GOVAP便り

プノンペンからモンドルキリに、その前はTAY NINH省--AN GING省--HCM市GO VAP

旧ライチャウ(Lai Châu)市で聞いた日本語

2016-07-17 00:59:59 | 旅行

5月20日、ディンビエンフ―方向に国道12号を南下すると夕方5時近くになって川沿いの細長く小さな町、ムンレイ(Mường Lay)に着きました。ホテルもあり一安心。初めて知る町の名前でした。凄まじい暑さだったのでシャワーを浴び、下着やTシャツも洗濯し、部屋の中に干してから町を歩きました。

   

町の北側にはDa河が西から東へ流れ、国道12号沿いの川と交わっています。町は国道12号沿いの川の両岸に高床式の民家が連なり今までにない景観を見せていました。川の水量はまだこの季節少なく河川敷は田圃だったりトウモロコシが植えられたりしています。子供たちが草むしりをしていたので声を掛けてみました。

   

 自己紹介して日本人だと告げると男性は、「日本語、日本語、ジョートーナー」と言い、何のことやら一瞬戸惑いましたが、「上等なー」だと気付き驚きました。開高健「ベトナム戦記」や近藤紘一の「戦火と混迷の日々」にも出て来た言葉です。旧日本軍人がベトナムやカンボジアでこの言葉を乱発していたからなのでしょう。フランス語も知ってるぞ・・・と幾つかの単語を披露してくれました。1945年、この旧ライチャウ市にも日本軍が駐屯していたそうです。76才の男性は、計算すると当時5才。こんな山間の狭い土地がどんな戦略的意味を持っていたのか疑問にも思えるのですが、しかしこの男性の脳裏に70年もの間刻みこめれた「ジョートーナー」という言葉こそ日本軍人が駐屯していたことの証明なのでしょう。

   

翌朝何軒かの民家にお邪魔して話を聞かせて貰いました。川沿いに住む人々は河川敷の土地が雨期の後半には冠水するため米も年一回しか作れないとのこと。山腹に住む人々が農産物を売りに来ていました。家々の電気もDa河下流のソンラー発電所が完成した2012年以降になってからようやく使うことができるようになったそうです。


サパからライチャウ省

2016-07-15 07:14:20 | 旅行

一週間以上もバイクで旅行を続けるなんてことは考えてみれば初めてのことで、時計の針のは一定でも思考力は遅滞・鈍化するのでどうも頭の中が整理されないままでした。ブログを書くのも遅れ続け、今は日本に帰って書いているわけですが、それでも一週間、二週間、一ヶ月遅れとなり、気が付けば既に二ヵ月近く遅れてしまいました。

ラオカイからサパを通ってライチャウ省に向かったのは5月20日。前日もサパへ出掛けのんびりとした時間を過ごして来たので同じ道を走ることに。20年前はラオカイ駅前からサパまでの35㎞ほどを「ミンスク」Mинск のバイクタクシーに乗りました。途中で「エンジンが過熱した」とミンスクを止め、沢の水で冷やしたりもしていたのですが、今は当時と比べ山道の交通量は増え、訪れる観光客も格段に多くなったようす。ミニ・ホテルなども増え、尚且つ建設中のものもあるためトラックの往来も少なくありません。ミンスクはすっかり姿を消してしまいました。当時、ハノイでミンスクを売る店を見掛けましたが、店の人は皆ホンダに乗っていたのを思い出します。

  

暫く味の素の缶コーヒーばかり飲んでいたので久しぶりにカフェでドリップ・コーヒーを堪能しました。ファンシパンの山を見渡せる「ファンシパン」という名のカフェテラス。その後6月の初め、ファンシパン登山中のイギリス人が行方不明となり5日後に遺体で発見されるという事故が伝えられました。http://www.viet-jo.com/news/social/160609090353.html

    

    

    

道路脇で農産物を売る姿の中にトウモロコシを焼く姿がありました。焼きトウモロコシは好物なのでしばしの休憩。「私たちは〇〇族だけどあなたは?」と聞かれ、日本人だと答えると「ああ、やっぱり。そうだと思った」とのこと。話し方が日本人っぽいそうです。サパを訪れる数々の外国人と接しているからなのかも知れません。

