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GOVAP便り

プノンペンからモンドルキリに、その前はTAY NINH省--AN GING省--HCM市GO VAP

メコンとアマゾン

2008-06-30 00:26:44 | 仕事
400トン以上の生簀養殖魚突然死。

28日朝9時、カントー市トットノット町とトットノット県チュンキェン村で22世帯41生簀の養殖魚(ca chim trang,ca dieu hong)400トン以上が大量死しているのが発見され、損害額は約60憶ドン-とThanh Nien紙電子版で伝えられました。

メコン河やその支流に筏の生簀を浮かべての養殖のため当然ながら川に住む自然魚もその影響が及ぶわけですが、既に自然魚の死の方が先行していたようで、地元人々は工場廃液による汚染が原因と疑っているとのことです。

この「nuôi cá bè」と呼ばれる筏生簀による養殖は平均1haもある輸出用のTra魚などの池での養殖とくらべて規模が小さく、主に国内出荷用の魚です。cá điêu hồngは昼食に利用している定食店にも定番メニューにあり、200g弱の煮付け魚定食が1万7千ドン(約100円)。

先週訪れたアンザン省の水産協会の人の話では、今はこの魚も輸出されているそうです。四川省の地震被害によって中国の水産輸出が減った影響なのだとか。

一方、cá Tra,cá Basaの輸出用冷凍品を近所のスーパーでも多く見かけるようになりました。ハノイのロッテリアでフィッシュ・バーガーを注文し、聞いてみると魚はcá Basaを使っているとのこと。日本でフィッシュ・バーガーを食べた記憶はありませんが、多分同じようなものだと思います。

最近メコンデルタの魚養殖に幾分関わるようになったお陰で多少世界も広がったかのように感じているところでしたが、ネットでブラジルで養殖コンサルタントをしている日本人の記事を読み、広がったと思っていたことが如何に狭い世界であったのかを思い知らされました。

アマゾンに生息する世界でも最大級の古代魚、肉食魚「ピラクル」の養殖を試みているそうです。1億年以上も姿を変えずに生きている魚というだけでも驚愕してしまいますが、1年で10kgにも成長し、現地の人々は50kg以上にならないと食べない(それより小さいと美味しくない)とのことで、約1kgで出荷するメコンデルタの養殖魚とはスケールが違うようです。

http://www.100nen.com.br/ja/qq/000016/20030411000074.cfm


首都ハノイ拡張

2008-06-27 03:16:24 | 仕事
一泊でハノイに行って来ました。前回は1月で寒さに異が痛み、今回は予想通りの35度を超える蒸し暑さ。それでもハノイ市内だったので、バクザンやフートーへ行くことを思えば随分と気楽なものでした。

目的地はTran Duy Hung通りで、今まで立ち寄ったことのない場所。狭いハノイ市街故、地図を見れば大体の見当は付きました。高層ビルが建ち始めた開発地区で道路は国際競技場へ向かう50番のバスが走っていました。

道路を挟んだ向かい側には大きなホテルが建設中で、何処が一体「金融危機」なのだ?と思ってしまいましたが、泊まったのはADSLもエレベーターもないミニホテル。しかも朝食も付かずに一泊30ドルの6階(実質7階)の部屋。文句も言わずにこんなホテルに泊まってしまうとは今までの自分とは明らかに違うわけで、こんな風に振舞うのも仕事の中だから、と納得したつもりでもストレスが溜まるだけの様子。

5月末の国会で「ハノイ拡張決議」が採択されたニュースを思い出し、同行したベトナム人に「ハタイ省は何時消滅するんだっけ」?と何気なく聞いてみると、発音が悪かったのか怪訝な顔で暫く沈黙が続き、「あぁ、それは統合されるのだから消滅ではない」との答え。吸収合併されて名前が消えればそれは「消滅」と呼べるだろうと思ったわけで、「64省・都市が63に減るんだから減った1は数学的には消滅だぜ」と、無駄な一言を付け加えてしまいました。

一省当たりの人口は100万から200万人でここ10年の間に5省ほど増えています。ハノイ市は350万で人口だけみれば十分大きな都市と思えるわけで、何故広域化が必要なのかは穿った見解しか耳にしません。「日本の何処に住んでますか」?と聞かれて毎度「埼玉県」と答えるのは億劫で「東京」と言えば話は早く済むに違いないわけで、ハタイ省省民はこれからハノイ市民と名乗れる便利さを享受することになるわけですが。

