GOVAP便り

プノンペンからモンドルキリに、その前はTAY NINH省--AN GING省--HCM市GO VAP

ベトナム最北の省、ハザン(Hà Giang)

2016-06-29 23:35:40 | 旅行

Lo河の流れにほぼ沿いながら走る国道2号を北上してハザンに向かいました。途中の路上市場でバイクを止めて休憩。白く丸い野菜が何なのか気になっていたので訊ねてみました。

  

白い小ナスの塩漬け「cà muối」は南部にもありますが、これだけは北部が圧倒的に美味しい。と、いうかこれ以外の食べ物で北部で美味しいと感じる食べ物は滅多にないかと・・・。そして、緑色がかった大きなものは白ナスの大きい品種なのかと思っていたわけですが、此処で試食させて貰いました。すると予想に反し子供の頃に食べた記憶のある「甜瓜」の味がしました。大きいものはソフトボールほどのサイズです。一個ください、と言ったら1kg買えと言われ、6個ほど袋に入れられました。それでも1万ドン(50円)で、缶コーヒー一本の値段。

    

国道沿いの風景は退屈で時間も早かったので「Quang Minh湖」の標識を見て道を折れました。小さな湖でした。小魚を獲る小舟や筏が静かに浮かんでいました。

    

ハザンの市街地はLo河に沿って南北に長く、平野部の面積は限られています。ここで国道2号は左折し、Lo河沿に北北西へ向かい雲南の中国国境へ。南東方向へは国道34号がカオバンへと続いています。そして国道4Cが最北の町Dong Vanに向かいます。と、ちゃんと地図で調べてから出発すべきでした。

翌朝、Dong Vanへと向かったところ、1時間ほど走って早々に雨。一時間近く雨宿りして待ったものの雨は上がりそうもなく、どうせ山道なので何処かでは降ってる筈。雨具を着て出発しました。道路は工事中箇所の多い悪路に水溜りまで出来て最悪状態。ノキアマップに記されたルートは国道34号を進み、途中で左折北上するものでした。

    

交通量は少なく、ダンプカーが通るだけ。で、何時しかダンプの後に着いて走るようになり、分岐点でもスマホの地図を確認しないでダンプと同じ方向へ。そして悪路の急な坂を登り終えたら、突き当りは採石工場の門でした。スマホで現在地を確認すると道路の表示がない山の中。苦労した挙句にとんでもない結末が待ち構えていたというのは人生では珍しいことでもありませんが・・・。今回はただ同じ道を引き返せば良いだけのこと。しかも今度は下り坂だし、雨も上がり始めました。

    

道を戻って分岐点を過ぎると舗装された道路に出ることになり一安心。雨上がりの田園風景を楽しみながら何度もバイクを止めて気分は爽快。日本の子供やベトナムの都会の子供を見ても自分の子供の頃を思い出すことはないのに、何故かカンボジアや少数民族の子供の姿には懐かしさを覚えます。

    

10年ほど前だったか、雲南に旅行した時に見た棚田とも似た風景が広がっていました。スマホのノキアマップに疑問も持たずに通なりに進めばDong Vanに着くものと思ってました。しかし、下のグーグルマップの地図のルートとは異なり、省道176号なる山の中を行く道路で、160㎞ほど走ってガソリンも残り少なくなってしまいました。6時頃、三叉路にある小さな町のガソリンスタンドで給油して道を尋ねるとDong Vanへはどちらの道でも約60㎞とのこと。「山道なので着くのは8時になるかもねー、手前にMeo Vacの町がある」と聞いたので道が険しかったらMeo Vacで泊まるつもりで走り出しました。

  

ガードレールがない崖も多く、小さな砂利が撒かれたりしていると恐怖です。そんな場所では崖からできるだけ離れて前だけを見ることにするのですが、暗くなってしまうとライトに照らし出される範囲しか見えないので崖かどうかも分からず、却って恐怖心は少な目で、Meo Vacの町を通過してDong Vanまで走りました。ホテルも食堂も値段はかなり高めのものが多く、安宿と食堂探しに手間取りました。

  