    

サパからライチャウ市(Thành phố Lai Châu)までは70kmほど。山を下るにつれ暑さが厳しくなりました。市内で一泊と思っていたわけですが、市内に入って片側5車線の「立派」な道路と閑散とした街並みを見て気が変わりましたちょうど昼時の酷暑だったためか人影は滅多にありません。ゴーストタウンの趣すら感じさせてくれます。

ダクラック省を分割してできたダクノン省の省都ザーギア(Thị xã Gia Nghĩa)と同じく、現在のライチャウ市も2004年に旧ライチャウ省がディエンビエン省と二つに分割された際にPhong Thổ県のPhong Thổの地に設立され、旧ライチャウ市はムンレイ(thị xã Mường Lay)と改称されたとのことです。

人間の生活感のない官僚制的雰囲気のみのコンクリートの行政都市と言うか、都市と呼ぶにはあまりにも人の姿が見えません。昼飯を食べる店を探しても見当たらず、空腹のままディエンビエンフー方向に走り出しました。予め調べれば分かることも多かった筈ですが、この日も行き当たりばったり。西に進むにつれ日差しが強くなりました。日暮れまでにディエンビエンフーに着くのは無理そうですが、その手前の何処かの町で泊まるつもりでした。


ハザン省からラオカイ市まで

2016-07-12 14:23:43 | 旅行

ドンバンからハザン市街に戻り、翌朝はラオカイに向かうつもりで国道2号沿いの市街地南部で宿を探しました。建物は古めですが中心部に比べ料金は安く、今回初めて15万ドン(750円)の部屋に泊まりました。また近くに師範短大があるためか、物価もかなりの安さ。フランスパンのサンドウィッチ+サトウキビ・ジュース、ドンバンの町では2万5千ドンでしたが、此処では1万5千ドン。

隣接するラオカイへの道をノキアマップ(Here maps)で探すと表示されたルートは、国道2号を北上して中国国境を越え雲南省を暫く北北西に進んでから南西に下り、約200㎞でラオカイ着というものでした。この国境ゲートはハザン省唯一の外国人も通行可能な国際ゲートなので不可能ではないわけですが、ベトナムへの再入国の際にはVISAの再取得もしなければならず面倒。そもそも中国をバイクで走ることが可能かどうかも調べてないし、そのつもりもありませんでした。グーグルマップで調べると国道2号を一度南下し、tt.Viet Quangで国道279を西進、AH14を北上してラオカイに至るルートでも200kmほどの距離。

国道279に入ると交通量も少ない田園風景の中でした。此処はハザン省でも標高100mほどでしかなく、稲もだいぶ成長していました。しかし道路状況は悪く未舗装の凸凹が続き、路線バスが通る度に土埃が舞い上がります。「Yen Bai」と表示された路線バスは度々停まって乗客の乗降があるため追い付きたくなくても追い付いてしまうこともあり、しかもバスは悪路でも速度を落とすことなくバイクを蹴散らすかのように走り去ります。その間30㎞程度だったようですが、スピードを上げられないのでかなり長い時間に感じました。そして道路は悪路のまま山を登り始め、いい加減疲れて「峠の茶屋」みたいな小屋があったので休憩しました。昼間から酒を飲んでる男性に近寄るのは趣味ではありませんが、兎に角腰を下ろして寛ぎたい一心。気の良い人たちで酒を無理強いされることもなく、バイクの値段やら何やら暫く世間話をしていると気分も改まり、悪路の山道を登る気力も湧いてきました。

   

 ところが、走り出して数キロも経たない内にラオカイ省との省境となり、それを越えると見違えるような舗装路に変わりました。ラオカイ省とハザン省の財政の差であることは間違いなさそう・・・などと思いながら舗装路を快適に走りました。

   

ホテルなどのビルが増えた ラオカイの市街は20年前の記憶が嘘のように思えるほどでした。ハザン市と比べると尚更その発展ぶりが目立ちます。調べてみると、2015年の63省の競争力(Provincial Competitiveness Index)でラオカイは62.32で上位5番目にランクされ、ハザンは50.45で下から2番目に位置してました。https://en.wikipedia.org/wiki/Provincial_Competitiveness_Index

