GOVAP便り

プノンペンからモンドルキリに、その前はTAY NINH省--AN GING省--HCM市GO VAP

デング熱

2006-12-14 02:19:01 | 社会
朝4時に目覚ましを掛けたのに気が付くと既に7時。Le Van Sy通りの葬儀会場に間に合う時間ではありませんでした。参列してもしなくてもどちらも気の重いことですが、その迷いが寝坊の原因だったのかも知れません。

月末の二週間はほぼ北部出張で潰れるので、今週中に片付けるべき仕事は少なくないわけですが、その分も含めて苛立ちが抑えられません。ビンユンの工業団地への納品があり、「疲れた」からと押し付けられました。どうせなら、とついでにもう一軒、今年で操業を終了する工場へ足を運ぶことにしました。先方も残務処理に終われ、何かと忙しい時期なのでしょうが、世間話に付き合ってもらいました。

N.T君のことは既に伝わっていて、やはり日本人社会は狭いものです。K君からはマラリアと聞いていたのですが、きょうの話ではデング熱という病名になっていました。ベトナムでは、「出血熱」(Sot xuat huyet)と呼ばれ、今年は大流行のようです。メコンデルタのドンタップ省では11月は毎週200名以上の患者数だそうで、今回の流行は成人が40%を占めているそうです。メコンデルタやダナン等の中部で非常に多く、来年にかけてこの水準が続きそうだとの医療省の発表です。南部では11月末までに20省中19省で計52名の死者を生み出しているとの記事もありました。異常気象、温暖化の影響なのかも知れません。

北上し、17度線を越えて停滞する台風ウトアは、日本の気象庁やウェザーニューズ社の台風情報では、15日には衰弱し、熱帯性低気圧に変るみこみとされていますが、ベトナムの新聞では今後90度角度を変え、南西に進路を取りダナン方向へ向かうと予想されています。どちらが精度の高い予想なのでしょうか?

アジア大会でベトナムに二つ目の金メダルをもたらしたのは女子の空手でした。一つ目のセパタクローも女子でしたし、さすがにベトナム女性と納得させられます。わがスタッフのお嬢様方もPCの電源スイッチは足を使って押してますし、胡坐をかいてPCに向かいキーボードを叩いてます。この社会でも痴漢やセクハラと無縁ではありえなようですが、強烈な蹴りが返って来ることは間違いなさそうです。


北部出張

2006-12-13 01:29:44 | 仕事
きょうも夕方に少し雨が降りました。台風ウトアは北西方向に進み、インドシナ半島を避けて海南島へと向かっているようです。12日21時現在の位置は北緯15度30分。ダナンが16度ですから、もう少し西によっていたらベトナム中部に大きな打撃を与えていたことになります。去年の年末年始はダナンで過ごし、中部の冬の天気にウンザリしました。その上に台風などに襲われたりしたら堪らないものがあります。

今年は来週17日から28日までハノイ周辺の北部へ出張予定です。この時期、サイゴンとは平均気温で10度以上の差があるし、どんよりと曇った灰色の空を見るのも気が滅入ります。もっとも今年6月に訪れた時の暑さも想像以上の耐え難さでした。できれば寒さと暑さが極端なこの二つの時期だけは避けたいものですが、仕事の都合でこの時期を外すことができません。

ハノイの他、ハイズン、ハイフォン、バクニン、バクザン、ヴィトチ、フートー、タイグエンなどを回ることになりそうです。荷物が少なければ地方を回るのにもバスを利用して可能なのですが、50kgを超える機器を持ち運ばねばなりません。営業活動というよりは荷物の運搬人です。サイゴンに事務所を置きながら、売上が北部や中部ばかりという実に効率の悪い仕事になっています。それでも5年ほど前と比べればハノイまでの外国人航空運賃がだいぶ安くなりました。以前は確か往復で400ドルほどした記憶があります。そのため帰りは長距離バスで帰ってきたり、あるいはフエーハノイ間をバスや鉄道を利用したりもしてました。

今は外国人料金もベトナム人乗客と同一になり、VN航空でも往復200ドルを切るほどになり、今回はパシフィック航空のキャンペーン価格で150ドル程度で済みそうです。その代わりタクシーの移動や宿泊費などに掛かる費用は高くなっています。
果してこの出張経費に見合う結果があるのだろうか、と今更考えても仕方ないことですが、きょう一日気分は憂鬱で、他人と言葉を交わす度に落胆と苛立ちをおぼえました。要するに自分に余裕がない証拠なのでしょう。