トゥエンクアン (Tuyên Quang) 省

2016-06-28 22:23:28 | 旅行

 「chè thái gái tuyên」という言葉を教えて貰ったのはたぶん20年ほど前のことで、「タイグエンのお茶」と並び称されるほどトゥエンクアンは美しい女性が多い、という意味のようでした。それなら一度は行ってみたい・・・などと思ったりもしましたが、かつて王宮に全国から美人を集めたため「古都フエは美人が多い」という話と同じように期待倒れになるだけという気がして長いこと忘れていました。しかし、トゥエンクアンについての知識はそれ以外に何一つなく、ヴィンロクの町で夕食に入った店では店員や客の若い女性の顔をまじまじと眺め、「確かにそうかも知れない」という気もして来ました。

トゥエンクアン市に向かう省道189は標識があったので迷うこともありませんでした。雲南からハザン省を経由して流れるLô河に架かるBợ橋を渡ると4~5kmで国道2号に交差し、左折して南下すると30~40kmで市内に着きます。

   

 時間もあったので市内に入る10㎞ほど手前で右折してみました。高床式の住宅があり、家畜がのんびりと草を食んでいました。ちょうど家から近所の集まりに出掛ける婦人が出て来まそた。Dao族のQuan Trangという民族だそうです。田園風景の中には国道沿いに建っているようなレンガ造りの家もありましたが、最近引越して来たKinh族の家だとか。

       

 トゥエンクアンの市街地は国道からはやや離れていました。16世紀に建てられた莫朝の城門が残されており、紅河平野に近づいた印象を受けます。省人口約75万。少数民族が半数強を占め、ちょうど山地と平野部の中間地点でもあり、政治・軍事的にも歴史的に要衝の地であったようです。莫氏の権力が打ち立てられた1527年頃から1699年までの間、この地はVũ Văn Uyênに始まるVu氏一族の支配が続いたとのこと。また、フランスによる北部ベトナム植民地化の過程では黒旗軍や雲南軍とフランス軍との激しい戦闘が繰り広げられた地でもあったとか。地図を見るとViet Triで紅河に合流するLo河がほぼ直角に曲がった内側に市街地は位置しています。

           

ネット検索で見付けたHoa Maiホテルは一泊20万ドン(1000円)。やや古い造りの建物でしたがエレベータもあり洗濯物も安く、対応も親切でした。街の中心部にある池の中に博物館がありました。他の見学者の姿もなく、またスタッフの姿を見ることもなく・・・。しかし展示はそこそこ楽しめました。省内に居住する各少数民族の写真パネルには居住地域も記されていました。五つ角カブトムシやクワガタ、玉虫の標本などもこの地の自然環境が豊かであることを物語るものです。日本語の説明があればちゃんと理解できたのでしょうけど、ほぼ消化不良のまま引き上げました。

         

 バイクのメータが5,000kmを超えていたのでオイル交換と洗車をしました。メコンデルタを走って千キロで一回、二回目はニンビンのタムコックで3千キロ時。これが三回目です。雨が降ったり止んだりの天気でしたが、40kmほど東に位置するTân Trào の歴史遺跡まで出かけました。歴史遺跡と言っても71年前の1945年8月13日、この地で共産党が全国会議を開催し8月革命の蜂起を決定したという現代史に関わるものです。解放勢力の暫定首都ともされたとか。

      

 ここにも博物館があり、8月独立革命に関する展示がありました。立ち寄ったところ夕方近くのためか他に見学者はなく、しかしTV局の取材があったためサクラの役を演じさせられ、何度もベトナム語で書かれた説明文を読んでいる振りをすることに。

       

Tân Trào から東へは5kmほどでタイグエン省。そのためか丘には茶畑が広がっていました。道路沿いには花を着けたタンロン(ドラゴンフルーツ)も見えました。


バッカン(Bắc Kạn)省

2016-06-25 11:04:56 | 旅行

カオバン市街から南西に向かう国道3号でバッカン省バッカン市に向かいました。2014年の省人口33万人は全国で一番少ない数で、面積4,859㎢は平均的な広さ。人口の過半数がTay族で、次に多いのがDao族、Kinh族、Nung族と続きます。今までバッカン省に関して唯一知っていたのは2001~11年の間共産党書記長であったノンドゥックマン(Nông Đức Mạnh)の出身地ということだけ。

