GOVAP便り

プノンペンからモンドルキリに、その前はTAY NINH省--AN GING省--HCM市GO VAP

日越経済連携協定

2008-12-26 22:56:47 | 農業・食品
きょうのトゥイチェ紙の一面は、日本との「経済連携協定締結」のニュースでした。こういうニュースは日本語で読んだ方が楽だからと日本の新聞社のサイトを開いてみたものの記事は見当たらず、日経の記事検索でやっと見つけました。

<日本とベトナム、EPAに署名 09年にも発効へ>
 -日本とベトナムの両政府は25日、都内で経済連携協定(EPA)に署名した。国会の承認が得られれば来年中にも発効する見通しで、10年以内に両国の貿易額の92%にかかわる関税を撤廃する。
 日本からの輸出では、自動車部品や鉄鋼製品などの関税が撤廃される。ベトナムからの輸出ではエビや冷凍タコなどが無税になる。ベトナムから日本への看護師や介護福祉士の将来の受け入れは継続して協議する-

この淡白な日本の報道とは対象的に、ベトナムの新聞記事は何枚もの写真が掲載され、ライチやドリアンも写し出されていて、いよいよベトナムの農産物が本格的に日本に輸出されるぞ、とのべトナム農民の期待を煽り立てるかのものでした。

日本外務省のプレスリリースには協定の概要やら会談の経過報告が掲載されていましたが、何とも抽象的で無味乾燥なお役所文書です。農産物の輸入関税を引き下げることが食糧自給率のさらなる低下をもたらしかねないと非難を浴びないためにこっそりと事を運んでしまおうということなのでしょうか。

楊貴妃が食べたライチ、ガス漏れと間違う匂いの立ちこめるドリアンが日本市場に安く供給されることは、それはそれで消費者にとって喜ばしいことではないのか、などとも思うのですが。

同じ新聞にメコンデルタで最大の冷凍魚加工工場、ナムベト社で1000人の人員整理との記事がありました。既に工場は稼動率が40%以下だそうです。


雨のクリスマス

2008-12-25 23:41:15 | 天気
年末の人出でバイクの通行量も一段と増えたクアンチュン通りの騒々しさに付き合うにはいささか歳を重ねすぎてしまったかと感じるこの頃です。左腕を不意に上や後ろに伸ばしてしまうと激痛が走るようになって4ヶ月ほど経ち、昨日はバイクで走行中に背中が痒くなり、腕を背中に回そうといてイテテテテ。この間シャワーを浴びても身体を満足に洗っていないので痒くなるのも当然。右手はアクセルを握っているので離すことができず、文字通り痒いところに手が届かず。

昨夜はクリスマスイブの混雑も加わり、更にサッカーの東南アジアカップ(今年からスズキ・カップの名称)の対タイ戦にベトナムが勝利してしまい、国旗を掲げた暴走バイクも登場する有様でした。年明けに日本に一時帰国する航空券を予約したところですから、こんな時に渋滞や事故に巻き込まれるのは真っ平御免の心境で、ひたすら安全第一を心掛けてノロノロ走りました。

ファンバンチー通りでは警察車両が何台か留まっていて周りに人だかり。「増大する組織暴力か風俗営業の手入れなのか」と覗くとバイクが3台倒れていて単なる交通事故。先週の土曜日も同じような事故があったばかりです。

クリスマスイブをどう過ごすのか。などということはたぶん人生で一度も考えたことはなかったように思います。きょうの朝、体調イマイチで1時間ほど遅れて仕事に行くと事務所に着くなり「昨夜は何処に行ったのか」とニタニタ顔で聞かれ、「相手の歳考えて喋れよこの糞っタレ」という気分でした。

シンガポールのカレンダーを見ると今日は休日になっています。欧米やシンガポール系の事務所が多いとも思えないオフィスビルですが、バイクの駐輪場もエレベータもきょうは通常の8割以下ほどの密度でした。
同じフロアーの隣と向かいの事務所がいつの間にか引っ越して空室となっています。一社は韓国系でしたから、もしかしたら経営不振で撤退ということなのかもと思っています。