昼食を近くのロッテリアで済まそうとドアを開けると日本語で呼び止められました。何故か行く先々で数少ない知り合いの日本人やベトナム人に会うことが多いのには驚きます。偶々出張でハノイに来たのだとか。そう言えば数年前に空港でも偶然会ったことがあり、それ以来です。

「いゃー大変ですよ」というのが日本人同士の再会の挨拶のようでもあり、また今は、実際に大変なんだろうと思わざるを得ません。が、ベトナム人同士がこういう風に再会した時はどうなんだろうか、と推測するに見栄の張り合い見え透いたお世辞の言い合いの方が圧倒的に高い比率のように感じてしまいます。虚飾を必要とする社会なのだろうか、とは度々感じることで、広域首都ハノイというのも虚栄心を満たすものであるのかも知れません。

南十字星

2008-05-24 21:42:04 | 仕事
今週も二泊三日でメコンデルタへ。主要な目的は売掛金の回収です。売掛金残高比率がどの程度まで高まっているのかは知りませんが、資金繰りが厳しいことだけは確かな様子。

一日目はロンアン、ミトー、ビンロンに立ち寄りチャビンに一泊。ビンロンからチャビンを通りDuyen Haiに向かう国道53号線の道幅は狭く、水田と椰子の木が茂る風景はメコンデルタの他の国道と同じですすが、トラックなどの交通量は随分と少なくなります。

日が沈み掛けた水田風景には美しいものがあります。気温が下がり、ほっとするだけでも心が落ち着くみたいです。早朝と夕暮れの水田を眺めた時だけは、「ここで暫く暮らしてみようか」という気にさせられます。

道路はビンロン省Vung Liem県を抜けるとチャビン省Cang Long県に入ります。Vung Liem県は世帯数4万弱。内3万が農民世帯。家屋の25%が粗末な木と椰子の葉を使って建てられたものでバイク保有世帯は41%。冷蔵庫保有世帯は8%。水道水か井戸の使える世帯28%。薪を燃料とする世帯85%、と先週買ったビンロン省の統計にありました。

夕食後に出向いた未回収の売掛金は1年以上も前のもので80百万ドンほど。債務者は300万ドンの債権書類を持ち出してきて、これが焦げ付いてるからどうにもならないとの返事。それから延々とお互いの苦境が語られ、僕は席を外して煙草を吸いに外に出ました。

街から離れているため夜空に星が見えました。しかも目の前にあるのは南十字星。前回この星を見たのはニャチャンに向かう夜行列車の窓からですから15年振りのことです。その時と比べるともう少し高い位置に見えます。ここは緯度が低くなるので当然、とは思いつつも念のために周りの星もスケッチしました。






職場の飲み会

2008-03-23 03:38:12 | 仕事
咳のせいか脇腹の肋骨下が痛み出し、木曜の夜は眠るのにも一苦労でした。朝になるとその痛みは消えてましたが、とにかく金曜日一日は仕事をしたかったので薬を飲んで出掛けました。薬の効果はかなりのもので、咳や鼻水も軽減され煙草もスパスパ。午前中は自分の事務所の後始末、午後からは手伝いをしてる会社へ。帰り際に「きょうは皆で貝を食べに行くので付き合わないか」との誘いに乗って見覚えのあるビンヤー通りの店に入りました。

日本での会社勤めでも年柄年中歓迎会だの打ち上げだのと飲み会の類は少なくなかったような気がしますが、ベトナムの風土ではもっと頻度が高いように感じます。ワイワイ楽しく騒いで過ごすことが好き、ということもありますが、ともすればささくれ立ってしまう職場の人間関係を気遣ってのことであることに間違いありません。

ビエンホアの工場で総務の仕事をしてた時も毎週土曜日に飲み会を持っていたことがありました。人数や仕事の都合もあるので職種別にガードマン、食堂、清掃、電気保守は二度に分け、それに事務所を加えると毎週でも一巡するのに2ヶ月。今振り返れば、そのお陰で仕事はだいぶし易くなったように思えます。日本にいる頃は酔っ払ってクダを巻いたり、「俺の注ぐ酒が飲めないのか」などとほざく輩もいて只々アホ臭いだけで、そんなものが必要だと思ったことなど一度もありませんでしたが。

