GOVAP便り

プノンペンからモンドルキリに、その前はTAY NINH省--AN GING省--HCM市GO VAP

農業高校

2006-12-31 02:48:46 | 教育
H君とH君のお父さんと三人で食事をしました。歯の痛みはだいぶ治まったものの風邪がぶり返したのか鼻水と咳が復活し、熱ぽかったので鍋料理を食べることにしました。H君のお父さんも喉頭癌のため硬いものは食べられません。

農業技師のH君のお父さんには、10年ほど前に会った時に一度戦争中の話などを聞かせてもらったことがありました。こうして一緒に食事をするのもそれ以来のことです。病気のせいもあって口数は少なくなり、僕もまた下手なベトナム語で離しかけるのもH君の前ではどうも気後れしてしまいます。

定年退職後もH君のお父さんは、ゴム園を経営しています。前回のブンタオを襲った台風で1割ほどのゴムの木が倒れてしまったそうです。ゴムの木から作った家具を日本でも見かけたことがありました。家具にするには木に含まれる樹脂分を化学処理しなければならないそうで、ゴムの木で作った家具の白さはそのせいのようです。今はアメリカ政府の援助を絡めてメコンデルタなどでもカカオ栽培が始まっていますが、90年代の初めにH君のお父さん達もベトナムでカカオ栽培を試みたそうです。カカオ栽培は葉が茂るため、より多くの農地を必要とするもののベトナムでの栽培自体は難しいものではないそうです。その当時、問題だったのは収穫したカカオ豆を加工する技術と施設が準備されてなかったということのようでした。

たぶん30年ほど前にカワギシさんに「文化っていうのは農業なんだよ。英語で農業はアグリ・カルチャーって言うだろ」と教えられたことがありました。しかし今のベトナムでは農業に従事する人々が文化の担い手であるという評価や現状があるとは思えません。人を雇って農作業をさせ、自分は都市に出て商売をすることが賢く文化的だと考える風潮すらあります。農業を切り捨てて経済成長を追い求めて来た結果の今日の日本にどのような文化が生み出されたと言えるのでしょう。

農業こそが文化を創造するんだぜ、などと偉そうに口にしてみようか、と思うことしばしばです。しかし言うだけでは何の意味もありません。H君は、今のベトナムに必要なのは大学・短大を倍増させることではなく専門学校を増やし実践的な職業トレーニングをすることだ、という意見のようです。僕は思い付き的ではありますが、農業高校の設置こそベトナムの将来にとって重要だと思い続けてます。何れにしろ、今のように専門学校を短大に昇格させ、短大を大学に昇格させて学歴の高度化を図ることよりも、ベトナムの経済実態に即した中等教育の質的な充実こそが問題の中心に据えられるべきものです。

例えばカカオとカシューナッツ栽培地に農業高校を建設し、加工場を校内に設けるのはどうでしょう。ここでカシューナッツ・チョコレート生産を試み、ヨーロッパや日本の農業高校等との交流を図って技術的な蓄積や市場ニーズの把握を学ぶことができます。食物を生産することの重要性と楽しさと難しさ、食品の生産・消費の国際性等について農村に住む10代の人々が実践的に学ぶ環境を準備することです。
都市の高層マンションは、日本の中高生に飛び降り自殺の場を提供するだけで文化創造的な環境だとは言い難いものがあります。ベトナムの農村で暮らすことのほうが遥かに多くのことを生活の中で学ぶことができるはずです。その折角の環境が活かされていないのは、大人達と行政の怠慢の結果でしかありません。
消費者が生産者の責任を問う以前に、モノを喰う人々は、そのモノがどのように作られているのかを知らねばなりません。と同時に食料を生産する農業という仕事に従事する人々の文化やモラルが崩壊すれば安全な食が保証されないということを知るべきです。