明日の朝は5時からN.T君の葬儀に参列するつもりです。

マラリア

2006-12-12 03:04:47 | 生活
夕食後、片付けをするもの面倒だし、カフェに行っても混雑してる時間帯だしとグーたらしていると玄関のチャイムが鳴りました。誰だよこんな時間に、と戸を明けるとK君が立ってました。「電話してからと思ったんだけど料金払ってなくて携帯が使えなかったから。近くに来ていたんだけど、ちょっと遣る瀬無くてサー」。早々とデートを切り上げて来たようなのですが、遣る瀬無いのは彼女とのことではなく、「N.T君が日仏病院で亡くなった」という知らせを受けてのことでした。

N.T君とは5年前は一緒に仕事もしてましたし、10月には彼が現地法人の社長を勤めるビンユンの工場を見学させてもらったばかりです。信じられない思いは一緒でした。まだ30前後の若さです。そのなぜ彼が死ななければならなかったのか。しかも、ここではありふれたマラリアなどという病気で。健康な青年男子が十分な治療を受けられて死亡する確率は0.1%以下の病気のはずではないでしょうか。受け入れがたい思いは誰も同じで、医療ミスの噂も広がっているようです。遺された幼い子供とベトナム人の奥さんの今後のことや、ご両親の心痛を思うと居た堪れない思いです。

ベトナムで生活するということのリスクを軽視していたつもりはなかったのですが、こうも短期間に不幸が相次ぐと、何処かに納得できる理由を探したくなってしまいます。今年の異常気象がハマダラ蚊を大量に発生させたのでしょうか。

Dさんが倒れた週の週末にグエンオアィン通りのカフェに寄るとThaoがけだるそうに椅子に座っていました。顔には吹き出物が隠しようもなく広がり、薬物中毒とわかる口調で「薬代頂戴」と声を掛けられました。その1・2週間前はまだ元気で、「将来は、何をしたいの」?などと聞いてもみたのですが、「将来はない」との答えでした。その答え通り、グエンキム通りの175病院に運び込まれた翌日、息を引き取ったそうです。Thaoの親友だというLeの話によれば、15歳から10年間売春を重ね、HIVの末期だったとのことです。もっとも本人が口にする話とLeが言うこととは常に食い違いが多いのですが、大筋ではそんなところだろうと思ってます。たぶんその時声を掛けられた薬代とは4、50円ほどの顔に塗る薬のことだったのだと思います。「何でオレがたかられるんだよ」とムカつきながらも渡しておくべきでした。



自転車

2006-12-11 02:07:39 | 天気
乾期入りが遅かった上に例年より暑いので、今年は自転車に乗る機会が少なくなっています。きょうは気温も低めで、絶好の自転車日和の日曜日、と思っていたところ、午後3時過ぎから雨が降って来ました。東アジアサミット中止の名目となった台風ウドアの影響にしてはまだ距離があり過ぎる気もします。台風はこのまま西北西に進めばベトナム中部から北部の海岸に13日頃上陸しそうです。西南西に進路を変えれば前回同様、再び南部を襲うことになります。

さほど強くない雨は30分ほどで上がり、気温も低くなったので家から東方向の道路探索に自転車で出掛けました。道を覚えるには自転車が一番です。泥除けのないマウンテンバイクのため白いTシャツの背中は跳ね上がった泥が染み付いてしまい、ウィンドブレーカーを羽織るべきだったと後悔。5月頃だとこの位の中途半端な雨は却って湿度が増し蒸し暑くなるだけですが、さすがに12月ともなると涼しさが増し、汗ばむこともありませんでした。乾期に入ってからクリスマスまでは結婚式シーズンで、何ヶ所か見かけた式場周辺の道路は大混雑でした。日本と違って「駐車場が限られてますので電車でお越しください」などと言われることはなく、大多数がバイクで来て、ビールをしこたま飲み、またバイクで帰って行きます。したがって乾期でないと、来客者が皆ずぶ濡れで披露宴にやって来るということにもなりかねません。

GO VAPからBinh Thanh区の東部バスターミナルに抜ける道をどうにか一つ覚えました。75年以前は、「サイゴン・ザディン地区」という呼び方がされていたようですが、この地がカンボジアであった時代からザディン城という城があり、その城跡はBinh Thanh区にあると言われてます。1区からビンユン省やドンナイ省に抜ける道はこのBinh Thanh区を通るためディエンビエンフー通りやソビエトゲティン通りが幹線道路として整備されています。しかし古くからの生活道路は複雑な迷路で、10年来の付き合いのH君の家もここにありますが、今だに道を覚えられません。

