GOVAP便り

プノンペンからモンドルキリに、その前はTAY NINH省--AN GING省--HCM市GO VAP

旧正月明け

2007-02-27 20:53:05 | 
サイゴンに戻って四日目です。ブログの画面を見るのも久しぶり。日本に帰っている時はパソコンを開く気もしないので、日本からメールの返事が来ないのも仕方ないことだと思えて来ます。自分がこうしてキーボードを叩きたくなるのは、どうしようもない欲求不満がつのるせいなのでしょう。それで多少は精神のバランスを保てるような気がしてます。

先週末の街並みは、テト休みでシャターを閉じた店もありましたが、今週からは通常の景色に戻っています。今もまだ閉まっている店は休みではなく店仕舞いをしたようです。三年前のテト休み明けに日本から戻った時は、耐え難い暑さに驚きましたが、今回は日本が暖冬だったためか、さほど苦になる暑さではありません。それでも昨夜は体温調整が難しく、扇風機を付けたり消したり、肌掛けにしたりタオルケットにしたりを繰り返してなかなか寝付けませんでした。気温のせいというよりは、呆れ果てるわが事務所の惨状への苛立ちが原因なのかも。

早くもウンザリしてしまったのは、日本での家族や友人との人間関係、コミュニケーションとここでのそれとの甚だしい落差を感じるからのようです。その記憶が薄れれは、慣れるのでしょうけど。明日は28日、もう月末です。ハノイで一週間、日本で二週間過ごしたので仕事はどうしようもないほど山積みで、机の上は、頭の中と同様に整理されないままです。
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ウォッカ

2007-02-07 01:18:48 | 教育

またもやバスに揺られて出掛けました。昨年納入した機器のメンテナンスで、さほど時間は取られない仕事なのに、ハノイから約100kmの往復を思うと憂鬱です。ホーチミン市の長距離バスターミナルは東と西に一つずつ、メコンデルタに向かう Ben xe mien Tay と東北方向に行く Ben xe mien Dong の2つですが、ハノイの場合は東にザーラム、西がミーディン、南にザップバットとあるようです。いつもは空港の近くで通過するバスを拾って向かっていたので、ハノイ市街からだとどうやって行けば良いのかがわかりません。ミーディン・バスターミナルからだと言う人もいれば、ザーラムからだと答える人もいました。どちらからも出ている、ということもありそうですが、チュンズン橋を渡ったザーラムからだと遠回りになり無駄な時間を費やすことになります。7時にホテルを出て市内バスでミーディンに向かいました。

10時に着けば午前中で仕事は終わるから、帰りにはヴィンエンで降りてタムダオの方に行ってみようか、などと暢気なことを考えていたのは大きな間違いでした。先ずミーディンのバスターミナルで一時間近く待たされ、出発したのが8時20分。ターミナルを出るときは余裕の座席もそこかしこで声を掛けて次々に乗車させるので、またもやギュウ詰め状態でした。途中乗車の人にはチケットも切らないので、超過乗車人数分の料金は運転手と助手の副収入になるようです。そうでもなければ10万円を超える携帯電話を買えるとは思えません。

予定より30分ほど遅れてしまいましたが、それでもまだ何とかなる時間と安心し、途中でコーヒーを飲む余裕すらあったわけですが、いざ着いてみると人の気配がありません。留守番の青年が一人居て、「機関」は引越したと答えました。移転先の地図を書いてもらいましたが、その「通りには名前がない」とか要領を得ません。バイクで連れて行っても良いと言い出し、幾ら払うかと聞くので10Kドンと答えると、50Kドン要求されました。北部の地方都市にはいまだにこの手の「外国人からはボレる」と考えてる付き合えない人間がいるようです。「勝手に吠えてろ」と背中を向けてその場を去り、Nに電話しました。「訪問先はちゃんと住所確認しておいてよ。何度も来れないんだからさー」と告げると、「直ぐ調べて電話します」との答えでしたが、返ってきた電話は「TP.Viet Triです」。「それは分かってて今来てるんだけど、移転先の住所と行き方を先方に聞いてくれないかな」?バイクタクシーも付近に見つからず、トボトボ歩き始めました。