年末の連休

2006-12-30 02:36:58 | 仕事
鼻水と胃痛は薬で何とか抑えたものの、今度は激しい歯痛に見舞われました。サイゴンに戻った翌日K君から電話を貰い、寂しく忘年会代りに食事をすることにしました。Le Duc Tho通りの「馬肉・ヤギ肉」と書かれた店です。ここでイカ焼きを頼んだのが間違いでした。一口かんだ途端に激痛が走りました。ハノイでも夜中に多少痛みを感じたこともありましたが、朝になれば忘れてしまう程度のものでした。が、今回の痛みは本格的です。注文したイカは半分も食べられません。その上、今回もまた愛想の良いウェイトレスが愛嬌を振りまき、携帯番号まで教えてくれたのですが、彼女のお目当ては我々二人ではなく、ベトナム人のH君でした。まぁ、そんなところだろうと納得はできるものの、K君は落胆を隠しません。

当分硬い食べ物や刺激物は避けよう、という程度のことで済むと思っていたわけですが、その晩、眠ろうとすると痛みが増してきてどうにも我慢できません。薬箱をかき回して「ノーシン」を飲みました。他に痛み止めのような薬はないし、夜中のことです。直ぐに痛みが和らいで眠ることができましたが、2時間ほどで再び痛くなって目が覚めました。一回2錠、一日3回限度と書かれてますが、再び飲まずにはおれませんでした。翌朝、早々に歯科医に行くと、周りの2本を含め3本共抜かねばならないと言われ、痛み止めの処方箋だけ渡されて帰って来ました。とりあえず、薬で痛みを抑えるとしてもその後でどうするべきなのか不安になります。薬を飲まずに痛みがなくなるようになるのでしょうか。今日本に帰って治療すれば、ちょうど正月を日本で過ごせることになり、それはそれで嬉しいことですが。

ハノイに行く程度の航空運賃ならともかく、そう簡単に日本に戻ることもできそうにありません。1月早々にもまたハノイにも行かねばならないわけだし。などと思いつつ商談中の日系企業に電話を入れると、何と担当者は帰国し、戻りは来月8日とのことです。日本にバックグラウンドがある人もいるわけで、それはそれで当たり前なのでしょうけど忘れてました。1年にしっかりと区切りを付けて新年を迎える、そんな年越しをしてみたいものです。

元旦が月曜日でここでも休日ですから連休となります。土曜を休めば三連休とのことで、わが事務所は一人がファンティエットへ家族旅行、Nもニャチャンへ家族旅行だときょうの夜になってから電話で告げ、明日は一人で仕事をすることになってしまいました。仕事が暇ならともかく、年内処理の契約手続きにバタバタ追われてる最中だというのに。

この国の年長者を敬う儒教的文化、または敬老精神なるものが、何故私に対しては適用されないのでしょうか?胃痛、鼻水、歯痛に加え痔も悪化して来たところです。儒教精神とは攘夷であり、外国人に対して敬老が適用されものではなく、年長者を敬うということは家族の絆の中だけのことであり、家族の絆こそ何に増しても優先されるものであることを実感させていただきました。

予定変更

2006-12-28 16:32:03 | 交通
ハノイのクリスマスを楽しんだ反動でしょうか、朝起きてきたNも風邪を引いた様子。低血圧のウンザリした表情で不貞腐れていました。「ちゃんとバッカンには電話したわよ。年明けにどうせまた行かなくちゃならないんだから、その時行けば。もう疲れちゃった」。こちらも胃痛と鼻水で再び長距離バスに乗って北に向かう気力がありません。一度足を運んでおいた方が良いには違いないのですが、無理してNの仏頂面と付き合うのも後が大変。こちらのストレスもそろそろ限界に近づいて来ました。ハノイ市内の仕事を終えたら予定を2日早めてサイゴンに戻ることにしました。キャンペーン・チケットのため便の変更には手数料を払わねばなりませんが、宿泊費が浮くので負担が増えるわけではありません。やはり一週間を超える出張は無理があったようです。

ハノイ市内はバス路線が整備されているので、荷物がなければ移動は容易です。受験生用のためなのか、市内の大学を記した地図も売っていました。バス路線地図もサイゴンのものより遥かにわかり易く、使い易いものです。この2つの地図を買いNに渡しておいたのですが、地図を見る習慣がないのか、行き先を地図で確認することなく、行き当たり場足り。この5年間で一番頼りになるスタッフなのですが、それでも段取りの悪さには呆れ果ててしまいます。こういう時は南部の人間のおおらかさというのは、ただのズボラの役立たずでしかありません。