それと言うのも書記長就任当時、西欧メディアが故ホーチミンの隠し子ではないかとの噂を流しベトナム国内でも噂話として耳にしたからでした。誕生日は1940年9月11日とされており、ホーチミンが帰国したのは1941年ですからちょっと微妙な気もしますが。経歴を見ると1966年から1971迄の5年間、ソ連のレニングラードにある大学へ留学。ベトナム戦争が激化した時期に留学したわけで、その頃からエリート待遇であったことは確か。出生地とされるxã Cường Lợi, huyện Na Rì はカオバンにも近いランソン省との省境付近の村です。

      

道路沿いで薄い板を干している姿を何度か目にしました。中国に輸出し、合板に加工されるとのこと。

     

道路は舗装されていてバイクで走るのには快適でした。殆どが山道なので自転車は大変そう。それでもこの三人は楽しそうに大声で励まし合って坂を登っていました。急な坂では自転車を降りて歩く姿もしばしば。市街地だと電動自転車に乗る中高生の姿がとても多いのですが、山道では殆ど見ませんでした。市街地と山間部の所得格差の反映でしょうか?中国製の電動自転車は一台700万ドン(3万5千円)ほどだそうです。

青いスモモと桃が売られてました。ベトナムの桃を見るのはこれが初めて。桃はサイズも小さく、細い毛もないのでとても桃とは信じられず試食させて貰いました。確かに桃の味と香りでした。スモモはランソンで一つ食べさせて貰い、その酸っぱさに懲り懲り。酸っぱいのが苦手な人は塩を付けて食べるようです。

     

省人口の17%、57,800人が暮らすバッカン市。ここにも省都に相応しい(?)やたら大きな道路がありました。したがって交通量と道路脇の建物は疎らです。市街地には川が流れて雰囲気は良いのですが、川沿いにホテルはありませんでした。一泊して早々にバーベー国立公園(vườn quốc gia ba bể)に向かいました。バッカン省唯一の観光地のようです。

     

省道258を北上して西へ進むとba bể 湖。と地図にあり、確かに公園の入場料金徴収所もあり、リゾートホテルも建っていました。しかしチケットを買ったもののその先に進んでも小学校や民家があるだけで公園の入り口らしきものがありません。入場券を買ったら1km以内に公園があるだろう、との思いが誤りでした。再びチケット売り場に戻って公園の入り口を訊ね、工事中の道路脇をどうにかすり抜けて走ってみるとようやくba bể 湖への標識がありました。峠を越えて更に数キロ先。ba bể 公園に辿り着くとホテルも数軒あり、今日はここで一泊と思ったもののホテルは団体客らしき人々の姿があり気後れ。公園の中を走り抜けると着いたのは湖の畔、遊覧船の船着き場でこれまた気持ちが萎えてしまいました。

此処で時間を過ごす気にはなれず、トゥエンクアン方面に向かうことにしました。

     

 大ざっぱな位置関係はわかるものの具体的な道路については調べておらず、ノキアマップで現在地を確認するだけ。北部はMobiFoneの電波が届かない区域が多く、通話電波はVinafoneの表示に変わってしまいます。3Gのデータ通信用電波はローミングサービスがないようで使えません。たぶん旧軍隊系のVittelがカーバーする地域は一番広いようです。中国国境付近では尚更軍の通信網が強化されている筈だし。日本では糞の役にも立たないノキアマップですが、ベトナムの地図はそれなりに充実してます。その上電波が届かなくても地図上に現在地が表示されるので助かります。それ以外の使い勝手の悪さには腹を立て続けていますが。

それでトゥエンクアン方面へ行くのにも少し遠回りをしたようです。主要道路でない山道のためガソリンスタンドもなく、雑貨店の店先に設置されたガソリン料金は25%増しになっていました。山道で休憩したのはモン族の店で、彼らの間での会話はまるで中国語を話しているかのように感じられました。

    

夕暮れ近くに着いた町はトゥエンクアン省,Chiêm Hóa県のVĩnh Lộc。トゥエンクアン市街までは70数キロ残して此処に泊まることにしました。人口7,000人ほどの小さな町です。町の中心部を流れるガム河(sông Gâm)の水はとても綺麗でした。


Cao Bang の栗

2016-06-24 13:04:15 | 旅行

カオバン市街の市場の前で栗を売っているオバサンがいました。何故この時期に栗があるのか不思議に思い聞くと「カオバンで採れた栗」との返事。ホテルに戻ってネットで検索するとカオバン省チュンカィン(TRÙNG KHÁNH)県の栗が国内の特産品と紹介されていました。収穫期は9月とのこと。http://dacsanhatdetrungkhanh.blogspot.jp/

