GOVAP便り

プノンペンからモンドルキリに、その前はTAY NINH省--AN GING省--HCM市GO VAP

チョーライ病院

2006-11-25 20:09:13 | 生活
チョーライ病院の名は日本語で覚えてしまったため、バイクで向かうときに道に迷って人に訊いても発音が通じませんでした。Benh Vien Cho RaiのBとVの発音も正確ではなかったようです。
16日の晩、Gia Dinh病院からの移動は救急車で、まるで映画のカーチェイスさながらの運転には驚かされました。運転席と助手席に二人の病院スタッフが座り、H君と僕が後部のDさんの寝台の傍に乗り込みました。途中の振動で点滴の管がビンから抜けました。気が動転して何の管がどう抜けたのかも分からず慌てて運転席との仕切りの窓を叩きました。運転席の二人は冷たいほどの冷静さで答え、それでも運転に手加減を加える様子はなくサイレンを鳴らしながら小刻みに車線を左右に変えながらチョーライ病院に到着しました。

車から寝台を降ろし、チョーライ病院の寝台に移し変える作業も僕たち付添い人二人の仕事でした。夜11時を過ぎても救急病棟の一階は野戦病院のような混雑。病気で倒れることよりも、ここでこうしてモノとして扱われることの方が耐え難いと思いました。人間の尊厳などというのは所詮幻想に過ぎないものであるかのようにすら感じられます。胃の中の夕食とビールがすべて排出された寝台は汚物にまみれ、病院のスタッフが僕たちにその服を脱がせるように命じました。ズボンはすっかり濡れていて体重も重く二人がかりでも手間取りました。

ここでもまた治療費、入院費の前払いを要求されました。400万ドン近くの金額です。救急受付の医師の説明の後、二階のICU措置室に移され、再び別の医師の説明の後、25番地で待つように言われました。25番地は病院敷地内の家族の待合室でした。地方から来た患者家族の宿泊施設です。ここで夜を明かして待たねばならないのかと思うと少し憂鬱で、兎に角一度家に帰り、Dさんの家族に連絡を入れるほうが先だと、病院を出ました。

ベトナム社会の不親切なシステムには慣れているつもりでも特に病院の対応のわかり難さには困ります。言葉が通じる通じない以前の問題で、二年前に眼科病院へ行ったときも診察を受けに来た見知らぬベトナム人にどこに行けば良いのかと訊かれたほどです。

「取敢えず何か飲むか食べるかしよう」とH君と話し、病院の道路向かいにテーブルを出している店に腰を下ろしました。H君が箸をつける間もなく携帯が鳴り、直ぐ来いとの医師からの電話でした。わけも分からず走って病棟を駆け上りました。二階ですがGRAND FLOORがあるので日本的には三階です。
ICUの処置室から脳外科のICU室に移され、そこで入院することになると告げられました。

午前2時前後になっていたにも関わらず人影は多くサイゴンの不夜城という趣でした。タクシーを拾い、Gia Dinh病院でH君を下ろし、GO VAPに戻りました。勿論10万ドンを超えるタクシー代の手持ちがあるはずもなく、運転手を待たせて家に取りに戻りました。

お葬式

2006-11-25 03:27:56 | 生活
16日の夜から23日までの一週間が慌しく過ぎ去りました。
その間に財布を二度も落としてしまいましたから、集中力とか精神のバランスとかも危険水域近くに達していたのかも知れません。6年ほど前、携帯電話を2台立て続けになくしたのも日本からの来客を迎えた時でしたから、日本モードと現地モードが入り混じった時に神経回路が誤動作するのかも知れません。

APEC会議の直後であることと日本の週末近くの祭日が重なり、サイゴンのホテルは満室でした。22日に予定された葬儀は日本からの来客者を待つために23日に延期され、しかしサイゴンツーリスト系のホテルは23日朝にチェックアウトしなければならず、この朝、ホテルを移動してから葬儀に参列することにしました。前日にホテルやレンタカーの手配と葬儀日程等を決め、8時チェックアウト、8時半出発、9時病院霊安室着の予定でしたが、23日の朝、目を覚ますと既に8時3分前。昨年の暮れに朝5時発の出張時には睡眠時間2・3時間でも身体がちゃんと反応していたのに、今回は肝心なところで自分がポカミスをやらかしてしまいました。