50万分の1全国道路地図などもハノイの書店で見つけたので買いました。155Kドンと驚く価格。サイゴンでは5Kドンの市街地図も、ハノイでは15Kドンもします。道路地図を開いて、5万分の1だから1cmで何キロだ?と聞いてみると返事がありません。縮尺が明記されてない地図もあるし、生活の中や社会科の授業で地図を見ることも少ないようですが、算数は得意な筈だからと思っていました。旧社会主義計画経済の名残で理数系偏重の割には数値化するのに得意でないようです。物の価格や携帯電話機のモデル番号などの暗記能力は抜群なのですが。

市内路線バスに乗ると学生の多さが目立ちます。大学の多さや立地の良さのためもあるのでしょうけど、サイゴンとは大きな違いです。ハノイの学生をアルバイトに雇った方が、仕事が遥かに効率的であることは間違いなさそうです。
KIM MAから路線バスに乗り、約50分後、空港に着きました。市内から30kmほど離れた不便な空港と思っていましたが、バス代5000ドンで着くことができるのですから成田と比較するまでもなく便利です。パシフィック・エアラインのチェックイン・カウンターの無愛想なお嬢さんも座席の狭くて古い機体もチケット価格相応なのでしょうけど、やっとサイゴンに戻れるという安堵とは無縁です。

南部に近づくと雲が厚くなり、冬空のようでした。地上に近づいても視界は鮮明でありません。サイゴンも冷える季節かと思ったもののタラップを降りると、やはり熱帯の空気で、北部の寒さを思えばサウナに近い状態です。Nはベンタン市場までのバスに乗って帰りました。GO VAPまではバイクタクシーを拾うしかありません。空港を出て暫らく歩いてみました。北部で感じていた疲れはもう残っていないようでした。

旧市街のクリスマスイブ

2006-12-25 09:45:22 | 交通
機器2台を先にサイゴンに送り戻し、身軽になってホテルを変えることにしました。K君が泊まっている旧市街のミニホテルが一泊10ドルで部屋も悪くないと聞き、部屋を見に行きました。市内の移動も路線バスにすれば交通費も抑えられるし、不便はありません。ちょうどチュンクアン通りのホテルの前のバス停からホアンキエム湖北側までのバスがありました。どうせNは自分でホテルを探すこともしないだろうからと、このホテルに移ることにしました。

旧市街は、言わばハノイのバックパッカー街で、オフィスビル街にいるよりも買い物や食事も便利で気楽な雰囲気があります。土日の朝は、K君からの電話で起こされました。毎朝ビンユンの工場までバス通勤しているK君は、ハノイに来ても早起きの習慣が抜けないようです。ところがハノイの朝はサイゴンよりも遅いようで、7時にカフェや食事のできる場所を探してもなかなか見つかりません。ハノイのほうが経度を見れば多少サイゴンより西に位置しているようですし、この冬の曇天空は早起きに不向きであるには違いありません。

旧市街の露天市場に並べられた野菜や果物は、普段GO BAPの家の近くで目にするものより選別された上質のもののように見えました。場所柄ということもあるのでしょうけど、ハノイの人々のほうが几帳面さにおいては優れていることは確かのようです。「旅行に来て何でも満足を求めようとしちゃいけないんだ」と言うK君のことば通り、ハノイのコーヒーの不味さに文句を付けようとは思いませんが、その味にも関わらず値段は5Kドンから10Kドンほどもしてサイゴンのアイスコーヒーが懐かしくなります。カフェ文化の違いはハノイと異なるというより、サイゴンのカフェだけが特別なのかも知れません。ハノイの若い女の子達もとてもお洒落ですが、ここではお洒落な女の子はお金持ちタイプで、カフェのウェートレスは皆お洒落とは無縁のようです。サイゴンでは貧富の差に関わりなくお洒落に気を遣うとすれば、ハノイではお洒落の層が一部分だけに限られているという印象です。そのためか、サイゴン以上にお洒落だと感じるものが少なくないわけですが、どことなく浮いた感じを伴います。官と民、豊かさと貧しさ、学歴格差、都市と地方等の対照がサイゴンよりもよりあからさまな社会のように映ります。