中国との国境貿易によるものなのでしょうか?安いホテルを探して値段を聞いて回ったり、店で買い物しても中国語で応対され続けました。

  

20年前はソ連製ミンスクバイク、ミンスクが並んでいたラオカイ駅前は、今はその面影がまったくありませんでした。


蕎麦の花(Hoa tam giác mạch)

2016-07-08 16:08:41 | 植物

Đồng Vănの町は標高1,000mを超えるためHà Giang市よりも6度近く気温が下がることになり、泊まったミニホテルには掛け布団がベッドに置いてあり、久々の心地良い暖かさでした。ホテルの名前は「Tam giác mạch」。ホテルの主人の話によるとハザン省の代表的な花の名前だそうです。花が咲くのは秋で、その時が観光シーズンとのこと。一泊25万ドンの宿泊料が35万ドンになり、それでも満室になるのだとか。

   

マーピーレン(Mã Pì Lèng)峠の風景が綺麗だと教えられ、昨夜通った道ですが暗くて見えなかったので出掛けてみました。どの辺がその峠なのかは分かりませんでしたが険しい崖が続いていました。牛の餌なのか或は「柴刈り」なのでしょうか?此処ではお爺さんの仕事ではないようです。

      

 見晴らしの良い場所に建物があり、展望台のようになっていて特産品の農産物が売られていました。その中に見覚えのある蕎麦の実もあったのですが、見た時はそれが蕎麦と思い出したのはドンヴァンを去ってからのことでした。どの様に調理して食べるのかも聞かず仕舞いだったのでネットで検索したところ、右上の画像が出て来ました。餅のようにして食べるみたいです。

     

 恐らく「この上に登ってはいけません」とでも書かれた貼り紙があるようです。にも拘らず三人の女性が来て絶壁の上に立ちスマホに画像を収めていました。足腰の筋肉が衰え、階段で躓くこともしばしばの身には何とも無謀な自殺行為としか思えません。

   

カンボジアと比べると山の中でも電気は驚くほど普及していましたが、水には苦労しているようでした。

   

   

   

 「Tam giác mạch」蕎麦の花は10月頃がシーズンと聞いていたので今回は見ることができないと思っていました。ところが帰り道でカメラを向けている時に出会った旅行者-ハノイの学生にこの花の名を聞くと、これがTam giác mạchとのこと。

   

 ドンバンの町に二泊した後、国道4Cを南西に進みハザン市街に戻りました。僅か130㎞、バイクで3時間、自動車なら2時間半とホテルの主人は言ってましたが、誇張ではなさそうな道路事情でした。

   

 ハザンの市街を去ってから知ったことですが、1945年の仏印処理の際、ハザンに駐屯していた外国人部隊に対し旧日本軍が武装解除時に発砲して殺害した罪で戦後になってサイゴンの軍事法廷で死刑となり二名が処刑されたとのこと。しかもこの二名は最後まで冤罪を主張していたそうです。


ベトナム最北の省、ハザン(Hà Giang)

2016-06-29 23:35:40 | 旅行

Lo河の流れにほぼ沿いながら走る国道2号を北上してハザンに向かいました。途中の路上市場でバイクを止めて休憩。白く丸い野菜が何なのか気になっていたので訊ねてみました。

  

白い小ナスの塩漬け「cà muối」は南部にもありますが、これだけは北部が圧倒的に美味しい。と、いうかこれ以外の食べ物で北部で美味しいと感じる食べ物は滅多にないかと・・・。そして、緑色がかった大きなものは白ナスの大きい品種なのかと思っていたわけですが、此処で試食させて貰いました。すると予想に反し子供の頃に食べた記憶のある「甜瓜」の味がしました。大きいものはソフトボールほどのサイズです。一個ください、と言ったら1kg買えと言われ、6個ほど袋に入れられました。それでも1万ドン(50円)で、缶コーヒー一本の値段。

    

