平成30年5月12日(土)
防衛議連最終日は、旧海軍司令部壕と海軍壕公園、道の駅いとまんを視察しました。
第二次世界大戦で初の本土戦となった沖縄では、日本軍が最後の戦いを指揮した海軍の司令部が壕として設置されました。昭和19年日本海軍設営隊は、那覇市を見下ろす丘の中腹に山の中を約450mに渡り張り巡らされたトンネルの施設しました。坑内はかまぼこ型に掘り抜かれた横穴で、コンクリートと坑木により支えられ、米軍の艦砲射撃に耐え持久戦を続けるための施設でした。司令部であると同時に避難壕でもあり、日本兵約4,000人が収容できたといいます。
施設内には、作戦室や幕僚室、下士官兵員室、司令官室などがあり、迷路のような通路と頭が天井に着くような狭い部屋での生活は、厳しい戦況の中では安息の場所であったのかもしれません。
幕僚室には無数の穴が空いており、説明では末期に幕僚が手榴弾で命を絶った跡ということで、当時のまま残されています。
下士官兵員室はあまりにも狭く、4,000人の日本兵はどうやってこの中で過ごしたか不思議でたまりませんでしたが、その疑問に対する答は大変驚くものでした。床に横になることはできず、立ったままで睡眠や休息をとったといわれ、それを実現するために壁のない柱と柱同士を繋いだ梁に寄りかかれるような仕組みを作ったということです。8畳ほどの部屋には何十人もの将兵がこの梁に寄りかかるように睡眠をとっていたとすれば、多くの兵を収容できたことは間違いないでしょう。兵士達がそれでも安息と感じたのか、戦争の過酷さの一端が実感できました。
(那覇市内を見下ろす場所に壕はあった)
(沖縄戦の惨状を伝えるビジターセンター)
(ビジターセンター内には、パネルにより沖縄戦が紹介されていた)
(丘の上には慰霊碑が建つ)
旧海軍司令部の司令官であった太田實少将をはじめとする幹部6人は、米軍の猛攻撃を受けた昭和20年6月13日夜半に壕内で自決しています。その直前、太田少将が海軍次官に宛てた、沖縄県民の献身的協力について訴えた電報が残されていました。内容について添付した写真で確認いただきますが、国を守るために兵隊に行った者だけでなく、残された女性達が老人や子どもを守るために自らが行動したことが記されており、現場の指揮官としては熾烈極まりない戦場の事実を伝えることが唯一の沖縄県民に対する可能な償いであったかもしれません。
(海軍司令官が沖縄県民の献身的協力を海軍次官に伝えた電文)
沖縄戦を戦った兵士や沖縄県民の犠牲は大変なものでありますが、現地を丁寧に見て回ることで、戦争の悲惨さと平和の尊さが実感できる視察でした。
那覇市の南にある糸満市では、道の駅いとまんを視察しました。農産物を扱う広い売り場では、私達が普段食卓に並ぶ食材のほかに、南国らしい食材も多く並んでいます。本土からの観光客と修学旅行生の一団や外国人観光客、地元の市民も多く来場しており大変なにぎわいでした。海産物を扱う別棟では、その場で調理して食べられるコーナーもあり、台湾や中国などからの観光客が多く利用するそうです。
沖縄は観光産業が主力であり、地元産を扱うこのような施設がある一方で、アウトレットや大型商業施設が建ち並び、または建設中で、その背後には国の沖縄振興に対する積極的な後押しを感じました。
(みちの駅いとまん。即売所のほか情報館も備えている)
戦争と平和が同居する沖縄は、そこに行って初めて実感できるものが多く、地元理解のためにはマスコミを通じてだけでなく、自らが行くことの大切さを実感できる視察でした。
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