寒さ故か、空腹になると胃が痛むようになってきました。鼻水も止まりません。去年の12月は気が張っていたのか、無理を続けてのハードスケジュールでも問題なく、しかし、年が明けてから2ヶ月連続して二度風邪を引いてしまいました。やはりインフルエンザのシーズンなのでしょう。ホテルの受付に置かれたTVからクリスマスソングが流れています。聞き覚えのある、山下達郎の曲です。TVを見上げるとコカコーラ・カラーの衣装を着た女性たちが、琴や胡弓で演奏しています。ハノイのケーブルTVで流されている北京の番組だそうです。
K君は昨日の披露宴でもらったクッキーを子供へのお土産にすると言って、昼の便でサイゴンに戻りました。Nの姉は予定を変更し、明日の朝便に延期したそうです。

ハノイ着

2006-12-24 22:18:44 | 交通
バクザン、ハイフォンにそれぞれ一泊した後ハイズンを経由して木曜日の夕方、ハノイに着きました。先に送っておいた機器2つ、計50kgも引き取ったのでこれを抱えて安宿を探して回るのも面倒です。ティエン・クアン湖に面したクアンチュン通りのホテルに泊まることにしました。訪問予定の大学はCau Giayに位置するものが多いからと、途中でNがCau Giayに行くよう運転手に告げましたが、ハイフォンで雇った運転手は「道がわからないからタクシーに乗り換えてくれ」とハノイ・ホテルの前で車を止めてしまいました。もう少し早めに行き先変更を告げておけば運転手のご機嫌も損なわずに済んだに違いないと思うのですが、嫌なことはギリギリまで口にしたくない、ということなのでしょうか。午後から半休を取る時も、そうと告げられるのはいつも12時になってからです。

前日はタクシーでバクザンからバクニンに移動する際、バクニン近くまで走ってから宿から二人のIDカードとパスポートを渡し忘れたとの電話が入りました。時間は余裕をとっていたので問題ありませんでしたが、往復のタクシー代300Kドンは前日の宿泊費を超えてます。きょうもまた余分なタクシー代を払うのか、と不機嫌を隠すことができません。Nは運転手に押し切られ、運転手は他のタクシーを呼んで来ました。梱包していない機器を積み換えるのも面倒に思え、日本語で喋り続け自分の不機嫌さを十分相手に伝え、頃合いを見計らって運転手が道を知ってると言う、当初の予定のクアンチュン通りに戻ることにしました。

ホテルは工事中で騒音の中です。宿泊費も一部屋250Kドンと予算を超えるので長くは泊まれません。それでも日本の1万円を超えるビジネスホテルよりは満足できる部屋でした。エアコンの暖房も効くしバスルームもお湯も問題なく清潔でした。Nのストレスも溜っていそうだし、ここでリフレッシュできればそれに越したことはありません。

土日の二日間は二人共予定がありました。K君が友人の結婚式に出席するためハノイに来ており、Nは親戚の姉がハノイの恋人に会いに来ていました。2年前に初めてNを連れてハノイに出張する時には、Nの母親が事務所に押しかけて来て説得するのに苦労しました。Nの姉も恋人に会いにハノイに来ることに家族の許可が下りずにいたとのことです。それが今回は、Nがハノイに来ているのでNと同室のホテルに泊まるということで初めてのハノイ訪問となったようです。

お陰で金曜日の夕食はハノイの彼氏にCha caをご馳走して貰いました。仕事以外の会話ができるためか、姉の役に立つことができたという自負からか、Nは上機嫌で饒舌でした。ハノイの彼氏は公安関係のお役人のようで、サイゴンのへ出張が多いとのことです。Nの姉は虚弱体質のNとは違って、道を歩けば多くの男性に声を掛けられそうなタイプでした。
Nも二人と一緒にハノイ見物するのか?と聞くと、「二人はきっとホテルに籠もりっきりじゃないの」との返事。それじゃ「保証人の」役割果たせないじゃないか、とからかうと、「もう大人だからいいのよ」だそうです。

