站連隊および陸軍第35兵站連隊の全隊員、君たちの仙台空港復興に向けた懸命の作業に、また日本の人々に復興への勇気を与えてくれたことに感謝する。

聖アウグスティヌス曰く、「我々は賞賛には値しません。我々は我々の義務をなすのです」

日本の皆さん、ARIGATOにはおよびません。

福島第一原発を人間の病状に例えてみると・・・

2011年04月15日 | 社会
福島第一原発のことについて毎日いろいろとを報道されていますが、わかっているようでよくわからないのです。
そこで私なりの解釈で福島第一原発を人間の病状に例えてみることにします。

容態:重体
意識はないものの、不定期の輸血(放水冷却)によって状態は比較的安定している。
ただし、時折血圧や心拍数(炉内温度や冷却プールの水温)が上昇することがあり、その原因が未だによくわかっていない。

原子炉の冷却系統が回復した段階で、重体から重症(意識回復)となるが、その時期がいつ頃になるのか現時点ではわからない。

海外からの医師団も到着しているが、どのような治療をしているのか明らかにされていない。

大まかな治療方針について医師からの説明がないため、退院時期や目処などは示されていない。

医師の発表するデータが信頼できるものではないため、本当のことはまるでわからない。

慎太郎、ラストデーで初街頭演説「自販機、パチンコやめちまえ」…都知事選最終日

2011年04月10日 | 社会
当選後の会見でも「自販機、パチンコを我慢しよう」という話をしていましたね。
多くの人が思っていることを言葉に出来るのも石原さんの魅力でしょう。
当面の敵は「高齢」ですね。
最後のご奉公、頑張ってください。
期待しています。
慎太郎、ラストデーで初街頭演説「自販機、パチンコやめちまえ」…都知事選最終日
 12都道県知事選が行われる統一地方選前半戦が9日、最終日を迎えた。東京都知事選は、東日本大震災発生に伴う公務を優先してきた現職の石原慎太郎氏(78)が、選挙戦初の街頭演説に立った。前宮崎県知事の東国原英夫氏(53)は新宿・歌舞伎町で絶叫。ワタミ前会長の渡辺美樹氏(51)は最後に涙した。前参院議員の小池晃氏(50)も必死の訴えを続けた。各知事選は10日投開票され、同日深夜には大勢が判明する見通しだ。

 17日間の選挙戦最終日。告示以降、震災対応に明け暮れた石原都知事がついに街頭に立った。

 有楽町駅前で最後の訴えを行い「東京を守りましょう。命懸けで頑張ります」と両手を広げて満面の笑み。立川駅前、阿佐ケ谷駅前と3か所で計5500人(主催者発表)を集める人気ぶり。自ら聴衆に向かって握手を求めるサービスもみせた。

 福島第1原発の事故に伴い計画停電が実施されるなど深刻な電力不足に対し、パチンコ店と自動販売機の電力使用の無駄を指摘。「自動販売機なんてやめちまえ。コンビニで買って家で冷やせばいいじゃない」「パチンコはジャラジャラと音を立てるために電気を煌々(こうこう)とつけるのは、世界中で日本だけだ」

 阿佐ケ谷駅前では、演説場所から約20メートルと目の前にパチンコ店があったが、お構いなしにメッタ斬った。東京電力管内の1日の使用電力量はそれぞれ「450万キロワット」とされ、「2つの電力がなけりゃ、福島の原発はいらない」と訴えた。

 3選を果たした07年の都知事選では、街頭演説を50回以上こなしたが、今回はこの日の3回のみ。「上から目線にならないよう」選挙カー上からでなく、約30センチの台から演説する心遣いをみせた。選挙期間は、放射性物質が検出された都内浄水場での水がぶ飲み、被災地訪問など公務に徹し、最後まで防災服を脱ぐことなく終えた。
スポーツ報知 4月10日(日)8時4分配信