結局着いたのは11時半。早速仕事に取り掛かろうとすると、「まぁまぁ、今お茶を入れるから」と座らされ、「もう昼だから食事に行こう」とのことになってしまいました。こんな時間に来てしまったのだから仕方ない、と諦めました。ところが何と他の省のお客さんが来ている最中で、食事は彼らと一緒。総勢20数名で近くのレストランに支度が整っていました。何で場違いな席に座らなければならないのでしょう。誰もが気まずい思いをしなければならないのに。「この人は機器の専門員、日本人で名前は・・・ア・ジ・ノ・モ・ト」などと勝手に紹介しています。「まぁ気楽に食べて飲んで、自然にやってください。それがベトナム流です」などと言いながらウォッカを注いだり、茶碗に鶏肉を入れられたりされ、飲まない自由と食べない自由は剥奪されてしまいました。そもそも教育関係者などと話が合うはずもなく、こちらは無理をして言葉を聞き取ろうとする気すらありません。その上5分毎に立ち上がってウォッカで乾杯させられるので、下戸の身には拷問に等しい時間です。「日本でも優秀生徒を集めた試験というのはあるのかね」?などと聞かれても、「さーどうだったか、自分自身も娘・息子もそういうのとは無縁でしたから」と正直に答えれば良いものを、「日本でも昔はそういう試験があったようですが、今はありません」。「そもそも成績を競うという考え自体が教育の中にあってはならないものなのですよ」などと、最後までは言えませんでしたが。

医者もそうですが、教師もやはりどこか日本の教師と同じ匂いがあります。べらべら喋り続けて止まらない人もいれば、ほとんど他人に話しかけない人もいるわけで人それぞれではあるのですが。6・7名の女性教師も座っていました。北部の地方の省ということもあり、その服の色とアクセサリーには思わず見とれてしまうものがありました。サイゴンのカフェで働く17・8才の娘の目にはこれらの先生方のファッションセンスはどのように写るのでしょう。とにかく学校へ行く気が失せることだけは確かだと思います。いつもは「スイマセン、お酒飲めないんです」と断ってコーラを飲んでいたわけですが、この場は客先が客を接待しているわけでもあり、気後れして「飲めなくて何が悪い」と居直ることができませんでした。仕方なく口に含み、トイレに行って吐き出すと、口の中にアルコールランプのアルコールの匂いが残りました。それにしても、この先生方の真昼の宴会費用は何処から捻出されるものなのでしょう。このような風土、習慣の中にあっては、組織の長たるもの、宴会費用調達能力が先ずもって必要とされそうです。

「きょうはハノイに戻らずここに泊まっていけよ」などという恐怖のお誘いを断り、1時間半ほどで宴会は終わりました。新築された庁舎に戻り、建物を見上げると、なんで地方都市はこんな建築になってしまうのかとガッカリしました。5年ほど前に見た中北部のヴィンの街の建物同様に絶対住みたくないと感じさせる僻地のラブホテルみたいな印象を与えます。サイゴンやハノイの中心部で見る建物とは異文化、別世界です。建築費を減らして宴会費用に回したかどうかということとは関係ないのようですが。新庁舎でありながら、相変わらずテーブルの上には誇りが積もっていました。悲しいことにわが事務所と同じです。
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謄写版印刷

2007-02-05 21:14:14 | 仕事
小学校の卒業文集を作る時にガリ版を切った記憶があります。ロウ原紙をヤスリに乗せ、鉄筆で力を入れて字を書いた最後がいつだったかは思い出せません。パソコンのお陰でガリ版どころか紙に字を書くことも少なくなってしまってます。ところが、パソコンに触れないビアオム先生などは、いまだにガリ版書体を思い出させる字を書いています。ベトナムで肉筆の日本語の文字を見る機会は滅多にないので、どんな文字を書くのかが気になったりもするわけですが、彼の事務所で日本へ送付するダンボールに貼られた宛先の文字などは、思わず吹き出してしまうほどの角ばったアジビラ文字です。丁寧に書こうとするとどうしてもロウ原紙のマス目を埋めてた頃の癖が出てしまうようです。