朝の交通渋滞を考えれば、8時半の出発時間にも間に合いそうもありません。9時霊安室集合は、領事館と出入国管理事務所の決定時間のため少々冷や汗が出ました。バイクを途中で止めて電話を入れる時間も惜む思いですが、交通警官に見つかってしまったら更に再び30分の時間ロスです。H君がこの日はブンタオに出張のためNに手伝いを依頼してありましたから、Nに電話を入れ、レタントン通りのホテルに着くレンタカーを待って、直ぐリートゥーチョン通りのホテルに回すよう頼みました。

どうにか車は病院の霊安室に5分ほどの遅刻で済みました。既に寝台に乗せられて横たわるDさんの姿がありました。領事に言われて一昨日届けた服が着せられ、口紅が塗られてました。首には検死のための傷もそれとわかるほどです。お坊さんがお経を唱えた後、頑丈で立派な棺に移されました。霊柩車は街で見かけるような派手なものではなく、普通のバンを改造したものでした。

市郊外、Binh Chanhにある火葬場までは40分ほどで着きました。想像したよりも都市化の進んだ住宅密集地でした。再びお坊さんがお経を上げるましたが、坊さんの履いている樹脂製サンダルが目に止まり、何故か結婚式場の神父のような安っぽさを感じてしまいました。現実を超越した威厳とかを期待したいのに、そんなものを期待するのは日本であったとしてもそもそも初めから無理な話なのでしょうか。

11月も下旬だというのに日差しは痛いほど強く、寝坊したために水分も取らずに煙草を吸い続けて喉がカラカラでした。遺骨の引き取りは2時とのことなので一度市内に戻ることになりました。16日までの予定では、昨日と一昨日はホイアンのビーチリゾートでのんびり過ごすはずでした。Dさんが倒れた後でもそれが可能であるかのように思っていました。19日にICUに見舞った時も看護婦さんは「血圧は安定してます」と答え、3日続いた容態は暫らく変化しないだろうと思っていました。

脳出血

2006-11-19 04:39:17 | 生活
先月の帰国の際、寝起きに足がふらついたり、駅の階段を下りる時にふわっとバランスが崩れたりが何度かあり、ひょっとすると脳血管に異常があるのではないかと心配にもなって病院で検査を受けるべきでは、と自分でも思いました。が、そうと指摘された時には既にその時間もなく、こちらに戻ってからはそんなことも忘れていたところです。それに脳血管障害は、身近なところでも、カワギシさんやミズタさん、ワカヤマ君と皆、僕より遥かに優秀な頭脳の持ちという共通点を持つため、自分がその仲間入りをするということはないだろうという気がしていたわけです。鋭利な刃物が折れやすいように、鋭利な頭脳も壊れやすいのだろうか、というところです。

ところが、それはわが身にではなく、突然Dさんの脳血管に起こりました。木曜日の夕方Dさんが先に一人で食事に出掛け、後から家を出た僕が食事とカフェから戻ったのは8時過ぎでした。散らかった床を箒で掃いていると先に戻っていたDさんが二階から降りてきて言葉を交わしました。かなり酔っていたようで、話がかみ合わないので僕は掃除を続け、Dさんは二階に引き返そうとした時だと思います。
Dさんの足元がもつれ、家の中に止めてあったバイクにもたれ掛りました。てっきり酔っ払って足にきたのだと思いました。足を擦っているので、「どこが痛いの」?と僕は酔っ払いにウンザリという口調で冷たく声を掛けましたが返事をしません。事の深刻さに気付くまでに数分間あったかも知れません。喋る意思がないのではなく喋れないのです。慌てて身体をバイクから引き離し、身体を床に横たえ、直ぐに救急車を呼ぶから動かずにじっとしているように声を掛けました。

115番に電話すると「何を言ってるのか分からないからベトナム人に電話させろ」と冷たくあしらわれてしまい、H君に電話しました。
救急車を呼ぶよりタクシーで運んだ方が早い、とのことでH君も駆けつけてくれました。近所の人も手伝ってくれて四人掛かりでDさんをタクシーに乗せてH君もそのまま一緒に直ぐタクシーを走らせました。僕は家の鍵を閉め、H君のバイクで後を追いました。ここから一番近い外国人用の病院はコロンビア・アジア病院です。左手をさかんに動かしていたので、カワギシさんの時と同じように右手と言語の麻痺が残るのかも知れない、Dさんには日本人看護婦が常駐する病院でないと・・・などと思ってました。