サイゴンの気温は冬至前後のこの時期が一番低くなるようで、それだけに20度近くまで下がった夜の空気に年の瀬の雰囲気を感るようになって来ました。30度を超える日中の気温とて陽射しの強さは兎も角、蒸し暑さはありません。

ところが、きょうはオフィスを出て帰ろうとすると雨。それも合羽を着なければバイクを運転できないほどの雨です。頻度こそ少ないものの12月に入ってからも毎週のように降っています。家に着く頃には雨足はまるで雨期のスコールと同じほどに強くなり、断続的に8時過ぎまで降り続きました。

朝、コーヒーを飲みませんか

2008-12-23 23:22:52 | 生活
Aさんから携帯にメールが入り、「朝のコーヒー」に誘われました。これが若い女性からのお誘いだったらなー。などとも一瞬思ってしまいましたが、そんな期待を抱けるような生活を送っているわけでもなく、間違ってそんなメールが届いたところでロクなことがないことだけは確かです。

ダイヤモンドプラザの向かいにあるチュングエン・コーヒー店です。メニューを見て少々値段の高さに驚きました。が、どうせこの場は誘った方が払うのだろうと気前良くAさんと同じ8番を注文しました。ハイランド・カフェではレギュラーの2万6千ドンの不味いコーヒーしか飲まないわけですが、それとは比べものにならない美味しさでした。

昼間の暑さのせいか、朝の爽やかな空気に包まれたカフェでコーヒーを飲みながら話をする人々は少なくありません。たぶん何処のカフェでも朝と夜が客の多い時間帯のようです。800万人もの人口が密集する渋滞と喧騒の町ですが、それだけに知人の誰とでもバイクでちょこっと走って気軽に朝のコーヒーを飲んだりランチを一緒にしたりできるというのは便利です。交通事故の確率は高そうですが孤独死が問題になるようなことはなさそう。

この時期故に、今年一年の総括と来年の展望みたいな話題になってしまうわけですが、Aさんの仕事は今年下半期の利益は出なかったそうです。それでも新規投資を控えたので資金は十分で年利18%の銀行定期に回してあるのだとか。

日々景気の減速はベトナムでも顕著で、特に韓国資本の工場閉鎖が多いようです。ハノイの閉鎖工場の1/3が韓国系だとか。高級住宅地のフーミーフンに住む韓国人の60%が出て行ったとも聞きます。

2009年がどんな年になるのかわからない、というのはベトナムに限ったことではないわけですが、衰退する世界経済の中でベトナムの株価は1/3以下に。外資導入を原動力とする経済発展にとってこの金融危機がもたらす影響はまだ始まったばかりなのかも知れません。


円高日本

2008-12-19 01:37:18 | 生活
15年ほど前にベトナムで日本円から現地通過に両替した時のレートは100円が10,000ドンほどだったと思います。それ以降経済成長に伴うインフレでベトナム・ドンは徐々に減価しながらも確か10年前のアジア通貨危機の時はこちらの東京三菱銀行で日本円に両替すると1万ドンが100円を切ったこともありました。

それが、きょうは100円が19,200ドン。1ドルが88円を割る状況ですから覚悟はしてましたが、テト休みに日本に帰ろうとする気も失せてしまいそうなレートです。こちらでの今の生活費が家賃込みで平均月500ドル。日本への往復航空運賃だけで2ヵ月分の生活費なのは仕方ないとしても日本滞在期間中の交通費やら食費等はベトナム物価の何倍になることやら。