鉄筆の替わりにロットリングを使って版下をつくり、原紙を焼き付けて印刷できるようになったのは、というかそういうものの恩恵を受けるようになったのは、70年代の中ごろだったと思います。その頃はポールペン原紙などいうものも売られていて、高校生だったリョウツ君が使っていたのを覚えています。何れにしろ印刷の原理は謄写版印刷でした。プリントごっこで年賀状を作っていたのもそう昔のこととも思えませんから、謄写版印刷が懐かしいというのも可笑しなことです。

先日、教育機関の入札資料の中に「ゲステットナー」の文字を見たときは、突然懐かしさが込み上げました。輪転機という名で呼んでいたというよりは、輪転機の代名詞の如く日本でも使われていたような気もします。ローラーを手で動かす謄写版よりも輪転機のほうがやたら手が汚れたように覚えてます。インクに汚れた手を洗うには専用クリーナーが必要なほどで、「サラダオイルで結構落ちるんだよ」と教えてくれたのはヨシツル君でした。日本でまだB4版の藁半紙というものが売られているかどうかは知りません。ここではB4を見ることはく、A4り縦け少し長いF4というサイズがありますが、文房具店に置かれてるのはすべてコピー用紙です。教科書の紙質はかなり劣りますから藁半紙のような紙が生産されてることは確かです。

ゼロックスはラニングコストが高過ぎだし、リコーのコピー機はショッチュウ故障するしで、経費削減を考えて印刷機を導入したい、との相談を受けたことがあります。そう言えば、リソグラフというのがあったと思い出しネットで調べると、つくづく謄写版印刷機も変わったものだと驚きました。ベトナムでは街のコピーサービスは一枚200ドン程度で日本のコンビニと比べると格安ですが、それでも印刷部数が多い学校などではかなりのコストダウンにもなるらしく、導入が増えているようです。コニカミノルタも同様の印刷機を販売してるようでしたが、海外販売のサイトはありませんでした。

折角ハノイに居るわけだし、土曜日は予定もないのでGestetnerの輸入代理店を訪ねることにしました。ベトナムでは1992年から輸入販売しているそうです。市場占有率は90%以上だとか。販売価格を聞くと、当局で盗み見た価格よりかなり高いことを言ってましたから、初対面の人間には手の内は見せないぞ、とのことらしく、北部の人のガードの固さは相変わらずです。手渡された英文カタログには各国の販売店の名が記されていました。バングラディシュ、ブルネイ、カンボジア、インドネシア、ミャンマー、ネパール、フィリピン、スリランカ、ベトナム。日本のメーカーならスズキか味の素しか進出しないような国ばかりです。

謄写版印刷は、ゲステットナーとリソグラフによって21世紀の東南アジアでも生き残るようです。おそらく大部分が学校等の教育機関なのでしょう。写真事業から撤退したコニカミノルタは、この市場へも進出しないのでしょうか?かつてホーチミンが中国でベトナム人を組織した機関紙「青年」も謄写版印刷だったようです。今のベトナムの小学校の先生方が生徒に配るプリントはどのように作られているのでしょうか?

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ローカルバス

2007-02-04 14:17:41 | 交通
昼前に仕事は片付いたので、「疲れてるなら空港で早めの便に変更して帰れば」?とNに言うと、「だって2時に送金書のコピーを受け取りにもう一度寄るって言っちゃいました。誰が行くんですか」?以前、知り合いの日本人が「家のお手伝いさんに聞いたんだけど、ベトナム人で奥さんを殴らない男はいないんだって」と言ってたことを思い出しました。こんな口の利き方をする女と毎日暮らしてたら、と思うと真実味を帯びた話のようにも感じられてきます。そんなものわざわざ取りに行かなくてもFAX送ってもらえば済むことです。「君がそう言ったのなら君が行ってこいよ。オレは先にハノイに戻るから」と言う根性はありませんでした。何しろ昨日は寝坊して醜態を晒した身ですから。