その点ではベトナム人の飲み会の方が遥かに明るく友好的。陰湿さがありません。しかも職場の飲み会とて欠席するのも自由で無理強いされることはありません。日本人は絶対駄目、と上司に言われれば渋々従わざるを得ないものがあるようで、それに比べベトナム人は何があろうとも自己主張を貫くということをベトナム人自身が知っているから、という気もします。

体調のせいもあってか貝はあまり美味しいとは感じませんでしたが楽しく過ごし、「じゃこれからカラオケに行くから」と言われて一瞬躊躇。日本語のカラオケもあるからと言われてその気になりました。NICEというチェーン店で店内も清潔で広く申し分ない店ですが、何故か歌はベトナム語と英語のみ。総勢10人ですから2時間で自分が何曲歌えるか-120分÷4分÷10=3曲との計算は成立せず、たったの一曲。皆で一曲ずつ順番に、などという思想とは無縁。今更ながらですが「順番」という概念が特にカラオケには適用されないようです。しかし、このたった一曲も咳き込んでしまって歌える体調ではありませんでした。


春夏秋冬

2008-03-01 23:31:58 | 仕事
20年ほど前、亜鉛ダイカスト工場で働いていた時に津山にあるメーカーの工場に一ヶ月ほど「品質研修」名目で出張させられたことがありました。自社製品の受入検査をさせられ、「混入」とか「品番違い」等々ずいぶんと情けない思いをさせられましたが、地方の工場での定時出勤、定時退社。土日は休みだし工場の方々にもあれこれ気を遣ってもらい、今振り返れば気楽に過ごせたひと時だったように思えます。

地元の人ばかりが働く工場のせいか、どことなく「転校生」の物珍しさ的な興味も持たれたようで、多少は若い女の子にもちやほやされ、悪い気はしませんでした。仕事をすれば誰もが車を買うような時代でソニーのウォークマンの全盛期だったかも知れません。「どんな曲が好きですか」?と聞かれたので「泉谷しげる」と答えた途端、相手の顔が失望と困惑に変わってしいました。その頃高校を卒業したての彼女には泉谷しげるが歌手であること自体信じ難いことだったようです。

などということを思い出したのは「春夏秋冬」の歌詞、「きょうですべてが終わるさ、きょうですべてが変わる・・・」のフレーズを一日に何度となく口ずさんでしまうからです。ここ一年近く考えてきたことですが、店じまいすることにしました。決めてしまえば何処かふっ切れた軽さを感じないでもありません。しかし、「きょうですべてが報われる、きょうですべてが始まるさ・・・」という心境とはほど遠く、しばらくは面倒な後始末に付き合わねばなりません。

同時代に泉谷しげるを聴いていたわけでもなく、好きな歌だと思ったこともありませんでした。カセットテープを一本持っているだけです。ところが何故かサイゴンの街での日常にはとてもフィットするものがあります。上品に気取っては生きられないというか、感情と欲望を剥き出しにしてハイテンションで身構えねばどうにもならないからなのでしょう。

春夏秋冬のないところで「春夏秋冬」を歌っても回りの人には分かって貰えないでしょうが、カラオケにでも行って大声で歌ってみたいものです。

いつの間にか新年

2008-01-10 02:05:18 | 仕事
ここでは12月末に前期の学期試験があるため、ここ数年はいつも慌しい年末です。西暦元旦は休日のため一日のんびりと家で過ごしましたが、新年を迎えたという実感はありません。日本人との付き合いがあれば、新年の挨拶などを交わすのでしょうけどそれもなく、日本のお正月気分に触れようとスカイプを繋いでも誰もPCを開いてはいませんでした。日本から年賀メールでも来るかとの期待も見事に裏切られ、悲しきかな「忘れられた日本人」。忘れられる度合いに応じてこちらは益々日本が恋しくなり、おせち料理が食べたくなりました。

北部の顧客からクレームが来て機器が動作しないとか。電話で対応したわがスタッフの話は支離滅裂で機器の問題なのかソフトに問題があるのかすらわかりません。12月にメンテナンスに寄ってれば・・・などと今更考えても後の祭り。予備の機器を一台送りつけたものの結局、自分で出向いて確認して来る以外の選択肢はなくなりました。