夜の7時半を過ぎた頃から再び雨が降り出しました。今度はウィンドブレーカーを着てバイクに乗っている時でしたが、雨足が強くなって来たので家に着く前に近所のカフェに飛び込みました。冬至も近いこの時期にしては想像もつかない強い雨でした。もうバイクに合羽を積んで走ることもなくなった時期ですから皆濡れながら走っていました。

バクリュウ省教育局

2006-12-10 03:40:00 | 新聞・書籍
きょうの新聞にメコンデルタ、バクリュウ省教育局幹部逮捕の記事がありました。今年六月の高校卒業試験に際し、採点に手心を加えたとの罪です。他に既に高校の教師も父兄からお金を受け取って不合格者の点数を改ざんしたとのことで逮捕されています。不心得な教師が親の弱みに付け込んで一人当たり8Mドンもの金額を受け取っていたわけです。わがスタッフのNが最近買い換えたサムスンの携帯電話が4Mドンですから、僅か携帯電話2台分とも言えるわけですが、バクリュウ省の平均所得からすればかなりの金額です。

メコンデルタはベトナムの中で高校進学率が低く、中退率が高い地域ですが、その中でもバクリュウ省は1・2を争う地域です。サイゴンから280km、その隣はベトナムの南端に位置するカマウ省です。
今年の高校卒業試験受験者7000名中合格者の比率は70%だったそうです。これを79%に引き上げる操作がなされたのは、省教育局の方針だったようです。数字に追われるお役所仕事ですから、毎年の卒業試験結果には様々な問題が報道されてもいます。お役人の自分の成績を下げまいとする要求とこれに逆らえない学校当局に加え、折角三年間学費を払ったのに卒業証書を手にできない親の悔しさとそれに付込む悪徳教師が織り成すドラマのようです。

それにしても不合格者が30%ということは、2000名を超えます。その内9%、630名ほどは卒業証書を手にしたようですが、これは没収されてしまうのでしょうか。記事では触れていません。今日の大学・短大への進学率を見れば、その中で既に進学をした学生も含まれているとも考えられます。

以前、北部と南部の進学率の違いについて、北部の官僚主義、南部の経済実力主義の反映などという見解を目にした記憶があります。あるいは、北部では家を売っても子供の学費をつくる、南部では子供を売っても自分が楽をする、などと口にする性質の悪い友人もいますが、最近はどうも違うように感じています。卒業証書や学歴へのこだわりという意味では人々の意識における南部の人々も北部の人に劣ることはありません。


ベンチェ省

2006-12-07 02:15:40 | 地理・歴史
台風が滅多に来ない地域だけに南部を襲った昨日の台風は死者・行方不明者が百名を超えてしまいました。ブンタオに次いで、メコンデルタのベンチェ省の被害が大きかったようです。新聞の図を見ると、メコンデルタでは沿岸の海上ではなく、デルタの陸地を通過しています。ベンチェの平坦なデルタは海抜と同程度の高さしかなく、道路よりも張り巡らされた水路の方が多い地域です。ここを台風が直撃したらどうなるかは誰もが容易に想像できます。

ベンチェには一度知り合いの親戚の集まりに呼ばれて一泊したことがありました。高齢の曾祖母の長寿を祝う宴席で100名近くの人々が集まり、かつてサイゴン政権の役人でアメリカに渡った息子達の家族も帰って来てました。同じテーブルになり話をしてみると、汚職にまみれたサイゴン政権の役人という先入観とは程遠く、洗練された物腰に驚いたほどです。これだけの息子や孫がいるのに、と不思議なくらい家屋は粗末でした。家の敷地はドリアンなどの果樹園になっており、その周りには堀のような水路で囲まれてました。堀を堰き止めて大きな海老を取ってましたから、半ば自然の養殖池ということのようです。家の裏には大きな池があり、トイレから突き出した長い塩ビパイプが伸びています。そこから人糞が落ちると魚が集まって来ました。この魚もやはり食用なんだろうか・・・と考えてしまった自分はやはり軟弱な都会人なのでしょう。宴会用の豚肉や鶏肉も自給自足なのか、あるいは生きたまま買って来たのかのどちらかでした。