空港へ行くにはどこでバスを降りれば良いか分かってるの?と老婆心ながら尋ねると、「バクニンの近くで降りれば良いんです。そこから空港までは15kmです」。誰に聞いたのか知りませんが、言われたことをそのまま受け入れてしまう素直さには呆れてしまいます。国道3号線を通ってハノイに戻るバスなら空港から数キロの近さで、Nは来るときはその道を通ったのに。と言っても無駄なことでしかないので、「それじゃあ、なおさら早めに空港に戻るようにしたほうが良いね。かなり時間を食いそうだから」と調子を合わせました。バスターミナルまで行き、ハノイ行きの券を買うと一枚20Kドン。80kmほど走っても日本で2km走るバス料金と同じということです。物価が違うとは言え、40倍の格差は滅多にあるものではありません。その分安全性をも犠牲にしなければならないわけだし、車内の不愉快の数々を思うと無理な価格設定であるようです。

バスは国道3号線からも逸れ、ノイバイ工業団地の近くを通って空港の直ぐ近くに出ました。前の席に座るNに「空港が直ぐ近くに見えるぜ」と言うと、バクニンノ近くで降りる、と言ったことなどなかったかのように嬉しそうな表情でした。この日とその前日でわかったことは、この手のバスは運転手の気分と裁量で通過する道路を選択できるということ。特に若い女の子には親切に対応するけども、薄汚い中年外国人には素っ気無いということです。まぁ、それは自分が運転手でも同じには違いないでしょうから文句が言える筋合いでもないようです。

キャノンやパナソニックの工場のあるタンロン工業団地を通ってバスは市内に向かい、ハノイ国家大学を過ぎてミーディン・バスターミナルに着きました。ここまで来れば市内バスが何本も出ています。どの路線に乗れば良いかあれこれ考えながら、ザーラム行きと書かれた34番のバスに乗ってみました。途中でホアンキエム湖の近くを通るはずです。サイゴンの暮らしに慣れてしまってからハノイに来るとウンザリですが、北部の地方都市からハノイに戻った時は「ほっと」するものがあります。暖房付きのホテルは予算的に無理でも温水シャワーやADSLは使えるし、食べ物も懐具合次第で日本料理も可です。タクシーもあれば地図も売ってます。

前回泊まった旧市街のバックパカー向けまで足を引きずって歩きました。ここも一ヶ月の間に30Kドンも値上げされてました。テト前だからでしょうか。シャワーを浴び、それから必要なのはバス路線の記された地図です。チャンティエン通りの大きな書店で一枚買いました。50Kドン札を渡すと、領収証を記入しながら後ろを向いて他の店員と話をしていたレジの係りは、お喋りを中断することなく紙幣を受け取り、暫く待たせてから5Kドン札一枚を返してきました。「何で?渡したのは50Kドンだぜ」と講義すると、引き出しから20Kドン札を取り出し、「受け取ったのはこの20kドン」だと譲りません。少ないお釣りを渡すのは作為なのか、あるいは単なる勘違いなのかは考えても意味のないことです。「絶対に50Kドン渡した」と睨みつけると、再び引き出しをかき回してから渋々20Kドン札を2枚返して来ました。

間違えたなら一言ぐらい謝れよ、あの店も旧国営書店か?と不愉快を募らせて暫く歩いた後、計45Kドンもお釣りを貰っては10Kドン多過ぎることに気付きました。レジの金額が10Kドン少なかったらどういう処理をするのだろう、とは考えてみたものの、あの高慢な態度の店員のことです。10Kドン返しに行ったところで再び不愉快な思いにさせられるのがオチです。この10Kドンでホテルの近くのケーキ屋でミルフィーユを3つ買うことができるし、と愛想のいい可愛い店員の顔を思い浮かべました。
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三つ星ホテル

2007-02-04 11:38:47 | 仕事
夜中に足の指が攣りました。毛布に包まったまま指を引張ってみても直りません。暖房もなく、お湯も出ない一泊15万ドンのホテルです。通りに面した入り口は、星が三つ飾られたそこそこの外観なのに客室には幾つかのランクがあり、連れ込みホテル並みの格安部屋だったようです。部屋は勿論狭く、天井は物置部屋仕様のトタン製、柱もかなり傾いています。トイレ件シャワー室の入り口のドアは壊れたままで閉まらず、幅は45cmほどのしかありません。コンクリートの欠片が詰まって窓は閉まらず、カーテンが外されたままのカーテンレールは壊れてブラブラしています。