できれば収穫期に来てみたいものですが多分そんな機会はありそうもないので、せめて木だけでも見ておこくとにしました。地図を見ると何とチュンカィン県は行ったばかりのバンゾックの滝のある県で再び同じ道を進むことになりました。

    

道路沿いで売られていたのはキュウリが一番多く、その場で直ぐ食べられるのは茹でたトウモロコシぐらい。カオバンではコメ、トウモロコシ、キャッサバが主要作物のようです。茹でたトウモロコシは大きさによって2~3本で1万ドン(50円)。

    

省道205を北上したTra Linh県の村落風景。地図を見ると途中にCty CP NIKKO Vietnamというマンガン採掘の工場がありました。http://xn--tvlm-2na.vn/?page=home&id=4143542&site=16294 カオバン省で採掘されるマンガンは主に中国に輸出されるようです。カオバン省の輸出年約400億ドルの殆どなのかも。輸入は年約200億ドル。

    

この赤い実は何なのかわかりません。岩山が多いためか蘭も売っていました。道路脇で売っていたオバサンが足を擦りながら「此処が痛いんだけど薬を持ってないか」と言うので戸惑いました。医者に見て貰った方が良い、と答えながら、しかしこの辺に医者が居るとは思えず・・・。農家の庭を見せて貰うと柿の木がありました。魚を養殖している池も。四季を通して住んでみないとカオバンの暮らしを知ることはできないみたいです。

   

チュンカィンに向かう道は途中でクアンウエン(Quảng Uyên)の町を通ります。種を販売する店があり、コメやトウモロコシの種が並べられていました。かなり品種は多いようです。鍛冶の集落があり、刃物や農具が並べられていました。

  

チュンカィンの栗の木。花が咲いていました。滝を見に行く時に往復通った道ですがまったく気づきませんでした。見ようとする意志がなければ見えない物は多いのだとつくづく感じてしまいます。日中は暑く、カオバン市街は夜も暑かった。観光シーズンは栗や柿が実る秋が良さそうです。


バンゾックの滝-THÁC BẢN GIỐC

2016-06-16 20:26:48 | 旅行

カオバン省最大の観光地はバンゾックの滝で、ハノイからのツアーが多く企画されています。ウェブサイトの写真を見る限り一見の価値はありそうです。しかし、日本語のサイトで調べたところ10年ほど前の情報で此処へ行く外国人は事前に「入域許可証」が必要とのこと。迷った末に現地の旅行会社を訪ねて確認することにしました。2年前、カンボジア国境でベトナムの軍隊に拘束された挙句、二日も足止めされ罰金まで払わされ、風邪を引いて気管支炎になった悪夢が蘇ります。

ところが訪ねた朝は土曜日で旅行会社のオフィスは閉まっており、丸二日間待たねばなりません。更に3泊することになるので少し落ち着けるホテルに移ろうか・・・などと思っているとエレベータ付の新しいホテルが近くにありました。一泊40万ドンとの返事でしたが、3泊するからということで一泊30万ドンに値下げして貰い、早速荷物を移してから取り敢えずバイクでバンゾック方向へ出掛けました。

地図を見るとバンゾックの滝へは省道206号と記されています。市街から「BẢN GIỐC行き」と書かれたバスが走っており、また、分岐点には道路標識もありました。パクボに向かう道とは違って峠が多いのですが、道路は舗装され、行き交うバイクも多く「秘境」と呼ぶほどの地ではありませんでした。

     

新しいリゾートホテルも建っていて、目的地周辺に来たことはわかりましたが、ホテルに気を取られて看板を見落して直進し川沿いを南下して暫く走ってしまい、川向うに中国語の看板を見付けて慌てて引き返しました。滝の駐輪場にはレンタルバイクで訪れた欧米人旅行客の姿も多く、どうやら「入域許可証」は必要なさそう。

滝を見ながら一休みしていると青年男女に声を掛けられ、「峠で見掛けた」とのこと。確かに二人乗りのバイクに峠で抜かされました。旅は道連れ・・・ということで誘われるままに行動を共にすることに。近くの洞窟を見に行くことになりました。

      