フートーやバックザンの寒さの後だからか、ハノイの気温はさほど苦にはなりません。それでも小刻みに腹が減るのは寒さのせいのようです。腹は減るのに食べたいと思うものが見当たりません。ハノイのご飯が口に合わない、というサイゴンの人々の声もよく聞きますが、身体がハノイの気候に適応していない、ということがそう感じさせるような気もします。

北部2日目

2006-12-24 11:32:39 | 交通
宿の向かいは公園で、放し飼いの鶏がウロチョロしています。放し飼いの犬が鶏を追いかけることもありません。この辺では家禽類の飼育禁止措置が取られてないようです。確かホーチミン市では禁止されてた筈だとNに言うと、Nの家の鳥は数ヶ月前、公安に没収されたとの返事でした。こうして田舎では犬、猫、鶏などが放し飼いでも共存して生きていけるわけで、たぶんそれが長年続いた当たり前のことなんでしょうけど、それを奇異に感じてしまうほどに今の都市生活というのは人々の意識を歪めてしまってるみたいです。

朝起きて、とりあえずコーヒーでも飲もうと近所を歩いてみました。が、カフェがありません。朝食を取る店は何軒かありますが、最低限の買い物をする以外は見事に何もない町です。お役所関係の立派な建物は見受けられます。この地の師範短大を訪れるはずでしたが、来てみると二年前に大学に昇格したとのことでした。それでも教員養成課程が主要学科であるためか、学生は9割近くが女子のようです。昨晩泊まった下宿屋に寄宿していた3名の女子学生は、この大学で経営管理学科に籍を置く1年生でした。

政府教育省の方針では、現在の大学・短大数310数校を2002年までに約倍の600校に増やすとのことです。全64省・都市で大学のない省がなくなり、就労人口に占める大卒者数を先進国並みにする計画のようです。個人的には、そんなことより初等教育を何とかするほうが先だろうに、との思いがしてなりませんが。何れにしろ、数はともかく質をどうするんだ、と危惧する声は多いようですが、その内容がどのように論議されているのかはわかりません。メコンデルタの師範短大の学生に、地元の教員となることを前提とした奨学金の制度が設けられたそうです。教員の職ですら地元に残らず大都市へと流出するわけですから、地方に開設された大学の卒業生たちが地域社会を支える人材として活躍するような状況になるのかどうかは疑問です。

10年ほど前、最初のベトナム投資ブームの頃は、このPhu Tho省は、まだVinh Phuc省と分割される前で、Vinh Phu省という名でした。工業団地が造成され、トヨタ、ホンダの工場が建設される頃でした。これらの工場団地は今はハノイに隣接するVinh Phuc省に位置します。こちらのPhu Tho省には見るべき産業があるようには思えません。果して彼女達、この大学の経営管理学科卒業生にはどのような就職先が準備されているのでしょう。

午後からはViet Triで約束があるため、昼前にViet Tri行きの路線バスに乗ることにしました。分割前のVinh Phu省時代からの省都だけあって官庁関係の立派な建物が目立ちます。と、いうよりその威圧的なコンクリートの建物は、自転車に乗った農民たちの姿との対比に耐え難い感情がこみ上げます。
ここは何度か訪れた地なので宿泊先や食事の店には困りません。それでもホテルの室内には暖房も電話もなく、かすかに暖かいシャワーは5分と持たずに水に変わり震え上がりました。

出張日記 初日

2006-12-23 19:07:01 | 交通
腕時計の蛍光塗料がかすかに見え、2時半を差しています。夜の7時にベットに入ったので、ちょうど目が覚める時間なのでしょう。あぁ、これだからちゃんとフートーの宿は予約しておくようにと言ったのに、と溜め息が出ます。とにかく毎度のことです。北部の地方に来て想像外の泣きたい気分にさせてもらえるのは。