3日の早朝便でハノイに着き、そこからバスを乗り継いで・・・とのつもりでしたが気力体力が伴わず、時間の無駄も考えて仕方なく空港からタクシーを使いました。距離にして約50km。40万ドン程度だろうとの予測通りでしたが、バスを乗り継げば5万ドン以下。日本にいる頃は赤坂見附からタクシーで帰宅し、2万円も払ったことがありましたからそれを思えばまだ格安。などと比較にならないことを持ち出して気休め。

客先に着くとこちらは一刻も早く仕事に取り掛かりたいのに昼食に連れて行かれ、ウォッカを勧められたりの相変わらずのお持て成し。愛想笑いを返す頻度も少なくなってしまったこの頃です。食事が済むと皆さんはお昼寝。一人で作業を始めましたが、客先のPCに問題があり、COMポートが認識しません。今時COMポートなど使うことは滅多にないので壊れていても気付くことはないわけですが。そうと分かってPCを取り替えると今度はWindowsのシステムファイルに問題があるようでソフトをインストールできません。焦ってあちこちに電話を掛けましたが解決方法がわからず、客先からは「どうすれば良いんだよ?」と問い詰められても窮するのみ。

しかし他の客先のPCでは動作するので・・・ということで新しいPCを買って貰うことにしました。これで今晩中にハノイに戻れる、と思ったところが、ソフトはインストールできたものの帳票に問題があって作業がはかどりません。日が暮れると寒さで身体が震え、空腹が追い討ちを掛けます。「ハノイ行きのバスはもう無いから明日の朝に帰れば」?と勧められるのを振り切って無理無理その場を後にしました。

LHP高校

2007-12-22 00:20:41 | 仕事
昨日は朝5時前に起き6:30発BL便でハノイへ。前日は10時に寝れば何とか起きられるだろうと思ったもののベッドに入っても眠れません。横になれば身体だけでも休めようと思いながらじっと眠りに落ちるのを待っていました。皮肉なもので「眠らねば」との思いが睡眠を妨げているようです。そうならば仕方ない、とばかり12時過ぎに起きてPCの電源を入れました。結局べッドに戻ったのは2時過ぎ。手の届かない所に目覚ましを二つ掛けました。

北部への日帰りというのは今回が初めて。始発便で出発し、最終便で戻れば十分可能ですが、高い航空空運賃を払って一箇所のみというのは採算に合わないのでいつもはあちこち回っていただけのことです。ハノイの空港からはタクシーを使わずに17番の路線バスに乗り、国道3号線との交差点でローカルバスに乗り換えました。如何にもハノイの冬といったどんよりとした天候で、目に見えないほどの細かい霧雨の湿気に包まれています。

仕事は契約書類の取り交わしと機器の取り扱い説明。機器はあらかじめ送ってあります。担当者とは既に何度か顔を合わせてもいたので気は楽ですが、新人の男子スタッフを連れてのことなので、そのお守りの方が厄介この上ありません。何しろ飛行機に乗るのもハノイへ行くのも初めてだし機器の操作もまだ満足にはゆかず、それでいて自分は何でも知っているという顔をしたがるので話をしていても不愉快にならないことは稀なタイプ。

契約手続きは何故か手間取り、校長先生が済まなそうに対応してくれました。「ベトナムの行政手続は問題が多すぎるんですよ。校長の私が許可しているのに何で手続きが進まないんだ・・・」。こちらは二・三時間待たされたところでもう十分に慣れてしまってることで、そんな気を遣って貰えるだけでも有難く、また少々驚きでした。

日清・日露戦争の頃の東遊運動の話を持ち出したり、「小泉首相は良くやってたけど、安部は駄目だったナー。今の首相はなんて名でしたっけ・・・?」という具合で日本に対しては好意的な方でした。ベトナムに住んでいながら果たして自分は3代前までのベトナムの首相の名をちゃんと覚えているだろうかと恥じ入る思いも過ぎります。しかし、何で小泉はベトナムでこんなにも人気なのでしょう?「改革」を断行する実行力の象徴と映るようです。ベトナムの旧態依然たる行政への苛立ちや不満が人々を捉えているからなのかも知れません。

待たされて時間を持て余す間に校庭をぶらぶら一人で散歩しました。都会の高校と比べると校庭も広くゆったりしているように見えますが、休憩時間になり教室から出てくる生徒の数はかなりでした。全校で2900名。一学年1000名近くです。町を歩いていて自分が日本人と思われることは決してないのに、何故かきょうも高校では悪ガキ共に「アジノモト」!と叫ばれました。続けて「ホンダ・ヤマハ・スズキ・トヨタ」。