後を付いてバイクを走らせると、滝から西南に2㎞ほどの所にグムガオ洞窟(Động Ngườm Ngao)がありました。1921年に発見され、1996年から観光地化されたとのことです。勿論、古い時代から現地の人々には知られていた洞窟であり、グムガオという言葉もTay語で「虎の洞窟」という意味で虎が生息していたとの言い伝えがあるそうです。

      

ランソンで見たものと同じ鍾乳洞ですが、規模と迫力はそれ以上のものでした。10人位を一グループとして係員が一緒に洞窟に入り案内と解説をしてくれるわけですが、長いセンテンスはまったく聞き取れません。すると同じグループに居た若い女性が親切にも流暢な英語に訳してくれることに。まったく自分にとっては有難迷惑で尚更意味不明。

かつてカオバンは金・銀の産地。かつては儂智高や莫氏残党の独立政権が中国にこの金を貢いで政治的支持を取り付けていたわけなので、洞窟の中に白くキラキラ光る岩を見て「もしや・・・」などと思ってしまったところ、「シリカ」です、とのこと。付近では採石作業中でしたが、道路建設用の採石のようでした。

      

 バンゾックの滝は、中国語で黑水河 (左江) 或は归春河の名で呼ばれ、ベトナム語ではSông Quây Sơn、中越国境をながれる河です。滝の左岸が中国領となるわけですが、一部ベトナム領の地となっている部分もあり、其処に国境市場がありました。滝の上流数百mの距離ですが、訪れるには道路がやや複雑。たぶん自力では行けなかった。多くの中国人客の姿がありました。並べられた商品は多くはベトナム製品でしたが特に、と思えるものではなさそうでした。滝の周辺でテントを張って泊まる予定の二人と共に再びバンゾックの滝に戻り、暫く休んだ後で一人でカオバン市街に戻りました。

 ホテルに戻ると不機嫌そうな女主人に代わって新人のレセプション壌がにこやかに迎えてくれて気分一新。今回の旅行で、まして北部のホテルの受付で初めて肩の力が抜けるような笑顔でした。

   


パクボ (Pác Bó) 洞窟

2016-06-15 21:31:54 | 旅行

カオバン市街から省道203号で北北東へ約55㎞、中国国境近くにPác Bó洞窟が遺跡として保存されています。1941年2月に30年振りに祖国ベトナムに帰国したホーチミンが隠れ住んだ洞窟です。道路は広い谷間を走っているのか平坦で、水田やタバコ畑が広がっていました。時折、水田の中に大きな水車が見えました。ちょうどタバコの収穫時期でタバコの葉を自宅に持ち帰る姿も彼方此方に。

 

昨日、お邪魔した市街地近くの農家の人々は不機嫌な対応でしたが、此処の人々は皆陽気で楽しそうでした。

 

家々にはレンガ造りの炉があり、収穫したタバコの葉はこの炉で乾燥させてからタバコ工場に出荷するのだそうです。気軽に迎え入れてくれた家でしばし休憩。日本に持って帰ってベトナムのタバコの葉を紹介してくれ、と一束土産に持たされてしまいました。1979年の中越戦争の時は北部5省は中国軍に占領された訳で、その時のことを聞くと「山に登って隠れた」とのこと。一ヶ月間食べ物がなくて苦労したそうです。

 

暑くて湿度の高いベトナムの気候の中で、土壁と竹や木で作られた家は見るからに涼しげでした。カオバン省は全国で最も少数民族の居住比率が高くキン族のベトナム人はわずか5.8%でしかありません。それでいて今回の国会議員選挙定数6名中、Tay族2名、Nhung族1名で他省出身のキン族が3名という構成。ホーチミンがこのカオバンの洞窟を根拠地としたようにTay族出身の革命家Hoàng Văn Thụら3名の活動がTay族やNung族の人々に支えられてこそ1945年の独立革命が可能であったという歴史的事実すら今や忘れ去られているかのようです。

 

洞窟付近は遺跡というよりは自然公園の趣で、川の水は冷たく澄んで魚が見え、木々に覆われて蝉が煩く鳴き続けていました。バスで訪れる団体の観光客も多く、遺跡見学というよりはピクニックの雰囲気でした。外国人観光客の姿もありましたが、殆どは省内から訪れた人々のようです。ホーチミンが居住した洞窟のなかにも入ることができ、質素なベッドが置かれていました。