タクシー料金はこちらで9,000ドン/km=47円、ランチが2.5万ドン=130円、煙草8.500ドン=44円、コーヒー16,000ドン=83円と計算しても日本で同じペースで生活すると10倍近くの出費になりかねません。サイゴンの生活も昨年比30%ほどの物価上昇とは言え、円高日本の前には・・・。1970年前後の日本の物価水準=初任給3~4万円の頃だったかも知れません。物価水準としては40年ほど前の世界に生きているということになるわけで、したがって今の円高日本に帰ることは40年振りに出所した人と同様の戸惑いがあるとしても不思議ではないのかも。

40年前の当時の日本は仕事を見つける難しさがない時代だったように思います。ラーメン一杯50円だった高校生の頃の休日のアルバイトは日給1000円ほどでした。今のベトナムの通貨に換算すると19万2千ドン。1枚5000ドンの宝くじを1日に384枚売りさばいて得る収入ですから平均的な売り上げ100枚の3.8倍でちょっと無理。そう考えると当時の日本は随分と豊かだったように感じます。

日本のニュースを見るにつけ、この40年間日本は一体何をしてきたのだろうか、と思ってしまうことが少なくありません。経済格差の拡大を伴う今のベトナムの経済発展はそれ故犯罪数も増大させているわけですが、それでも日本の社会ニュースのように「あぁ情けない」と感じることはなく、残酷であっても何処か納得できるものがあります。きょうの「労働者」紙の三面記事には、「U40の売春、床屋で」というのがありました。記事には34,35才とあるのに見出しはU40。日刊ゲンダイの乗りですが、要するに賞味期限切れとの意味合いでU40と表現してるようです。

子豚の丸焼き

2008-12-15 03:43:07 | 農業・食品
メコンデルタを回り三泊して来ました。前回出かけた11月は雨期の終わりで水位も高く水田は水に浸かっていましたが、それからどれだけの日数が経っているのか、今回は水も引きすっかり乾期の天気でした。

ビンロン、ロンスェン、カントーと宿泊先は異なりましたが、食事は何処も大方同じようなメニューで選ぶのも次第に億劫になりました。ロンスェンのレストランの中庭では子豚の丸焼きを見かけました。サイゴンでもあちこちで見ることのできる別に目新しい光景ではありませんが、生物を喰う事によってしか自らの生を持続し得ない人間の罪深さみたいなものを感じてしまいます。スーパーに陳列してあるパックされた肉から喚起されることはないわけですが。

食糧の原材料と食卓に上がるまでのプロセスを知ることが必要とされている-食品偽装なり食の安全の問題というのもそういうことなのでしょうけど、スーパーに陳列されるまでの過程を知らないことによる消費者が持つ無意識の傲慢さを感じることも少なくありません。

子供の頃にご飯粒を茶碗に残すと「お百姓さんが汗水垂らして一生懸命作った食べ物を粗末にするな」と叱られた記憶があります。そのためか、未だに食べ物を残すことに多少の後ろめたさを感じることがあります。しかし外食が増えるに従いそんなことも次第に希薄になってしまいました。

今回は、冷凍工場を幾つか見て回りました。数千名の女工さんが働いているそうで、フィレ加工の工程は数百名が包丁での手作業でした。12時間拘束で10時間の立ち仕事です。一日8時間労働や週休2日とも無縁な世界。そしてその職場すらも輸出の激減で工場の操業が危ぶまれているようです。


不況の足音

2008-12-10 02:02:00 | 社会
けたたましいクラクションが鳴り響くサイゴンの騒音の中では「不況の足音」なども掻き消されてしまうようですが、きのう久しぶりにGo Vapで一緒に食事したK君、「今年は、テト前のこの時期にワーカーの募集にも困らないし、日曜日に行ったSuoi Tien遊園地も信じられないほど客が少なくガラガラ」で「不況」を物語っている状況なのだとか。メコンデルタでも工業団地が次々と建設されているわけだし、何れはサイゴンの街への出稼ぎも減るのでは・・・、そうでなければこの過密都市の道路と住宅事情は手の付けられないものになってしまう、などとも思っているわけですが、K君曰く「不況で益々メコンデルタからの人口流入は増える」との説です。