コロンビア・アジア病院に着くと、同一敷地内にあるザーディン病院の救急受けに行けと言われました。Dさんの左手はH君の手を握っていました。病院との対応はすべてH君がやってくれました。救急病棟ですが、アメリカのTVドラマのそれとは雰囲気は大違い、日本の病院とも別世界の感じでした。CTスキャンを撮るのにも、まず費用の支払いが先です。会計で支払いを済ませ、その領収証と書類を貰って別の窓口に提出しないと治療・検査が受けられないシステムです。病院の支払いを考えず来てしまった自分の間抜けさが情けない。ここはベトナムなんだよ、何年生活してるの?とH君に嫌味を言われてしまいそうです。立場が逆だったら僕はそう口にしたに違いありません。支払いはH君に立て替えてもらうことになりました。

「処置室には一人しか付き添えないけど、どうする」?とH君に聞かれ、医師とのコミュニケーションが大切なわけだからH君に残ってもらうことにし、僕は外で待つことにしました。救急の受付があり、救急車はひっきりなしに患者を運んでいます。しかし何処か救急病院というイメージと重なりません。サイゴンやハノイ駅の待合室の混雑の方が似たような雰囲気です。処置室では寝台が所狭しと並び、多くは無表情で横たわり、腰に注射を打たれた男性が痛さに耐えかね大声で叫ぶ声が響き渡っていました。その中できびきびと働く若い医師や看護婦には頭の下がる思いがします。

台風チェビ

2006-11-14 23:34:44 | 天気
韓国が名付け親の台風Chebi(燕)は、西に向かっていた進路を西北方向に変え、フエ、ダナンは先月に続く再びの脅威からは免れたようですが、代ってトンキン湾を直撃する模様だとか。ハノイで開催される18、19日のAPEC首脳会議を粉砕せんとするどこぞの将軍様の念力が働いてのことでしょうか。台風はミサイルと違って速度に難点があり、多少早めに到達してしまいそうですが、それでも15、16日の外相会議を捉えることになりそうです。尊王攘夷の志士達も期待し、あるいはつい61年前までは「神風」なる言葉を口にしていた国民の一員である証で、ついそのような妄想が頭を過ぎります。千名を引き連れてハノイに乗り込むブッシュを初め、安倍首相も経済団体から100名の参加を要請したそうですから、恐らくハノイは厳戒態勢で、脛に傷持つビアオム先生などはこの期間中のハノイ出張は諦めねばならないようです。

相次ぐ日本の中高生の自殺のニュースに憂鬱さを後押しされ、このところ寝覚めの悪い日が続いてます。朝一番にネットに繋ぎ、日本の新聞社サイトを開く気にもなれません。久しぶりに北条民夫の「いのちの初夜」を読んでみました。学芸書林「存在の探求」(上)に収められたものです。
もしやこの本は18才の時、イチハシさんから借りたものでは?と思って家の本棚から取り出し、何故かそのままべトナムに持ち帰って来てしまいました。たぶん入院中の僕にその本を差し入れしてくれた時、「いのちの初夜」が好きだ、とか言ってたのかも知れません。太宰治の短編集を持ってきたスドウ君が、「トカトントン」がお薦めだと言ったようにです。
今回改めて読んでみて「本当にオレは小説読んだのか」?とまったく内容を覚えていませんでした。スドウ君が「こういう小説を好きだと言われてもナー言いようがないよ」とイチハシさんへの感想を漏らし、「そうだよなー」などと相槌を打っていた記憶は残るのですが。たぶん当時は「いのち」の意味をそのようには感じることができなかったのだろうと思います。


ロシア革命記念日

2006-11-12 12:55:28 | 新聞・書籍
毎年11月7日のベトナムの新聞にはロシア革命に関する論説なりコラムが載っていて、他の記事や現実とは別世界のことのように感じながらも「ああ、そうだったのだ」と気付かせてくれるわけですが、今年はトゥイ・チェ紙しか買わなかったせいか、関連記事も目立つものでなく、ロシア革命89周年の記念日の7日の新聞一面を華々しく飾ったヘッドラインは「ベトナムのWTO正式加盟」でした。加盟申請は1995年。11年を要してのことですから、わざわざこの日を選んだのも偶然というよりは誰かさんの強烈な皮肉が込められてのことなのでしょう。