国道沿いの風景は退屈で時間も早かったので「Quang Minh湖」の標識を見て道を折れました。小さな湖でした。小魚を獲る小舟や筏が静かに浮かんでいました。

    

ハザンの市街地はLo河に沿って南北に長く、平野部の面積は限られています。ここで国道2号は左折し、Lo河沿に北北西へ向かい雲南の中国国境へ。南東方向へは国道34号がカオバンへと続いています。そして国道4Cが最北の町Dong Vanに向かいます。と、ちゃんと地図で調べてから出発すべきでした。

翌朝、Dong Vanへと向かったところ、1時間ほど走って早々に雨。一時間近く雨宿りして待ったものの雨は上がりそうもなく、どうせ山道なので何処かでは降ってる筈。雨具を着て出発しました。道路は工事中箇所の多い悪路に水溜りまで出来て最悪状態。ノキアマップに記されたルートは国道34号を進み、途中で左折北上するものでした。

    

交通量は少なく、ダンプカーが通るだけ。で、何時しかダンプの後に着いて走るようになり、分岐点でもスマホの地図を確認しないでダンプと同じ方向へ。そして悪路の急な坂を登り終えたら、突き当りは採石工場の門でした。スマホで現在地を確認すると道路の表示がない山の中。苦労した挙句にとんでもない結末が待ち構えていたというのは人生では珍しいことでもありませんが・・・。今回はただ同じ道を引き返せば良いだけのこと。しかも今度は下り坂だし、雨も上がり始めました。

    

道を戻って分岐点を過ぎると舗装された道路に出ることになり一安心。雨上がりの田園風景を楽しみながら何度もバイクを止めて気分は爽快。日本の子供やベトナムの都会の子供を見ても自分の子供の頃を思い出すことはないのに、何故かカンボジアや少数民族の子供の姿には懐かしさを覚えます。

    

10年ほど前だったか、雲南に旅行した時に見た棚田とも似た風景が広がっていました。スマホのノキアマップに疑問も持たずに通なりに進めばDong Vanに着くものと思ってました。しかし、下のグーグルマップの地図のルートとは異なり、省道176号なる山の中を行く道路で、160㎞ほど走ってガソリンも残り少なくなってしまいました。6時頃、三叉路にある小さな町のガソリンスタンドで給油して道を尋ねるとDong Vanへはどちらの道でも約60㎞とのこと。「山道なので着くのは8時になるかもねー、手前にMeo Vacの町がある」と聞いたので道が険しかったらMeo Vacで泊まるつもりで走り出しました。

  

ガードレールがない崖も多く、小さな砂利が撒かれたりしていると恐怖です。そんな場所では崖からできるだけ離れて前だけを見ることにするのですが、暗くなってしまうとライトに照らし出される範囲しか見えないので崖かどうかも分からず、却って恐怖心は少な目で、Meo Vacの町を通過してDong Vanまで走りました。ホテルも食堂も値段はかなり高めのものが多く、安宿と食堂探しに手間取りました。

  


トゥエンクアン (Tuyên Quang) 省

2016-06-28 22:23:28 | 旅行

 「chè thái gái tuyên」という言葉を教えて貰ったのはたぶん20年ほど前のことで、「タイグエンのお茶」と並び称されるほどトゥエンクアンは美しい女性が多い、という意味のようでした。それなら一度は行ってみたい・・・などと思ったりもしましたが、かつて王宮に全国から美人を集めたため「古都フエは美人が多い」という話と同じように期待倒れになるだけという気がして長いこと忘れていました。しかし、トゥエンクアンについての知識はそれ以外に何一つなく、ヴィンロクの町で夕食に入った店では店員や客の若い女性の顔をまじまじと眺め、「確かにそうかも知れない」という気もして来ました。

トゥエンクアン市に向かう省道189は標識があったので迷うこともありませんでした。雲南からハザン省を経由して流れるLô河に架かるBợ橋を渡ると4~5kmで国道2号に交差し、左折して南下すると30~40kmで市内に着きます。

   