原油価格の急落を受け、ガソリン代は1L:19000ドンのピークから12000ドンまで下落し、バイクへの給油に5万ドン入れていたのが今は3万ドン。タクシー料金も平均的には9000ドン/kmに値下げされ、路線バスも値下げと新聞に載っていました。生活上のこれらの価格低下にはちょっと得をしたような気になったりもしますが、「今年のテトは田舎に帰らない」という見出しが新聞を飾る状況にあるようです。

地方から出稼ぎに来て1年間で蓄えられた金額が前年を大きく下回ったということなのだと思います。前年比30%近くの物価上昇があったわけですから貯蓄分が取り崩され、またそれを補うだけの賃金上昇もなかったことの結果なのでしょう。

農村から押し出されて都市周辺の工場に職を得ても弟や妹の学費を稼ぎ出すことができない、というのは「ベトナム人の家族観」を思うと随分と酷な話に他なりません。田舎の家にお金を持って帰らなくても親は顔を見るだけで嬉しいのでは・・・などと思うのは「日本人的発想」なのかも知れない、などと思うようになってしまいました。


記憶の喪失

2008-12-04 02:00:52 | 生活
何を自分の仕事の課題とするのか、をあれこれ考えながら、しかし何をするにもベトナム語か英語でしか資料を揃えられないのがやはり煩わしく、これという仕事をするでもなく一日が過ぎていきます。

こういう時は、日本に帰って日本語環境で仕事をすればオレは今の三倍の能力を発揮できるに違いない、などという気にもなるわけですが、たぶんそれは自己保存的な気休めなのでしょう。日本食なら何でも美味しい、などと思えるのもベトナムでの生活環境の故でしかなく、日本に帰れば毎日の食事に感動し続けることもなくなるわけだし。ベトナム料理でも美味しいものがあるように、日本語で日本人と会話したとて通じない相手にはまったく内容が通じないわけで、ベトナム語でベトナム人と会話してても不自由さを感じさせない相手も皆無ではありません。

ベトナム人の忘れっぽい性質にはしばしば泣かされます。自分に都合の悪いことは忘れた振りをしているのだろうか?などと疑ってしまったりもするのですが。それでいて仕事がらみの数字などには驚くほどの記憶力を発揮しています。直接仕事に関係がなくても数字に強いのがベトナム人の特徴なのでは、と思うことも少なくありません。一般的に数字への拘りが強い社会という印象というか、何でも金額に換算して理解する、価値を推し量るみたいなところもあります。

日頃お付き合いしてる人々が20~30才も年下ですから計算や記憶を掌る脳細胞も若々しく、こちらのニコチン・タールがべっとり付着した血管とは比べ物にならないとも言えそうです。

言語の切り替えだけでなく、ベトナムモードと日本モードというのが自分の中にあり、日本から友人が来たりすると何処か自分が日本人モードに切り替わっていることに気付きます。そういう時は何故か注意力が散漫になり、財布を無くしたり携帯電話を紛失したりしてしまいます。そのモードの切り替えの時に記憶機能の一部が損なわれるかのようでもあります。

きょうも仕事の最中に一時日本人モードに切り替わる瞬間があったり、日本へ電話して話したりした後で事務所を出たところ、バイクを駐輪場のどの位置に停めたのかが思い出せません。地下まで降りてから「否、きょうは地上だった」と思いなおして地上に出ると「ここに置いたのはきのうだ」と思い出し、再び地下へ。しかし地下に降りてもどの辺に停めたのか分らず、思い出そうとしても一昨日の記憶なのか今朝の記憶なのか、あるいは先週のことだったのか、記憶にタグが付いていません。