フートー省はハノイの北に位置するため、ハノイ市街に入ることなく空港から直接バスで向うことにしました。80kmほどの距離をタクシーに乗る贅沢はできません。空港から市内に向かう路線バスに乗って最初の国道沿いのバス停で降りようとすると、扉が開くや否や乗り込む客が先に殺到し、呆気にとられました。池袋の東武東上線でも似たような光景はあるのですが、そんなことは忘れて、北部の人々の貪欲さを呪いました。交差点を歩いて右に曲がり、国道2号を北上する長距離バスを持ちました。途中乗車になるのでどのバスも既に満員ですが、それでも無理やり客を詰め込もうと、何台ものマイクロバスが止まります。無理強いするバスは料金もぼったくられそうなので避けましたが、その客引きのひつこさは閉口しました。これぞまさしく北部のど根性。南部の人間が喧嘩して勝てるわけがありません。Tuyen Quang行きと書かれたマイクロバスが止まりました。たぶん方向は同じと思い、Phu Thoに行くと告げると乗せられました。

30人乗りのバスは補助席を含め4人掛けのシートは既に埋まり、無理やり5人掛けにさせられましたが、後から乗り込んだわれわれに先客は面積を空けてくれるつもりはなく、どうにかお尻を半分乗せられるという窮屈な体勢です。先客は股を広げ、腕を組んで寝た振りで、まぁこれも日本の電車の中と同じと言えなくもありません。途中何度か客の乗り降りがあったので、次第に体勢は楽になりました。それでも窓際の太った男が股を開き続けていたので全身の力を込め体当りで押し寄せました。不満げな顔で文句を言いそうだったので、「4人掛けのシートに5人座るのにアンタは一人分以上占めてるじゃないか」と言うと、何も言いませんでした。身体の細いNが隣に座ると更に座席はゆったりです。「人間は肩が一番広いんだから肩を半分ずつ入れて座れば多くの人数が座れるんだよ」などと20歳の頃、地検に向かう護送車の中で「官憲」に教えられた言葉を口にしてしまいました。

バスは、国道2号を北上します。Phu Tho省の省都Viet Triを過ぎたころから起伏の多い風景に変ります。だだっ広い紅河デルタの田んぼに替わり、三里塚や町田の小山田のような変化に富む丘陵地帯で、道路もカーブが多くなりました。

てっきりPhu Thoに行くと思っていたバスは、しかし国道を直進してTuyen Quangに向かうため、途中の三叉路で降ろされることになりました。Phu Thoの町は国道2号沿いに位置するわけではありませんでした。直ぐにXE OM(バイクタクシー)が寄って来ました。2時間ほど窮屈なバスに揺られたので先ずは道端の店でインスタントコーヒーを飲みながら一服。Phu Thoまでは、ここから10km、一人4万ドンで乗らないか、とXE OMが言い、Nが「サイゴンでは1km2500ドン」と言い返しています。Phu Thoへのバスを待つ人々の姿もあったので、暫らくバスを待つことにしました。見知らぬ土地でXE OMにぼったくられるのも不愉快です。ところがバスは来るのですが、悉く満杯。学生らしき人々は窓から乗り込んだり、ステップにしがみついたりして乗って行きましたが、荷物を持ったわれわれには無理な行為です。次第に日が暮れ始めたの仕方なくバスは諦めXE OMと交渉することにしました。一人15000ドンで話がまとまりました。

訪問先の学校近くのNha Troと呼ばれる宿に泊まることにしました。余りのみすぼらしさに、「これ、学生向けの下宿って書いてあるぜ」とNに言ったのですが、Nは気にも留めず、料金の交渉を始めています。宿の主人は、「ベッドは2つあるけど部屋は二人で一部屋、7万ドン」などと説明しています。これは、なんという展開でしょう。これこそがNの母親が一番恐れていた事態ではないでしょうか。さっきまでは、ここはやめようよ、と言うつもりだったのに、ちょっとした心境の変化が。