 時間もあったので市内に入る10㎞ほど手前で右折してみました。高床式の住宅があり、家畜がのんびりと草を食んでいました。ちょうど家から近所の集まりに出掛ける婦人が出て来まそた。Dao族のQuan Trangという民族だそうです。田園風景の中には国道沿いに建っているようなレンガ造りの家もありましたが、最近引越して来たKinh族の家だとか。

       

 トゥエンクアンの市街地は国道からはやや離れていました。16世紀に建てられた莫朝の城門が残されており、紅河平野に近づいた印象を受けます。省人口約75万。少数民族が半数強を占め、ちょうど山地と平野部の中間地点でもあり、政治・軍事的にも歴史的に要衝の地であったようです。莫氏の権力が打ち立てられた1527年頃から1699年までの間、この地はVũ Văn Uyênに始まるVu氏一族の支配が続いたとのこと。また、フランスによる北部ベトナム植民地化の過程では黒旗軍や雲南軍とフランス軍との激しい戦闘が繰り広げられた地でもあったとか。地図を見るとViet Triで紅河に合流するLo河がほぼ直角に曲がった内側に市街地は位置しています。

           

ネット検索で見付けたHoa Maiホテルは一泊20万ドン(1000円)。やや古い造りの建物でしたがエレベータもあり洗濯物も安く、対応も親切でした。街の中心部にある池の中に博物館がありました。他の見学者の姿もなく、またスタッフの姿を見ることもなく・・・。しかし展示はそこそこ楽しめました。省内に居住する各少数民族の写真パネルには居住地域も記されていました。五つ角カブトムシやクワガタ、玉虫の標本などもこの地の自然環境が豊かであることを物語るものです。日本語の説明があればちゃんと理解できたのでしょうけど、ほぼ消化不良のまま引き上げました。

         

 バイクのメータが5,000kmを超えていたのでオイル交換と洗車をしました。メコンデルタを走って千キロで一回、二回目はニンビンのタムコックで3千キロ時。これが三回目です。雨が降ったり止んだりの天気でしたが、40kmほど東に位置するTân Trào の歴史遺跡まで出かけました。歴史遺跡と言っても71年前の1945年8月13日、この地で共産党が全国会議を開催し8月革命の蜂起を決定したという現代史に関わるものです。解放勢力の暫定首都ともされたとか。

      

 ここにも博物館があり、8月独立革命に関する展示がありました。立ち寄ったところ夕方近くのためか他に見学者はなく、しかしTV局の取材があったためサクラの役を演じさせられ、何度もベトナム語で書かれた説明文を読んでいる振りをすることに。

       

Tân Trào から東へは5kmほどでタイグエン省。そのためか丘には茶畑が広がっていました。道路沿いには花を着けたタンロン(ドラゴンフルーツ)も見えました。


バッカン(Bắc Kạn)省

2016-06-25 11:04:56 | 旅行

カオバン市街から南西に向かう国道3号でバッカン省バッカン市に向かいました。2014年の省人口33万人は全国で一番少ない数で、面積4,859㎢は平均的な広さ。人口の過半数がTay族で、次に多いのがDao族、Kinh族、Nung族と続きます。今までバッカン省に関して唯一知っていたのは2001~11年の間共産党書記長であったノンドゥックマン(Nông Đức Mạnh)の出身地ということだけ。

それと言うのも書記長就任当時、西欧メディアが故ホーチミンの隠し子ではないかとの噂を流しベトナム国内でも噂話として耳にしたからでした。誕生日は1940年9月11日とされており、ホーチミンが帰国したのは1941年ですからちょっと微妙な気もしますが。経歴を見ると1966年から1971迄の5年間、ソ連のレニングラードにある大学へ留学。ベトナム戦争が激化した時期に留学したわけで、その頃からエリート待遇であったことは確か。出生地とされるxã Cường Lợi, huyện Na Rì はカオバンにも近いランソン省との省境付近の村です。

      

道路沿いで薄い板を干している姿を何度か目にしました。中国に輸出し、合板に加工されるとのこと。

     