子供の頃に祖父に同じ話を何度も聞かされたことを思い出しました。「ミツビシに居たときに泥棒が・・・・」。自分も祖父の世界に一歩近づいてしまったのでしょうか。

三日月

2008-12-02 02:15:02 | 
ここ三日ほど雨がありません。雨が降らないのに夜の気温は下がり、室内でも26℃以下になってタオルケット一枚では身体が温まりません。この涼しさは近くで雨が降ったせだろうか、それとも乾期入り=風の向きが変わったせいだろうか、などと考えてもみましたが、どうやらサイゴンの短い冬の始まりのようです。

こういう気温になると水シャワーへの恐怖からついついシャワーを浴びずに「まぁ大して汗もかいてないし・・・明日の朝にしよう」と寝てしまうわけですが、朝になればそんなことはすっかり忘れてしまいます。このところ水シャワーを浴びるのが億劫なのは気温のせいに加えて左腕を伸ばすと痛みが走る状態が続き、冷やすと血行が悪くなり益々症状が悪化するのでは?との根拠のない思いも手伝ってのことです。シャツを着る時と頭を洗う時は不便ですが、左腕なので日常生活には差して不便はありません。

夕方の6時頃に仕事を終え、バイクを走らせると進行方向左手、西の空に三日月がくっきりと見え、その上に星が二つ輝いていました。たぶん一つは金星なのでしょうが、も一つは何だったのでしょう。日本に電話して聞いてみよう・・・と一瞬思ったわけですが、Cong Hoa通りの騒音の中でしたからバイクを止める気にもなれませんでした。

三日月というのは正確ではなく、きょうは旧暦十一月四日ですから4番目の月ということだと思います。月を見たのも久しぶりのように感じたのは、長い間雨が続き、あるいは雲に覆われていたからかも知れません。と、すればやはり乾期の始まりであるようです。

在留日本人

2008-12-01 04:52:42 | 地理・歴史
外務省統計によれば昨年のベトナム在留日本人は5,613人(在留届出数)。実態はその倍くらいかも知れません。また今年の投資ブームで今はもっと増えていそうです。因みにタイは40,198人(2007年10月)中国では127,905人(2007年)と桁違いの数字になっています。

かつて「大東亜共栄圏」を標榜した時代にこの地に在留した日本人の数がどれほどであったかは知りませんが、このところのグローバル化する経済によって海外に排出される日本人の数もまた増え続けているようです。少子化する日本社会にあっては戦前のような人口排出圧力が働くということではないのでしょうが、企業の海外投資の拡大と国内の非正規雇用の増大は、労働機会を海外に求める要因足りえているように感じます。

ベトナムへの日本人の在留ブームは知り得る歴史ではこれが三回目。前回は日本軍の「仏印進駐」に伴う軍国主義の時代で、林芙美子『浮雲』の舞台ともなり、また民間人が少なからず居住していたことは反中プロパガンダの旗手たる桜井よしこオバサンが敗戦後のハノイで生まれたことでも知られます。

その前は世界史的には「商業の時代」、日本史では戦国から始まる「朱印船貿易」ブームの頃のことでホイアンの日本人町がその象徴です。

この第一次移住は徳川幕府の「鎖国令」によって終結し、残された日本人は本国商業資本との関係を断たれて存在意義を失い、メコンデルタに移住するなど放浪しベトナム文化と土の中に溶けてしまいました。かつてのオランダの地図にメコン河(tien Giang)が日本河と表記されていたように、その程度にはメコンデルタ開発に貢献したようですが、ベトナムの歴史資料のなかに足跡を残すほどではありませんでした。

「大東亜共栄圏」時代の日本人も僅か数年のことで、ホーチミンのベトミンに協力した旧日本軍敗残兵の活躍もほんのエピソードに過ぎません。大日本帝国の崩壊と共に植民地主義者たる日本人移住者はその歴史を閉じたわけです。

それでは、今日のベトナムに在留する日本人とは一体何であるのか、どのような歴史的な性格を持つものであるのか、などと考えてみたくもなるわけです。何しろ始まりがあれば終わりもあるのが歴史の常。日本政府の膨大なベトナムへのODAも日本企業のベトナム進出も永遠に続くものではないでしょうし。