仕方なく起きて電気を付け、攣った指をちゃんと治すことにしました。時計を見るとまだ10時です。確か6月にバクザンのクソ暑いホテルに泊まった時も足の指が攣りました。安ホテルの祟りでしょうか。サイゴンならこの時間に外に出てもまだ立ち寄る店は幾らでもあるわけですが、北部の地方都市ではどうしようもありません。本を開いてラヴィック先生がフランスの官憲に逮捕されてしまう箇所を読み、たとえ足の指が攣ろうが、パスポートとVISAを持ち、帰る祖国もあるわが身のどこが不幸なのかと自分を納得させて再び電気を消しました。しかし眠りはやって来ず、代わりに得体の知れぬ怒りがこみ上げて来ます。

価格は大幅に値切られた上に法外なコミッションを要求され、代金を振り込んだという嘘をつかれて製品を送付させられて一ヶ月が過ぎ、いまだに送金書のコピーすら確認できません。しかも契約書類もこちらには渡されてないわけですから、トラブルが起きたら100%こちらが被らざるを得ない状況です。これほどまでに卑屈な条件を何故飲まされねばならないのでしょうか。おそらくNは、そういう立場に置かれているということすら考えずに商談を進めているに違いありません。文書で報告を書けない理由は、やはり対象化するという作業、自分が関わった事柄を客観視するということを拒否する体質があるからのようです。そうでなかったら派手な柄のセーターの上にスーツを着て、サンダルを履くという格好ができるはずがありません。前回ハノイで何冊もの地図を買ったのにそれを持って来ることもないのは、地図という対象化された情報が彼女には必要ないからなのでしょう。相手が何と言ったか、自分が何を言ったかがすべてで、その内容を客観的に評価判断しようとはしません。

しかし、今更そんなことで彼女を責めても言いがかりを付けるようなものです。明日、振込み書類のコピーと契約書を要求し、どちらも確認できなければ製品を引き取って帰るとNに告げるだけで十分です。不健康な疲れが眠りを妨げるので、再び寒さを我慢して身体を起こし本の続きを読み始めました。社会主義者という言葉が買収に屈しない清廉と同義で語られた時代、1939年のパリ。おそらく植民地ベトナムから連れて来られた人々も少なからず暮らしていたはずのパリです。

翌朝、9階の食堂で一人朝食を済ませてもNの姿がありません。電話を入れると、頭痛がひどいので一人で行ってくれとのこと。住所を言いかけたところで言葉を遮り、それなら兎に角打ち合わせだけも良いから食堂に上がって来てくれと告げました。しかし20分経っても姿を見せません。8時には先方に行かねばならないので諦めて部屋に戻る途中でNに会いました。しっかり出掛ける支度をしています。頭痛の話は無かったの如くで、「あれー、食堂に上がって来てって言ったのに」と驚いて声を掛けると、「違います。下で待ってるって言ったじゃない」と不貞腐れました。その細い首をへし折ってやろうか、と一瞬ムッとしたものの腹を立ててる場合ではありません。きょうの仕事をさっさと済まさねば、明日からの予定も目途が立ちません。ホンマ先生が小学生相手に語ったという「泣くな、喚くな、理解せよ」との言葉を思い出し、しかし理解するということはどれだけ長い時間を必要とするものだろうか、と思ってしまいました。
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寝坊

2007-02-03 18:14:29 | 仕事
時間切れで回答用紙の半分も埋められなかったテストの後のような気分で仕事を終え、事務所を出るときにNに念を押しました。「今晩は早く寝て、明日は6時前には空港に来てくれよ」。毎回必ず待ち合わせ時間に遅刻し、イライラさせられた挙句に「道が混んでいた」だのとの言い訳を再た聞かされたくはありません。まして明日は早朝便です。Nは驚くほど精一杯ニッコリ笑った後で、「早くなんか眠れない」。