道路は舗装されていてバイクで走るのには快適でした。殆どが山道なので自転車は大変そう。それでもこの三人は楽しそうに大声で励まし合って坂を登っていました。急な坂では自転車を降りて歩く姿もしばしば。市街地だと電動自転車に乗る中高生の姿がとても多いのですが、山道では殆ど見ませんでした。市街地と山間部の所得格差の反映でしょうか?中国製の電動自転車は一台700万ドン(3万5千円)ほどだそうです。

青いスモモと桃が売られてました。ベトナムの桃を見るのはこれが初めて。桃はサイズも小さく、細い毛もないのでとても桃とは信じられず試食させて貰いました。確かに桃の味と香りでした。スモモはランソンで一つ食べさせて貰い、その酸っぱさに懲り懲り。酸っぱいのが苦手な人は塩を付けて食べるようです。

     

省人口の17%、57,800人が暮らすバッカン市。ここにも省都に相応しい(?)やたら大きな道路がありました。したがって交通量と道路脇の建物は疎らです。市街地には川が流れて雰囲気は良いのですが、川沿いにホテルはありませんでした。一泊して早々にバーベー国立公園(vườn quốc gia ba bể)に向かいました。バッカン省唯一の観光地のようです。

     

省道258を北上して西へ進むとba bể 湖。と地図にあり、確かに公園の入場料金徴収所もあり、リゾートホテルも建っていました。しかしチケットを買ったもののその先に進んでも小学校や民家があるだけで公園の入り口らしきものがありません。入場券を買ったら1km以内に公園があるだろう、との思いが誤りでした。再びチケット売り場に戻って公園の入り口を訊ね、工事中の道路脇をどうにかすり抜けて走ってみるとようやくba bể 湖への標識がありました。峠を越えて更に数キロ先。ba bể 公園に辿り着くとホテルも数軒あり、今日はここで一泊と思ったもののホテルは団体客らしき人々の姿があり気後れ。公園の中を走り抜けると着いたのは湖の畔、遊覧船の船着き場でこれまた気持ちが萎えてしまいました。

此処で時間を過ごす気にはなれず、トゥエンクアン方面に向かうことにしました。

     

 大ざっぱな位置関係はわかるものの具体的な道路については調べておらず、ノキアマップで現在地を確認するだけ。北部はMobiFoneの電波が届かない区域が多く、通話電波はVinafoneの表示に変わってしまいます。3Gのデータ通信用電波はローミングサービスがないようで使えません。たぶん旧軍隊系のVittelがカーバーする地域は一番広いようです。中国国境付近では尚更軍の通信網が強化されている筈だし。日本では糞の役にも立たないノキアマップですが、ベトナムの地図はそれなりに充実してます。その上電波が届かなくても地図上に現在地が表示されるので助かります。それ以外の使い勝手の悪さには腹を立て続けていますが。

それでトゥエンクアン方面へ行くのにも少し遠回りをしたようです。主要道路でない山道のためガソリンスタンドもなく、雑貨店の店先に設置されたガソリン料金は25%増しになっていました。山道で休憩したのはモン族の店で、彼らの間での会話はまるで中国語を話しているかのように感じられました。

    

夕暮れ近くに着いた町はトゥエンクアン省,Chiêm Hóa県のVĩnh Lộc。トゥエンクアン市街までは70数キロ残して此処に泊まることにしました。人口7,000人ほどの小さな町です。町の中心部を流れるガム河(sông Gâm)の水はとても綺麗でした。


Cao Bang の栗

2016-06-24 13:04:15 | 旅行

カオバン市街の市場の前で栗を売っているオバサンがいました。何故この時期に栗があるのか不思議に思い聞くと「カオバンで採れた栗」との返事。ホテルに戻ってネットで検索するとカオバン省チュンカィン(TRÙNG KHÁNH)県の栗が国内の特産品と紹介されていました。収穫期は9月とのこと。http://dacsanhatdetrungkhanh.blogspot.jp/

できれば収穫期に来てみたいものですが多分そんな機会はありそうもないので、せめて木だけでも見ておこくとにしました。地図を見ると何とチュンカィン県は行ったばかりのバンゾックの滝のある県で再び同じ道を進むことになりました。

    