この高校は進学率は30%ほどだそうです。田舎のせいか、日本の高校生よりかなり幼く見えます。ベトナムでは出生男女比が110対100ほどになってしまい問題にされてますが、高校生で目立つのは女子の比率の高さで、この高校でも男女比が4:6だそうです。

裏庭に回ると煉瓦の破片が散らばり草が茂ってました。鉄棒と平行棒が一ずつあるだけで、他に運動場はない様子。その奥の壁際にぽつんと建ってられてるのが生徒用のトイレでした。いくら予算がないからといってももう少し何とかならないものか、と思わずにおれませんでした。

カレンダー

2007-12-19 23:39:57 | 仕事
銀行から帰って来たスタッフが2008年のカレンダーを貰って来ました。昨年は何処からも貰えず、事務所にカレンダーがなくて多少不便でしたが、今年はこれで三つ目。二つの客先から卓上カレンダーを貰いました。一つは高校のカレンダー。公立高校が何でカレンダーを印刷して配るのかは常々不思議に思うところ。行く先々の高校ではいつも「金がない」という言葉を聞かされるわけですから。定食屋の壁に大学のカレンダーが掛けてあったのを目にしたこともあります。このところの物価上昇で学費も値上げされているわけだし、高校や大学がカレンダーを印刷して配るというのは、どんな意味を持っているのでしょうか。

印刷部数に寄るのでしょうけど、印刷単価は一部4・5万ドンだとか。高校のカレンダーだからと言って、試験日程や夏休みの日程が印刷されているわけではありません。少子化の日本なら学校の宣伝用ということもあるのでしょうけど、今のベトナムではその必要もないわけで「濫費」としか思えません。

DONG A銀行から貰ったカレンダーも日本の銀行のそれのように一枚物ではなく、一枚に2ヶ月分が印刷された6枚物です。乱立するベトナムの銀行の場合はそれなりの宣伝効果があるのかも知れません。カレンダーを配るよりは窓口の行員の態度を何とかして欲しいと思わないでもありませんが。

日本のメーカーからはクリスマスカード兼年賀状のメールが届きました。海外営業部のスタッフの写真入りなので日頃メールの遣り取りしかしない女性の顔などはつい注目してしまいました。わが事務所はカレンダーを印刷して配る予算もないので、こんなメールも良いかも知れません・・・・などと思って眺めていると突然の停電。本当にきょうも勘弁勘弁です。明日北部に持って行く幾つかのファイルをコピーしてないというのに。

暫くして修理に出していたPCを引き取りに行ったスタッフが戻って来ました。「修理は終わったけ、確認のためにWindowsを立ち上げてる最中に停電」だとかで無駄足。何が起こるかわからないからと、昨日今日と納品も前倒しで終わらせ、準備万端のつもりだったのですが。

明日は4時半起きで空港に向かわねばなりません。幾つか不備があっても日本人のように小うるさいことを言われることもないとは思います。


三日間閉店

2007-12-12 23:31:25 | 仕事
土曜日が疲れのピークでした。メーカー出張者との最後の夕食に牛肉サラダとイカ野菜炒めを食べていると左右の奥歯が痛み出し噛むことができません。前日も筋張った牛肉をたべたのですが、その時は何でもなかったのにです。最近は滅多に行くことのなくなった近所のThai Binhレストラン。店の名はそのままでしたが、メニューも替わり、ウェートレスも総入れ替えでガッカリ。

タクシー乗り場までバイクで送ろうとしたところ、このまま空港まで走っても構わないとのことだったのでそのまま空港へ。国際便で日本に帰る客をバイクで送ることは稀です。まして大きすぎるスーツケースを持っていたのでこちらからは言い出せないことでした。日本のサラリーマンもそれぞれなのでしょう。軽くなったスーツケースにはインスタントのフォーをしこたま買い込んで入れてました。
空港から家に戻ると一週間の仕事が終わった安堵感からか、身体がズッシリ重くなり頭は熱っぽく頭痛も始まりました。

日曜日は仕事のことは何も考えず、コーヒーを飲みに行く以外は何処へも出掛けず家で身体を休めました。この気温に身体が慣れてしまっているためか、心身ともにグーたらはしてしまいますが、身体の変調は次第に薄らいできました。