Nは一泊でサイゴンに返すとしても、考えてみれば自分は翌日から北部に6泊しなければならないことになっていました。ということは、サイゴンに戻ってからは一泊だけで日本に帰ることになります。しかもその一日は深夜便の見送りで潰れるので、支度をする時間も取れそうにありません。生ごみを捨てたり、洗濯物を片付けたりの身の回りの整理もしなくてはならないし、最後に近所のコーヒーも飲んでおきたい、などと帰国モードに浸ってしまいました。それより先に明日の支度、とは思いつつも「ちょっとその前に」という気分が勝り、気がつけば12時。朝早く起きれば良いだけだ、と4時に目覚ましを2個セットしました。

携帯でアラームをセットしたわけではないのに、携帯電話が鳴りました。「何処にいるの?空港に着いたの」?とNの声です。「シマッタ」と時計を見ると既に6時。「今起きたんだよ。まだ家」と答えるとNは納得したのか、呆れたのか通話料をケチったのか素早く電話を切りました。窓の外はかなり明るくなっています。どう考えても今から間に合うはずはありません。Nに電話を入れ直し、一人で先に行ってくれと頼みました。どこかで緊張の糸が切れてしまってたのか、それとも肝心な最後の土壇場でとんでもないドジを踏むのは、わが人生の象徴と言えなくはない、などとと卑屈な気分になりました。

4時に起きようなどとしたことが敗因です。小学生の頃、家での学習時間の予定表を作れと言われ、一日3時間と決めた時と同じで初めから実現するわけない代物でした。冷蔵庫を開けてりんごを食べ、6泊分の着替えと仕事の道具にノートPC等を揃えると結構な重さになりました。次の便までは時間がある筈ですが何時なのかは知りません。髭を剃りながら昨夜はシャワーを浴びただろうかと考え、北部の寒いホテルでシャワーを浴びてまた風邪を引きたくはない、などと思っても仕方のないことなのですが、「あー行きたくねー」との気分が寝坊の原因でもあったようです。

家を出る頃は既に7時近くで、バイクタクシーも簡単につかまる時間でした。パシフィク航空のチェックインカウンターには職員もおらず、掲示版を見ると次は9時の出発。一度建物を出てパンとコーヒー、新聞を買いました。航空運賃を下げ分、機内では飲み物のサービスも廃止されました。いつもは値段の高さと接客態度に腹を立てるSASCOの売店も卑屈な気分に打ちひしがれているためか気にもなりません。

座席は5A、久しぶりに窓側です。隣の席には旅行ガイドブックを持った夫婦が聞き覚えのないフランス語で挨拶して座りました。咄嗟にXIN CHAOとのベトナム語が口から出てしまい、相手が高慢にもフランス語で来るなら何でこっちは日本語で対抗しなかったのかと悔やみました。それでも旧宗主国民族フランス人の傲慢さを感じたわけではなく、またベトナム人乗客のように騒々しく不愉快な気分にさせられることもありません。珍しく快適にハノイまでの2時間を過ごすことができました。

ハノイの空港に着き、Nに電話を入れると既にタイグエンに着いているとのことです。空港から17番のバスに乗り、タイグエン行きのバスが通る道で降ろしてもらえば良い、とだけNは言い、それ以上の情報は持ち合わせていないようでした。既に昼近くの時間帯のためか、07番のバスは何台も来るのに17番は30分経っても来ません。不安になって再びNに電話しても電源を切ってしまったようです。暫くしてやっと17番のバスが来たので一安心。タイグエンに行くには何処で降りれば良いか?と車掌に聞きました。教えてやるからちょっと待ってろ、と言い残し車掌は他の乗客かの運賃を集めに行きました。戻って来た車掌が紙は持ってるか?と聞くのでメモ用紙を手渡すと、わざわざ紙に書いてくれました。03番のバスに乗り換え、Ben Xe Giap Batまで行き、そこからタイグエン行きのバスが出ているとのことです。それじゃあ、ちょっと無駄が多すぎる、とは思いましたが、中途半端なことをして途方に暮れるよりは堅実です。