道路沿いで売られていたのはキュウリが一番多く、その場で直ぐ食べられるのは茹でたトウモロコシぐらい。カオバンではコメ、トウモロコシ、キャッサバが主要作物のようです。茹でたトウモロコシは大きさによって2~3本で1万ドン(50円)。

    

省道205を北上したTra Linh県の村落風景。地図を見ると途中にCty CP NIKKO Vietnamというマンガン採掘の工場がありました。http://xn--tvlm-2na.vn/?page=home&id=4143542&site=16294 カオバン省で採掘されるマンガンは主に中国に輸出されるようです。カオバン省の輸出年約400億ドルの殆どなのかも。輸入は年約200億ドル。

    

この赤い実は何なのかわかりません。岩山が多いためか蘭も売っていました。道路脇で売っていたオバサンが足を擦りながら「此処が痛いんだけど薬を持ってないか」と言うので戸惑いました。医者に見て貰った方が良い、と答えながら、しかしこの辺に医者が居るとは思えず・・・。農家の庭を見せて貰うと柿の木がありました。魚を養殖している池も。四季を通して住んでみないとカオバンの暮らしを知ることはできないみたいです。

   

チュンカィンに向かう道は途中でクアンウエン(Quảng Uyên)の町を通ります。種を販売する店があり、コメやトウモロコシの種が並べられていました。かなり品種は多いようです。鍛冶の集落があり、刃物や農具が並べられていました。

  

チュンカィンの栗の木。花が咲いていました。滝を見に行く時に往復通った道ですがまったく気づきませんでした。見ようとする意志がなければ見えない物は多いのだとつくづく感じてしまいます。日中は暑く、カオバン市街は夜も暑かった。観光シーズンは栗や柿が実る秋が良さそうです。


バンゾックの滝-THÁC BẢN GIỐC

2016-06-16 20:26:48 | 旅行

カオバン省最大の観光地はバンゾックの滝で、ハノイからのツアーが多く企画されています。ウェブサイトの写真を見る限り一見の価値はありそうです。しかし、日本語のサイトで調べたところ10年ほど前の情報で此処へ行く外国人は事前に「入域許可証」が必要とのこと。迷った末に現地の旅行会社を訪ねて確認することにしました。2年前、カンボジア国境でベトナムの軍隊に拘束された挙句、二日も足止めされ罰金まで払わされ、風邪を引いて気管支炎になった悪夢が蘇ります。

ところが訪ねた朝は土曜日で旅行会社のオフィスは閉まっており、丸二日間待たねばなりません。更に3泊することになるので少し落ち着けるホテルに移ろうか・・・などと思っているとエレベータ付の新しいホテルが近くにありました。一泊40万ドンとの返事でしたが、3泊するからということで一泊30万ドンに値下げして貰い、早速荷物を移してから取り敢えずバイクでバンゾック方向へ出掛けました。

地図を見るとバンゾックの滝へは省道206号と記されています。市街から「BẢN GIỐC行き」と書かれたバスが走っており、また、分岐点には道路標識もありました。パクボに向かう道とは違って峠が多いのですが、道路は舗装され、行き交うバイクも多く「秘境」と呼ぶほどの地ではありませんでした。

     

新しいリゾートホテルも建っていて、目的地周辺に来たことはわかりましたが、ホテルに気を取られて看板を見落して直進し川沿いを南下して暫く走ってしまい、川向うに中国語の看板を見付けて慌てて引き返しました。滝の駐輪場にはレンタルバイクで訪れた欧米人旅行客の姿も多く、どうやら「入域許可証」は必要なさそう。

滝を見ながら一休みしていると青年男女に声を掛けられ、「峠で見掛けた」とのこと。確かに二人乗りのバイクに峠で抜かされました。旅は道連れ・・・ということで誘われるままに行動を共にすることに。近くの洞窟を見に行くことになりました。

      

後を付いてバイクを走らせると、滝から西南に2㎞ほどの所にグムガオ洞窟(Động Ngườm Ngao)がありました。1921年に発見され、1996年から観光地化されたとのことです。勿論、古い時代から現地の人々には知られていた洞窟であり、グムガオという言葉もTay語で「虎の洞窟」という意味で虎が生息していたとの言い伝えがあるそうです。