日本でもそうであったように、台風の被害は離農を促します。家と作物を失って狭い農地にしがみつくよりは一家でサイゴンに引っ越したほうが収入を得やすいという場合が少なくないからなのでしょう。最近は、サイゴンの街でアヒルの卵の半孵化したVit Lon売りを見かけません。鳥インフルエンザの影響で、一般農家の家禽類飼育が禁止されてしまったためです。ブロイラーの鶏肉は1kg40Kドンですが、地鶏の肉は100kドンだそうです。台風も鳥インフルエンザも自然災害と呼ぶべきものですが、そのリスクは平等ではないということです。

ベンチェ省はメコンデルタでの抗米闘争の開始、1960年1月の「ベンチェ蜂起」でも有名です。ベトナム語で“dong khoi”、日本人観光客が買い物で闊歩するサイゴンのドンコイ通りは、直訳すれば「蜂起通り」です。勉強不足で、なぜ「ベンチェ蜂起」だったのか、は知りません。メコンデルタの他の省と比べて特筆されるべき何があったのかということですが。ベンチェ蜂起と引き続く解放戦線の戦いが強固であったため、米軍による枯葉剤の被害も大きい地域です。
今でもベンチェ省では英語よりもフランス語を教える高校の方が多いとも聞きます。チェ・ゲバラの名を冠したチェ・ゲバラ高校という学校もあり、興味を引きますが、そこの卒業生に聞いても高校名の由来は知りませんでした。通俗的にはベンチェという地は、椰子の木に比喩される女の子のスタイルの良さが一番有名のようです。

泥棒

2006-12-06 01:31:00 | 社会
台風は南部東海岸沿いにメコンデルタのカマウ岬からタイ湾へと抜けたようです。5日未明に雨音で目が覚めましたが、風雨はいたって控えめなものでした。気温は前日より二度ほど下がって心地良く、思いっきり朝寝坊してしまいました。ホーチミン市の被害がなかったとは言え、沿岸や離島では被害を免れることはなかったようです。暑さも戻りかけた夜空には十五夜の月が輝き、その隣にはオリオン座も見えます。

昼にK君に携帯で電話を入れると電波が弱く聞き取れないとのことで、PCからスカイプを繋ぎました。忘年会の予定でも入れようかと思ったわけですが、「話聞いてくれる?大変なんだよ」とのこと。先週は、順調で忙しすぎてどうにもならない、とのことだったのですが。お互い大変なことが起きるのは日常茶飯事ですから、どんな深刻なことでも今では当たり前のように感じてしまいます。あるいは大変さの軽重を量る計器が使い過ぎと暑さで麻痺してしまったのかも知れません。

工場に泥棒が入り、昨日きょうの二日間は警察の調査もあり、工場の操業を停止しているそうです。工場の設備が盗まれ、被害額は10万ドル程度だとか。ドンナイ省にある工場で働いてた時も盗難は日常茶飯事でしたが、工場のラインが止まるような経験はありませんでした。生産設備を再び手配し、その間半分のラインは止まることになるのだそうです。一番の悩みは休業期間中にワーカーが他の職場に移り戻ってこないのでは、という危惧のようでした。
手当たり次第に盗みまくったわけではないので、まったくの外部からの窃盗とは考えられないものがあります。換金したところでせいぜい1000ドル程度にしかならないのに、被害に遭った方はその数十倍の損害を計上しなければならないわけで、そう考えると一般的に犯罪とは経済的には不合理的な行為で、社会的な損失額というのはかなりの規模に膨らみそうです。

K君が心配するように、年末間近のこの時期に新たにワーカーを募集しなければならないようになったら面倒です。近所のカフェのように住み込みで働けるのなら地方から集めることもできるのでしょうけど。
メコンデルタのロンアン省では今年高校に進学した10年生の中、15%にあたる3138名が既に中退したと発表されました。更に11年生も3000名ほどが中退とのことです。主要な理由は家庭の経済的困窮とされています。そのメコンデルタですら水産加工労働者不足が指摘されているわけですから、工業団地が次々に建設されるサイゴン近郊の労働者不足は深刻のようです。


キャッシュカード

2006-12-04 23:10:08 | 社会
朝は携帯電話が鳴って起こされ、大家から「きょう、家賃払えるのか」?との催促でした。手持ちの現金は無く、二週間前に失くした財布の中にキャッシュカードが2枚入っていたので、再発行手続きを兼ねて銀行へ行くことにしました。昨年空き巣に財布と携帯電話を盗まれた時は、その日の内に慌てて銀行へ駆け込みましたが、数日後隣家の屋根の上に現金だけ抜かれた財布が投げ捨ててありました。キャッシュカードもそのまま。キャッシュカードを含めカード類は盗まれても使われることはないようです。