ところがやはり無駄が多すぎで、17番バスが走った道と同じ道をBen Xeからのバスは再び遡るだけのことでした。空港から2時間ほどで着く筈のところを3時間ほど回り道をして、タイグエンに着いたのは既に5時。バスを降りると行く先々、何処でもバイクタクシーの強引な客引きの洗礼が待ち構えています。特に北部の地方都市のそれは我慢がなりません。不機嫌が重なっているところに更に追い討ちを掛けられるようなものですから一気にすべてが爆発し、「乗らねーって言ってんだろ、この糞っ垂れ!」と怒鳴り散らし、相手は聞き取れぬ言葉に「チャイナ・チャイナ」と仲間に告げ、諦めるようでした。こんな下品な日本人が居るとは、彼らにも想像外だったに違いありません。
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明日は5時起き

2007-02-01 01:44:17 | 仕事
かつてホンマ先生が小学生相手にムキになって腹を立ててると聞き、冷ややかに笑っていたものでしたが、それから数十年後の自分は毎日ベトナム人スタッフ相手に同じような境遇に陥ってしまったようです。この事務所はまるで保育園。ちょっと目を離した隙に何をするか分かりません。パソコンや携帯電話という遊び道具もあることですし、トイレに隠れてニキビ状況の確認やら机に向かって枝毛のお手入れに費やす時間も半端ではありません。

とにかく今日一日を乗り切って明日は6時半の便でハノイに行かねばならないというのに、何と朝から停電。ファックスとPCが使えないのでどうにも仕事になりません。プログラムの動作確認どころか、持参するプログラムをCDに焼くことも不可。頼りは唯一電話だけです。ところが、携帯電話を盗まれてSIMカードを新しくしたので、電話帳の記録はすべて消滅。散乱した机の引き出しから名刺を探そうとしても何故か必要なものだけ見当たらないのは、やはり日ごろの心がけのせい。

一体全体何と闘っているのでしょうか。一ヶ月前に振り込んだという北部の地方役人の嘘となのか、あるいはその嘘に騙され続けても他人のことだと平然としていられるスタッフの体質なのか、あるいは自分自身の無能に対してなのでしょうか。日本からのお客さんんは、6日にハノイに着き、7日ダナン、8日はホーチミンに戻って夜便で帰国。それぞれの訪問先への連絡を済ませた後、午後一番でハノイのホテルに予約を入れるよう頼んで出掛けました。先方はきょうまでしか日本に居ないからホテル名だけでもメールを入れてくれ、とのことです。そのぐらいのことは新人のQにでもできるだろう、と言い残したのに枝毛の手入れで忙しいQは拒否したようで、外から電話を入れるとNが答えました。「料金は前回より5万ドン高くなりますが予約しました。6,7,8の3日間です」。7日は午後ハノイを離れ、8日の晩は日本に向かうことはチケットの手配もしてるので十分承知のはず。それなのに何でハノイに3泊の予約を入れてしまうのか不思議でたまりません。

一日しか泊まらないなら予約を受け付けて貰えないと心配したのか、あるいは「えーたった一日だけですか?」と言われる屈辱を回避するためだったか、うっかり間違えたのか、その真実はわかりません。それでも「一日にしたかったら一日に変えても良いですよ」とか「だって、3日間て言ったじゃないですか」などと言い返されないだけ幸せと思うべきです。Qであれば、間違いなくそのどちらかの言葉が返って来るはずです。物忘れの激しいベトナム人に対してはこれが結構通用してしまったりするからでしょうか。

5時と共に帰宅を急ぐQの後姿に「挨拶ぐらいして帰れよ」と声をかけると、「まだ帰ろうとしたわけではありません。鍵を探してるところです」と、これまた予想外の言葉が返って来ました。朝も帰りも一度として自分から挨拶したことがないにもかかわらず。
こんなところで神経をすり減らしてる自分は、「闘い」などと呼べる生き方ではないな、などと昨夜読んだレマルクの「凱旋門」を思い出してしまいました。富と権力に繋がる醜悪な人々と貧しく虐げられた普通の人々という構図が大枠で成立している世界です。手塚治のブラックジャックは、このラロック先生がモデルなのだろうか、とふと思い、あるいはこの小説が無意識にでもヒントになっているに違いないと思えるものがあります。

とは言え、この山西英一翻訳のこの本、少々読むのに疲れる日本語です。それだけに寝る前に読むのには好都合です。ハノイに持って行っても、ホテルでNHKBS放送を見るよりは十分楽しめそうです。 
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