      

ランソンで見たものと同じ鍾乳洞ですが、規模と迫力はそれ以上のものでした。10人位を一グループとして係員が一緒に洞窟に入り案内と解説をしてくれるわけですが、長いセンテンスはまったく聞き取れません。すると同じグループに居た若い女性が親切にも流暢な英語に訳してくれることに。まったく自分にとっては有難迷惑で尚更意味不明。

かつてカオバンは金・銀の産地。かつては儂智高や莫氏残党の独立政権が中国にこの金を貢いで政治的支持を取り付けていたわけなので、洞窟の中に白くキラキラ光る岩を見て「もしや・・・」などと思ってしまったところ、「シリカ」です、とのこと。付近では採石作業中でしたが、道路建設用の採石のようでした。

      

 バンゾックの滝は、中国語で黑水河 (左江) 或は归春河の名で呼ばれ、ベトナム語ではSông Quây Sơn、中越国境をながれる河です。滝の左岸が中国領となるわけですが、一部ベトナム領の地となっている部分もあり、其処に国境市場がありました。滝の上流数百mの距離ですが、訪れるには道路がやや複雑。たぶん自力では行けなかった。多くの中国人客の姿がありました。並べられた商品は多くはベトナム製品でしたが特に、と思えるものではなさそうでした。滝の周辺でテントを張って泊まる予定の二人と共に再びバンゾックの滝に戻り、暫く休んだ後で一人でカオバン市街に戻りました。

 ホテルに戻ると不機嫌そうな女主人に代わって新人のレセプション壌がにこやかに迎えてくれて気分一新。今回の旅行で、まして北部のホテルの受付で初めて肩の力が抜けるような笑顔でした。

   


パクボ (Pác Bó) 洞窟

2016-06-15 21:31:54 | 旅行

カオバン市街から省道203号で北北東へ約55㎞、中国国境近くにPác Bó洞窟が遺跡として保存されています。1941年2月に30年振りに祖国ベトナムに帰国したホーチミンが隠れ住んだ洞窟です。道路は広い谷間を走っているのか平坦で、水田やタバコ畑が広がっていました。時折、水田の中に大きな水車が見えました。ちょうどタバコの収穫時期でタバコの葉を自宅に持ち帰る姿も彼方此方に。

 

昨日、お邪魔した市街地近くの農家の人々は不機嫌な対応でしたが、此処の人々は皆陽気で楽しそうでした。

 

家々にはレンガ造りの炉があり、収穫したタバコの葉はこの炉で乾燥させてからタバコ工場に出荷するのだそうです。気軽に迎え入れてくれた家でしばし休憩。日本に持って帰ってベトナムのタバコの葉を紹介してくれ、と一束土産に持たされてしまいました。1979年の中越戦争の時は北部5省は中国軍に占領された訳で、その時のことを聞くと「山に登って隠れた」とのこと。一ヶ月間食べ物がなくて苦労したそうです。

 

暑くて湿度の高いベトナムの気候の中で、土壁と竹や木で作られた家は見るからに涼しげでした。カオバン省は全国で最も少数民族の居住比率が高くキン族のベトナム人はわずか5.8%でしかありません。それでいて今回の国会議員選挙定数6名中、Tay族2名、Nhung族1名で他省出身のキン族が3名という構成。ホーチミンがこのカオバンの洞窟を根拠地としたようにTay族出身の革命家Hoàng Văn Thụら3名の活動がTay族やNung族の人々に支えられてこそ1945年の独立革命が可能であったという歴史的事実すら今や忘れ去られているかのようです。

 

洞窟付近は遺跡というよりは自然公園の趣で、川の水は冷たく澄んで魚が見え、木々に覆われて蝉が煩く鳴き続けていました。バスで訪れる団体の観光客も多く、遺跡見学というよりはピクニックの雰囲気でした。外国人観光客の姿もありましたが、殆どは省内から訪れた人々のようです。ホーチミンが居住した洞窟のなかにも入ることができ、質素なベッドが置かれていました。

 

今はこの地がホーチミン道路の起点とされているようです。