Hoang Van Thu通りのBIDVの支店に行くのが億劫だったのは、その向かいでいつも交通警官が取り締まりをしているからです。その前でUターンし反対車線に出なければならず、否が応でも自動車走行用の左車線を走ることになるわけで、それはそれで違反と判断されかねない行為です。きょうはご丁寧にも上下車線両方で取り締まりをしてました。
この支店は去年開設されたばかりで、暫らくは客数も少なく、田舎の特定郵便局のようなものでしたが、次第に混雑し始め、行員の対応も素っ気無くなって来ました。ATMでの引出しが一回200万ドン限度のため不便を感じることもしばしばです。
カードの再発行手続きに加え、ちょうどパスポートも更新して番号が新たになったのでその手続きもあり、暫らく待たされてしまいました。外貨売買のボードを見ると多少円高で1円が138.42ドンと表示されてます。円を買う場合は140.77ドン。その中間値を銀行間レートと考えると手数料は1%未満です。今月は法人税の4半期分予定納税の月でもあり、15Mドンを引き出しました。


市内は至るところ銀行支店店舗の開設ラッシュで、日本の高度成長期とバブル期を足したほどの勢いです。スーパーには主な銀行のATMが並び、GO VAP市場前のDong A銀行のATMでは並ばずに済んだことがありません。そのお陰でか、最近は郵便局の窓口に並ぶ人が少なくなったようです。
次にPhan Dang Luu通りのDong A銀行支店で手続きをしました。最近建替え工事が終わり新装開店となったビルです。急激に店舗数を増やし、行員が若くて経験が浅いためもあって国営銀行系の行員より愛想も悪くありません。Cash card という単語はATM cardと言わないと通じませんでしたが。地下駐輪場からバイクを出して帰ろうとするとカウンターで対応した多少日本語を話す若い女子行員が追いかけて来ました。当然ながら、「携帯の番号を教えて下さい」とのことではありません。「パスポートのコピーを撮るのを忘れた」のだそうです。

4日の朝刊では台風ドリアンの進路がホーチミン市を直撃するとの予測でした。ここ10年ほどは、台風とは無縁だったそうです。今は南西に向かい、海岸線から100kmほど離れて半島に沿って南下しているようです。Vung Tauからメコンデルタにかけての範囲が予想進路とされています。空を見上げても、雨が降るとは考えられませんが、念のため今晩は窓を閉めて寝ることにします。

蛍光灯

2006-12-04 03:39:16 | 生活
きょうは多少涼しく、朝の9時過ぎに外に出ても汗ばむことはありませんでした。台風が近づいているせいなのでしょうか。台風ドリアンは西南西に進路を変え、時速15kmというシクロ並みのスピードでベトナム南中部に向かって来ます。現在位置は北緯13度20分東経112度25分。4日夜にはニャチャンからファンティエットにかけての海岸に上陸しそうです。近世までこの地はチャンパ王国の海岸でした。気象衛星も天気図もない時代、海洋民族チャンパは、どのようにこの台風を迎えていたのでしょうか。香木を発見し、井戸を掘り当てる技術も高かったといわれる民族です。航海術とともに彼らの中には経験から導き出された台風への対処法が蓄積されていた筈です。日本に残るチャンパ(占城)の記録は、1623年(元和9年)の朱印船渡航地が最後かも知れません。ベトナムがまだ半島の北半分に留まっていた時代に蓄積された南の文化、その地に生きた人々の営みに思いを馳せたくなりました。

雨が降らなくなって数週間、部屋の中に積もる埃の量も増えて来ました。毎週土曜日の午後だけNUさんに掃除を頼んでいます。北部Vinh Phuc省の農村出身で、この周辺を廃品回収に回っている一人です。昨年、古新聞を売ったついでに可愛かったので声を掛け、時給1万ドンで引き受けてもらいました。ところが、隣近所や大家さんから猛反発されました。廃品回収の仕事の合間に自転車に乗って来ので素性は一目瞭然。モノを盗まれるからそんな人を雇うべきではない、とのことです。しかし、謂わんとするところは「他の良い人を紹介する」ですから、僕にとってはそっちの方がリスクは大きそうなのでご忠告には従いませんでした。もっともNUさんも時給1万ドンのはずが、4時間の仕事を3時間で済ますようになり、その労働生産性向上分は彼女の所得にしてしまいました。まぁ可愛いからしょうがないか、などと鼻の下を伸ばしていられるほどの余裕があるわけではありません。何度となく支払い金額の交渉を試みたものの頑として聞き入れてくれません。それに話す言葉に手加減を加えてくれないのでお手上げです。