月曜の朝、5区のメコンデルタ行きバス停まで人を送り、慌てて事務所に戻ると大家の娘が「階上に住む身内の不幸があったので3日間場所を空けてくれ」との話。涙にくれながらそう言われたら同意する他ありません。取り合えず3日間必要な書類とPCを2台、FAX、プリンターを持ち出してGO BAPのわが家に移りました。

疲れ果ててダナン

2007-12-11 22:23:28 | 仕事
曇り空の北部からダナンに着くと雨で道路が光を反射しているのが上空からもわかりました。カラッと晴れ上がった中部の夜空を期待していただけに気分も晴れません。タクシーのホテル運転手にパシフィック・ホテルと告げ、ホテルに寄ってみると改装工事が終わり、すっかり新しく変わってしまってました。1993年以来予約なしで泊まれなかったことなど一度もなかったのに、この日の空き室は一室のみ。しかも宿泊料は改装前の3倍以上、30ドルを超えているのでチャンフー通りのミニホテルに向かいました。

何処かバランスが崩れたようで、せっかく小さな湯船に浸かり寝心地の良いベットに横たわっているのに1時間ほどで目が覚め眠れません。NHKBSは映るものの英語音声にイライラ。ADSLのケーブルも部屋にあるのにPCの設定を弄ってしまい繋がりません。本を読む気にもなれず短い睡眠を繰り返して朝を迎えました。

ダナンの電話番号が一桁増えたことをすっかり忘れ、タクシーを呼ぼうと電話しても繋がらず、歩けない距離でもないと歩き始めれば道を間違えて右往左往。集中力が著しく失われていたようです。機器はかなりの重症でメーカーの担当者は悪戦苦
闘。後から納入した機器は「問題ない」との客先の話でしたが、動かしてみると擦れる金属音がして大いに問題あり。自分では何もできず、せいぜいカバーの汚れを掃除する位。何もせずにただ見守るだけというのは想像以上に辛いもので胃が痛み出しました。昨晩からコーヒーを何杯も飲み続けているせいでもあるわけですが。

昼過ぎに無事2台のメンテは終了。11時から昼休みに入る客先には迷惑だったに違いありません。疲れがどっと出て歩く気力もなく、向かいの店で中部名物のチキン・ライス(Com Ga Tam Ky)を食べました。「ダナンを去る前に」と、ランに電話を入れるとお茶に誘われ、こちらは足がないので近くまで来てくれと頼んでも聞き入れません。「これだよ。ベトナムの女性は。必ず自分の言う通りに相手を屈服させないと気が済まないんだから」と愚痴りながらタクシーに向かって歩きはじめると、食堂の店員が慌てて走って来ました。「お勘定してください!」危うく無銭飲食者になるところでした。
 
呼び付けられたカフェは大きなビルのホテルの一階。空港近くNguyen Van Linh通り1番地。マフィア企業との噂を聞くHoang Anh Gia Lai社の建物でした。コーヒー代も高そうだし、何でまたこんな所へ、と思っていると彼女の勤務先がこのビルの上階に移ったのだとか。彼女の話を聞いてもこのホテルの評判はボロクソ。とても100ドルも払って泊まるようなホテルではないそうです。それゆえでしょうか、この悪評判が株価へは好影響を与えているようで、OTC市場での株価は額面の17倍以上。悪が栄え、正直者の貧乏人が益々貧しくなる市場経済化の断面を否定することはできません。

ランが同行したメーカー担当者に「ホーチミン主席についてどう思いますか?」と英語で質問しました。ランより2・3歳年上の彼は、どうやらまるで知らない様子。それはないだろう、ホーチミン市が人の名に由来してるとは話したし・・・、温湿度管理はホーチミン廟では行っている筈とも言ったのに。
その場を引き受け、「いゃー僕がしばしばベトナム人と間違えられるのは何処かホーおじさんと雰囲気が似てるからじゃない?」などと大それたことを言ってしまいました。「全然まったく似てない。タバコを吸うことだけよ」と厳しい反応。「質素な生活も似てるし、ベトナム女性観も近いものがあると自分では思っているけど。ベトナム女性は特別だから他の国の女性を知ったら決断できないでしょ」と言ったのが気分を害したのか、「ホーチミンにはちゃんとベトナム人の奥さんがいました」と始めて聞く話。考えてみれば「日本男児はアホだ」と言われたに等しいことを口にしたわけですから彼女のお怒りも御もっともです。