ところが、やはりそんなことになる筈もなく、パスポートを出すと、外国人の男とベトナム女性を一緒に泊まらせることはできない、とかでNは3階の女子学生3人の部屋に移され、こちらはお喋り好きな宿の主人を含め男3人で泊まることになりました。その鬱陶しさを逃れるためには例え7時であろうと寝る以外ありませんでした。部屋には暖房がないというより先にドアがありません。シャワーもなく、トイレでバケツの水を浴びることは可能のようですが、晴れた日の昼間でもその気にはなれません。つまらぬ期待を抱いた一瞬の間違いで、自業自得と言うべきものでしょうか。

NOEL

2006-12-17 03:19:17 | 
今年のクリスマスイブはハノイで迎えることになります。昨年、一昨年はサイゴンのクリスマス渋滞に巻き込まれて散々でした。人口の約1割と言われるクリスチャンの人々にとっては特別な日なのでしょうけど、日本同様に普段はお寺に行く人々にとってもまた特別な日であるようです。今年は日曜日と重なるため、クリスチャンのワーカーが大量に仕事を休み、工場のラインが止まってしまう、などということはなさそうです。

初めの頃は、NOELという言葉の意味がわかりませんでした。どうやら「クリスマス」の意味らしいと気付き、ベトナム語の辞書を引いても出ていません。発音は「ノエン」と聞こえます。フランス語のNOELだったわけで、ベトナム語化したフランス語の一つです。ベトナムの若い人々にとっても、クリスマスをどう過ごすのかというのは関心事のようです。時には、クリスマスの予定がない女の子からお声が掛かったりもしますが、大半は話だけで終わるもので、間違ってデートの約束をさせられる時はプレゼントを強請られること間違いなしです。

そうと知りつつも懲りもせず、今年は、先月日本からチョコレートやケーキの素などをどっさり持ってきて貰ったので、ご近所のカフェやパーマ屋の愛想の好いオネェさん達に配ろうかとも思っていたわけですが、明日の便でハノイに経つことになったのでそれも叶いません。その上、クリスマスにはチョコレートをプレゼントする、などと調子に乗って口走ってしまった相手もいました。日本男児たるもの、後から「嘘を吐いた」などと言われる屈辱に甘んじることはできません。明日の準備をしなければならないのに、わざわざバイクで出掛けてチョコレートを渡してきました。
それがハノイに行く前に本当に自分がすべきことだったとも思えませんが。

そのデートを邪魔するかのようにNから電話が入り、明日のハノイ行きの便が4時間早まったとのこと。流石、パシフィックエアライン。恐らく乗客が少なくて、燃料節約のため一便減らしたのでしょう。珍しいことではありません。一便遅らされるよりはまだマシです。明日はハノイの空港からそのままフートーまで行かねばならず、しかもホテルも予約していません。見知らぬ田舎町で深夜にホテルを探す心細さは勘弁です。

会計年度が西暦の1月から12月までのためか、ベトナムの年末も仕事は慌しくなります。ハノイ行きの直前になって急にあれこれ電話やメールが来出しました。

愚痴

2006-12-16 02:56:07 | 仕事
多少プログラムを書けるという新卒の女の子を一人雇ったところ、1ヶ月ほどして営業をしたい、と言い出したのでご希望通りの仕事をしてもらい始めました。が、またもやどうにもなりません。勿論、今日のベトナムでも他所を見れば優秀な営業マンも数多くなりましたが、そこそこの給与を払わねばならず、わが零細事務所では負担が大き過ぎますし、何度か覚悟してそれに見合う賃金の人を雇ったりもしてみましたが、賃金が高ければ質も保証されるとは限らないところが問題です。高賃金を要求する人の半分は、仕事ができないのにプライドだけは人一倍高い、というタイプで、しかも他所で仕事か見つからないからわが事務所で渋々働くということでしかなく、初めから期待のしようもないのかも知れません。