自分で掃除ができないほどの広さの家を借りておく必要も今はなくなったわけですが、増えてしまった家電製品などの荷物を思うと暫らくは引っ越す気にもなれません。ただ、いつでも引越しができるように片付けだけはしておこうかと手を付けると余計散らかるばかり。この間暫らく後回しにし続けていた蛍光灯の交換をすることにしました。天井が高いため、机の上に椅子を重ねないと届きません。一人の時にこんなことをするのも危険だと気付きましたが、蛍光灯交換のために大家を呼ぶ気にはなれません。近所の電気店に40Wの蛍光灯を買いに行くと、ご丁寧に接触端子に簡易テスターを当ててから売ってくれました。一本1万ドン。日本で100円以下で蛍光灯が買えるとは思えず、驚きました。多少の品質は仕方ないかと家に戻り、取り付けてみるとグローランプが延々と点滅するばかりで点灯しません。店に戻り、店員にクレームを付けると「そんなわけないよ。家の器具が壊れてるのさ」と小バカにした態度。「じゃあ、ここの器具で点けてみてよ」と頼むとやはり点灯しませんでした。「おい、兄ちゃん、日本人を舐めんなよ」という目付きをしてしまったのか、立場を失った店員は大笑いでごまかしてました。この時ばかりは「すいません」の一言も聞けるだろうかと期待したのですが、「すまない、と思うなら1000ドンまけろ」と言われると感じ取ったに違いありません。


季節外れのドリアン

2006-12-02 01:49:04 | 生活
先週は奮発して季節外れのドリアンを買い、折角ベトナムに来たのだからと、来客者に勧めてみたのですが、案の定と言うか、微妙な空気が流れ、まったく喜んでは貰えませんでした。お陰で自分で食べられる量が増え、それはそれで結構なことでもありました。一度や二度ではこの美味しさを知ることができません。それ故無理に勧めるのも、日本食レストランに若いベトナム人の愛人を連れてくる中年男同様の愚かしい行為だったようです。
先日も「ととや」のカウンターでそんな光景に遭遇しました。周りの客も従業員も何処か白けてしまいます。一番居た堪れないのがそのベトナム女性のようで、そんな空気を本人も察知してか、酢が多いとか少ないとか板前に文句を付けて更に傷口を広げてました。だからと言って、和食がベトナム人に受け入られない、ということではありません。日本食のビュッフェでワイワイがやがや楽しそうに食べている光景も見られます。食事を一緒に楽しめるかどうか、ということがポイントなのでしょう。

新聞一面にはフィリピンで死者行方不明500名の被害をもらした季節外れの台風「ドリアン」がベトナムに向かっているとの記事がありました。H君が言うには中部では12月の台風は珍しくないそうです。ベトナムの東海岸に到達する5日には勢力はだいぶ衰えるだろうとの予測です。

ハノイの10月は80年来の暑さを記録したそうです。サイゴンの11月も体感的には記録的な異常な暑さです。昼前に交差点でバイクを停車していると、長袖のワイシャツの上から照り付ける日差しが腕に痛いほどでした。若い女の子たちが、クリスマスをどう過ごすかを話すような時期になっているのにです。

グエン・フエ通りの日本総領事館を訪れました。銀行の金庫室に入るような扉の中に入ったのは久しぶりのことです。ふと、ここが「サイゴンのいちばん長い日」の前日から近藤紘一らが篭城した旧日本大使館なのだと思い出しました。本には、「日本大使館は市役所前からサイゴン川へまっすぐ通じるグエンフエ大通りの河畔近くにある。五〇メートルほど先は河畔の遊歩道路である」と記され、今もそのままです。75年以降、幾つかの地名やサイゴンの通りの名は変りましたが。
高層ビルが増え続け、街の景観が日々変化するにつれ、75年4月以前の記憶も薄らいでしまうのでしょうか。記憶を封印して生きねばならない人々がいることも確かのようですし、この国の人口構成の若さが過去の歴史をも圧倒してしまうような感じも受けます。