 

今はこの地がホーチミン道路の起点とされているようです。


カオバン省カオバン市

2016-06-14 21:01:07 | 旅行

ランソン市街からカオバン市街までは北北東に約125㎞。大した距離ではないと出発したところ国道は工事中を含め惨憺たるものでダンプの舞い上げる砂埃に目をつぶりたくなるほど。たぶんこの地の地質が特に細かい粒子を作り出しているようです。交通量は少ないものの子供たちが自転車で通学する姿もありました。山中の悪路で心配なのはタイヤのパンク。午前中なのでそれでも夜よりはまだ救いもありそうですが、その代わり暑さが堪えます。風を切るほどのスピードは出ず、ハンドルを握る手に力が入ります。

     

     

昼飯時になってようやくThat Kheの町に着き、食堂も人が多く安心して食べることができました。しかし、食後は一段と日差しが強くなり、店の人に気遣われてしばし休憩。ランソンの市街ではなかった人々の優しさを感じました。この先も道が悪いのか?と聞くと「そうだ」との返事。やれやれと思いつつ出発し、しばらくすると省境があり、カオバン省に入ると道路状況は一変して良くなっていました。

国道だから省に関係なく整備されるものかと思っていましたが、どうやら実情は異なるようです。風景も変わり田園地帯が多くなりました。今まで見なかった馬の姿が彼方此方にありました。牛や水牛は見知らぬ人間が近付くと、警戒心からかじっと見つめる習性があるのですが、馬はまったく無関心のようで近付いてカメラを向けても後ろを向いてひたすら草を食むだけ。

カオバン市内に入り、まだ陽も高いので何軒かホテルを回って料金を訊ねました。しかし、ランソン市内同様やや高めで40万ドンほど払わないとそれなりの部屋には泊まれそうもありませんでした。空室だらけなのに。仕方なく30万ドンでミニホテルの窓のある部屋に。他に客も居ないのに道路に面したベランダ付の部屋は35万ドンだからということで融通を効かせてはくれません。一階はカフェになっていましたが、一度も客が居たところを見たことはなく、それもその筈、コーヒー一杯2万ドン。

市街の中心部は北から南に流れる川に挟まれた狭い地域で、何処かで川を眺めながらコーヒーでも飲もうと探しましたが、適当な場所は見つからず、橋を渡って郊外の畑を見に行きました。5万人の人口を抱える近郊農業だけにスプリンクラー付で各種野菜が栽培されていまいた。

     


ドンダン要塞があった町

2016-06-11 00:34:11 | 旅行

首都ハノイから一番近い中国国境ゲート「友誼関」があるランソン省のドンダン(Đồng Đăng)。ランソンに一泊した翌朝、出掛けてみました。わずか15㎞ほどの距離です。モンカイやラオカイのような賑やかさを想像していたのですが、余りにも閑散とし、しかも土埃が舞う工事中なので即退散。引き返してドンダンの町に宿を探しに行きました。

中越関係では古くは宋朝の軍が陸路この地を越えてハノイへと迫ったわけですが、ハノイへは現在道路で180㎞足らず。江戸から白河の関よりも近く、ホーチミン市とメコンデルタ諸都市ほどの距離でしかありません。今はハノイ周辺で犯罪を犯した逃亡者が国外脱出を試みる地でもあるようです。戦時には軍事道路となったわけですが、平和時には宗主国中国の使節を迎えるために道々には飾り付けがなされたとか。今回のオバマ大統領訪越時は知りませんが、以前クリントンが退任間近に来越した際は空港かららの沿道に人々が立ち並んでいたのを見た記憶があります。たぶんかつてはもっと派手に出迎えたのでしょう。

しかし、そのような歴史的な遺産を感じさせるものは見当たらず、フランス軍がかつて築いたというドンダン要塞の位置もわかりませんでした。1940年の仏印進駐時と1945年仏印処理時の2回、旧日本軍も中国からこの地を通過しました。1945年の戦闘は激戦だったようで、当時の日本兵の手記なども残されています。「サイゴンに死す-四戦犯死刑囚の遺書」は読んでいませんが、この戦闘時に日本軍が投降したフランス将兵を「キールア洞窟」で虐殺した責任を問われた裁判だったのでしょうか?