前回「乾期入り」などと書いてしまったら、きのうの夕方雨が降りました。韓国名を持つ台風も一つ、西に直進すればベトナム中部を直撃する位置にあるようです。東京で木枯らしが吹き、越生では初霜が降りたそうですが、サイゴンの気候も確実に乾期に入りつつあることは確かです。年によっては11月上旬で雨期が終わったり、あるいは月末まで雨が降ることもありますが、関東地方の11月が晩秋という名の冬への導入部であるのと同じでサイゴンでは乾期に転換する月です。

晴れた日曜日のきょうは、さすがに昼前後の日差しが強く洗濯日和でした。衣替えをする必要はないわけですが、それ故タンスの臆に積み重ねたままになっていた黄ばんだTシャツなどを引っ張り出して洗濯してみました。洗濯機を買ってからまだ1年ほどしか経たず、それまでは手洗いでしが、もう再び手洗いの重労働の世界に戻ることはできそうもありません。初めの頃は隣家などの洗濯物から滴が落ちるのを見てなぜ絞らないのかと不思議でしたが、今では、日差しの強いここではベトナム式合理主義なのだという気がします。年に数回しかクリーニングに出さない日本の中高生の制服と違って、ここでは一日に何度も着替えをしなければ堪らない汗と埃にまみれているわけですから。

洗濯はしたものの、掃除となると億劫です。毎日テーブルの上を拭いても埃は積もるほどですから、せめて週一度は力を入れて、と思いつつ汗をかきたくないし、また自給1万ドンで誰かに頼もう、などとご都合主義の思いに囚われてしまいました。自分の汚した部屋を自分で掃除しない、これこそが人間として許すべからざる堕落の一歩だ、と他人に向かっては言い放ちたくなるのですが。

乾期入り

2006-11-10 12:57:54 | 生活
乾期の始まりは、湿気が減っても雨が降らない分だけ気温も下がらず、夜の10時を過ぎても室内の温度計では29度あります。それでも水シャワーを浴び、扇風機を回せば苦になる暑さではありません。この時期の日本の気候と比べてメリットを感じるのは洗濯物の乾きぐらいなもので、一度日本の秋の空気に触れてしまった身体には、やはり昼間の暑さは堪えます。
きょうの昼などは脳の血液温度が上昇したかのような感覚でした。この二・三日、夜遅くまで高村薫の「マークスの山」を読み耽っていたせいでもあります。「照柿」を読んだのは5・6年前で、「日焼け止めクリームを塗る刑事さん」と工場の描写に少々驚いたことだけが記憶に残っています。その時自分が何をしながら何を考えて読んでいたのかは思い出せません。今回も夢中になって読むことはできたのだけど、最後の方の展開はちょっとガッカリ。それに多分にこの地での現実の生活から逃避する時間を欲して読んでいたので、読み終えてしまったことが寂しく感じるのかも。

きょうはもう金曜日。仕事は何もかもが中途半端のままです。頭の中が整理されていないからなのでしょう。この暑さの中で集中力を持続させられるわけがない、などと居直ってしまえば気も楽になれそうですが、そうすることもできず、また以前のように怒鳴り散らす闘争心も薄らいで来てしまいました。サイゴンの暑さの中でも身体のどこかに日本の秋の風が吹いています。日本で過ごした興奮状態の反動なのかも知れません。

ここは乾期の空気ですが、昨日の新聞によれば中部のフエ、ダナンでは雨で道路が冠水したようです。中部の台風シーズンはまだ終わってないということでしょうか。20日にはホイアンに行く予定なので気になります。18、19日はハノイでAPECの会議が開催され、アメリカからだけでも千名が訪れるとか。ハノイのホテルはAPEC景気に沸きそうで、今からではホテルの確保も難しそうですが、中部は問題なさそうです。ホイアンの田園風景と海を眺めてのんびりして来る予定です。

深夜の困惑

2006-11-05 05:23:47 | 生活
日本の秋の空気が心地よかった分だけ、サイゴンの気温に慣れるのには時間が掛かりそうです。乾期の始まりで湿度も60%ほどまで下がり、二週間前から比べれば過ごしやすいはずです。ところが、何もしないでも体力が消耗していくような気だるさで、細胞の活動量が半減したかのようです。夜風に当ろうかと深夜1時になってバイクを走らせてみました。15分ほどして家に戻ると鍵を外しても門扉が歪んでしまっていて開きません。観音開きの片側は何とか開きましたが、もう片方はコンクリートの地面に挿したストッパーの棒が曲がってしまっていてどうにもなりませんでした。