とにかく、普通のコミニュケーション能力があればそれで十分、と思っているわけですが、この「普通」というのが難しいというか、希少だと感じてしまいます。当たり障りのない関係なら別に問題となることもないわけですが、仕事の中だと摩擦は避けられません。ある程度の経験があればともかく、研修期間などなしに仕事をしてもらうわけで、当然ながら初めはミスの連発。ところが誰でも自分のミスを認めるのは辛いもの。謝る代りにとんでもない言い訳で逃れようとする風潮が根深く、まるで一つのミスを認めることが全人格を否定されるかのような反撃体制に入ってしまいます。余裕がないから仕方のないことと諦め、謝らすような状況を作らないようにすれば良いわけですが、僕にもそんな余裕はないわけで怒りまくりの怒鳴りまくりです。

結局のところ、双方共コミュニケーション能力に致命的欠陥があるように思えて来ました。他人の欠点はあげつらえば限がなく、ベトナムの歴史と社会と教育の中に問題を指摘することは誰でもできそうです。日本と同じ東アジア的縦社会の中でポジショニングに血道をあげてしまう体質は日本人以上でありながら、王権の及ばない村落の自治、自由は何にも屈しない頑固さ育んできたようです。この相反する要素の調和の仕方が日本人的体質と大きく異なるみたいです。
日本で問題となっているイジメやパワーハラスメントは、つまるところ異質なものに対してコミュニケーションできない日本的なるものの限界性でもあるように思えます。

と、いうことでわが能力の不足を自らでは克服しがたい日本人のせいにしているわけですが、きょうも台所に出没し、洗った食器の中に糞を垂れていった鼠同様、何時の日かは必ず叩き出し、優秀で美人のスタッフと取り替えてやるぞとの決意は変りません。

ねずみ

2006-12-15 01:35:52 | 生活
数日前、仕事の最中にダナンのランから「ノルウェーの森」は読んだか?と携帯メールが来ました。「ハリーポッター」のベトナム語訳に夢中の人が読んで面白い本だろうかと疑問でしたが、日本語の本なら手元にあるから送ろうか?と返信したところそれっきり。村上春樹と吉本ばななの小説をベトナムで読むというのは、どうも気乗りしないものがあります。もっとも日本にいる時も途中までしか読みませんでしたが。などと思いつつ本棚を見ると、鼠の糞と食い散らされた紙片が固まっていました。齧られたのはクレヨンしんちゃん日本語版の第3巻でした。やはりここで受けるのは「しんちゃん」のようです。

鼠は以前から小さいのが一匹、家の中をチョロチョロしてます。上部の通気窓から電話線を伝わって降りてきます。棒を持って追い回したこともありますが、その直後には嫌がらせなのか、机の上などにドッサリ糞をして行くので、最近は刺激しないようにしています。それでも本を齧られたのは今回が初めてで不思議な気がします。知り合いのベトナム人の家では子供の服が齧られたと聞きました。このBOOK OFF 350円のシールが貼られた本も子供が手にしていたからかも知れません。「虫も喰わない」という喩えもありますが、爺臭い本は鼠も喰わない、ということだったのでしょう。とにかく、何れ猫を飼ってやるぞ、との思いは変りません。

何年も聴かずに仕舞ってあったMDカセットを引っ張り出したら、ダラーブランドのMEMORIESがありました。きょうの新聞にハノイやホイアンでJAZZの路上ライブを行うとの記事を見たせいか、久しぶりにかけてみました。30数年前は、オープンリールテープで聴いていた曲です。ついでにガドーバルビエリのサックスも聴いてみたいものですが、レコードの時代に聴いたのが最後だったかも知れません。
普段は気にもならなくなった屋根の上を飛ぶ飛行機の騒音が、この時ばかりは気に障ります。

10数年前、ハノイの本屋で居合わせた学生に面白い小説はどれか?と訊いたら、「戦争の苦しみ」を薦められました。その時買ったものの原文は読みませんでしたが、後でフランスで評価され、日本語訳も出版された本です。ハノイで読む小説、聴く音楽は、サイゴンでとは違った印象があることは確かです。「「ノルウェーの森」とMDも来週からのハノイ行きの荷物に入れておこうと思います。「凱旋門」よりは邪魔にならないみたいだし。