     

ドンダンの町は、1945年当時「美しい街」と日本兵が手記に遺したとは思えぬもので、駅前には人影も殆ど見当たらないほどの寂れようでした。外見はしっかりしたホテルと思えたドンダン・ホテルで料金を訊ねると一泊18万ドン(900円)とのこと。その安さに引かれて泊まることにしました。が、やはり安いだけの理由があって、エレベータは長いこと故障中、エアコンとホットシャワーは使えるもののトイレのタンクへの配水がありません。ベランダの鍵は壊れたままで、各部屋のベランダから投げ捨てられたゴミが地面に散乱していました。

「キールア洞窟」が何処にあったのかが気になり、調べてみると少数民族の市が開かれる「Kỳ Lừa市場」や「Kỳ Lừa橋」の名はランソンの町に残っていますが、洞窟は分かりませんでした。観光地になっている洞窟は、Tham Thanh, Nhi Thanh, Chua Tienの三つがあり、二カ所だけ訪れました。鍾乳洞で内部は色付きのライトアップがされているので、暑さ凌ぎにはなるけど・・・と感じるところでした。

     

Tham Thanh洞窟の近くにはカオバンに逃れて明・清朝の庇護の下1677年まで続いた莫朝の城跡があり、地形・地質的に洞窟の数も多いようです。そこでふと思うのですが、この中国による莫氏支持が二つのベトナム政策の始まりだったのではないか・・・と。もっとも当時は鄭・阮の南北対立の時代でしたから三つのベトナムでした。チャンパを含めれば四つの政権。

     

計画性のない旅行のため、ランソンの町やドンダン、またその周辺の田園地帯を何度か行き来しました。ランソンの町では外国人故かぼられることも多く、ガソリンスタンドで1万ドン多く請求された時はついに爆発して店員に喰って掛かりました。換算すれば僅か50円。目くじら立てるほどの金額ではない筈ですが、年令を重ねても寛容さは身に付かないものだと、後になってつくづく思います。

     

白壁が綺麗に見えたので家の前まで行くと、若い男性が「水でも飲んで行け」と家に入れてくれました。この周辺はNung族の人々の村だそうで、入り口には漢字の貼り紙がありました。彼の母親と一歳に満たない子供が一人。奥さんは昨日から200㎞離れた工場に出稼ぎに行っているとのこと。

今回の国会議員選挙でランソン省からの選出定員は6名。結果を見ると、Kinh族2名、Tay族1名、Nung族3名が当選していました。Kinh族の2名はゲアン省とハーティン省の出身で現住所もハノイとハーティン。

 


国境の街モンカイからランソン

2016-06-07 23:03:07 | 旅行

Van DonからCam Pha方面に引き返し、再び北東方向に進んでモンカイ市に至りました。ランソンほど知名度は高くありませんが、その分何処か魅力的なものがあるのかと期待していたわけですが、期待はずれでした。とりあえず国境ゲートまで行ってはみたものの中国人旅行客に中国語で話しかけられただけ。たぶん、国境近くのベトナム人は中国語を話す人が多いからなのでしょう。この街で一晩泊まる気にはなれず、急遽予定を変更してランソンに向かいました。

中国国境に接する省はクアンニン省を含め5省あり、1991年統計を見ると隣接するランソン省は少数民族比率が84%であるのに対し、このクアンニン省だけが極端に低く11%となっています。75年統一後の中越関係の悪化の際に、それまでの中国籍のままベトナムに居住していた少数民族が出国を余儀なくされたということも影響しているようです。

     

 モンカイからは再び同じ道、国道18号を途中まで引き返し、国道18Cを北上しました。静かな田園風景を見てはバイクを止めていたのでランソンに着く前に日が暮れてしまい、少々焦りつつもどうにか市内に入りました。

     

おやつ代わりにキュウリを食べてた男の子。子供の頃、農家の友達の家の土間で味噌を塗って食べたキュウリを思い出しました。

ランソン市街はモンカイよりも小さめで、ホテル探しも容易でした。疲れていたので少々高めの料金でも仕方ないと思い、40万ドンの部屋に一泊することにし、パスポートも預けたのですが、外に居たガードマンが駐輪場所について延々と説教を始めたので気分を害し、再びレセプションに戻ってパスポートを返して貰いました。で、結局他に宿泊客の居ない20万ドンの安ホテルに泊まることに。