今しがた慌しく立ち去る二人乗りのバイクとすれ違ったところです。後部座席の男は中途半端な格好でバイクに跨ってました。どうやら彼ら二人はこの家に侵入を企てて門扉を力任せに押していたということのようです。家の電気は点けたままですから、外出を見られてのこととも思えず少々不思議な気もしますが、緻密な計画性があればこの家に入ることもないでしょうから、手当たり次第に試みたということなんだろうと思います。最近は向かいの工場の壁の前に注射針が捨てられていることも少なくなりましたが、気を抜くことはできないようです。

未遂に終わったとは言え、門扉が半分しか開かないのでバイクを入れることができません。無理やり押し込もうとするとステップが引っかかってしまいました。7年前も走ったバイクですが、当時は新車で2000ドルもした唯一の個人資産です。放置するわけにはいきません。
前輪の泥除けやステップのゴムを外すとどうにか通り抜け、ほっとしました。
お陰で今朝は自転車通勤でした。これからは乾期だし、自転車で通っても事務所までの時間は大して変りません。しかし腿の筋肉が衰えていて慣れるまでには時間がかかりそうです。

ベトナムに戻る前日ハラダ君に会い、PCのセキュリティシステムの話を聞きましたが、こちらで身につまされるのは生活のセキュキティです。鍵の束を持ち歩き、留守番を置くということ以上に効果的なシステムがあるとは思えませんが。

サイゴン着

2006-11-02 02:26:09 | 交通
日本に12泊して昨夜サイゴンに戻りました。予定外の急な帰国のため12日間の日数は暇を持て余すかとも思っていたのに、毎度毎度日本を経つ直前になってあたふたしてしまいました。パスポートを更新したのでVISAも取り直しとなり、空港渡しのビジネスVISAを手配していたにも関わらず、引き換えに必要な公電書類を印刷し忘れたまま、途中の駅で気付きました。空港に行く前に一軒寄り道をするために早めに家を出ていたので運良くどうにか助かりましたが、危ないところでした。日常の仕事同様、必要事項を紙に書き出さねばならいということのようです。

今回は出発前日にスーツケースを空港に送ったので駅の階段の登り降りは楽でした。2、3日後に筋肉痛になることもなさそうです。前回は成田でスーツケースの中のライターを没収されたのに、今回は何故かチェックイン前の荷物検査がありませんでした。その代わりに客室に持ち込む手荷物やポケットの中は丹念に調べられました。全日空便はノースウェストとのシェア便のためかベトナム人乗客の姿が増えました。新作映画でも見ながらのんび6時間を過ごせるかとの期待は残念ながら座席に液晶モニターもない古い機種のため叶わず、しかも隣と周辺はベトナム人乗客ばかりの座席です。ベトナム国内の列車や国内線航空機でも人間同士の距離感覚が少々異なるためか、余程の美人でない限りベトナム人の隣に座るのは苦手です。日本の電車の中でも不当に座席面積を占領する日本人も居るわけですが、比率としてはさほどとは感じません。ところがここでは多数派が侵略民族という気がしてなりません。この日も何度となく国境を侵犯して体に触れられ、その都度眠りを妨げられてしまいました。

その上、台風の影響だとかでシートベルト着用の表示が頻発し、その度に眠りながら聞いていたイヤホーンの音楽も中断。平原綾香という歌手の番組が流れてました。サンディ・ラムやベトナムのMy Linhとの競演の歌が流れたのには驚きました。平山綾香という名だけを知りませんでした。隣に座るベトナム人のオバサンに腹を立てながら、イヤフォンからは「アジアは一つ」などというスローガンが聞こえてきます。商業音楽の世界では確かにアジアは一つになりつつあるのかも知れません。

予定時間の11時を15分ほど過ぎてタンソンニャット空港に到着しました。入国審査カウンターの右手にVISA発給のデスクがあり、申請書に記入し、公電のコピーと写真一枚を添えて提出すると手早くVISAが受け取れました。わざわざ日本で大使館に足を運ぶことを思えばとても便利なシステムです。街に近いこの空港では出迎え人が居ない乗客のほうが少ないようです。出迎えられたいと思ったことはありませんでしたが、人の顔を捜す必要もなくタクシーの客引きの洗礼を受けるというのも楽しいものではありませでした。