GOVAP便り

プノンペンからモンドルキリに、その前はTAY NINH省--AN GING省--HCM市GO VAP

タインホア省コンモン洞穴

2013-04-27 21:28:15 | 地理・歴史

ベトナムの先史時代遺跡は最初に発見された地名がその文化の名称とされるようで、中石器時代のホアビン文化はHoa Binh省、これに先行するソンビー文化はPhu Tho省Lam Thao県Son Vi村。ホアビン文化に続くバクソン文化はLan Son省Bac Son県の名に因るようです。

名前が異なり、それぞれ年代と文化的差異が認められるようですが、タインホア省コンモン洞穴からは、下層からソンビー文化、ホアビン文化、バクソン文化の順で重なる遺跡が発掘されているそうです。と、いうことはコンモン洞穴には1万年以上にわたって人々が住み続けていたようです。

コンモン洞穴は、ベトナム語でHang Con Moong。Thanh Hoa省Thach Thanh県Thanh Yên村に位置し、クックフーン(Cuc Phuong)国立公園内にあるとのことです。

3月に発掘調査が行われたダブート文化のCon Co Ngua遺跡からは北西に20kmほどの距離に位置し、その分だけ海からの距離も遠い場所です。

16年前の1997年春、このクックフーン国立公園を訪れたことがありました。知人に高校生の息子のニンビン旅行の付き添いを頼まれてのことでした。ニンビンの農村を訪れ、トイレに入ると新聞紙を切ってトイレットペーパー代わりに置いてありました。子供の頃に日本でも目にした光景です。ナムディンに一泊し、何カ所か観光して最後にコックフーン国立公園に行きました。蝶などの昆虫の種類が多く外国からの観光客も多いそうです。

公園内で奥の方へ歩いて行くと洞窟があり、安全性が気になる岩場を登った記憶があります。洞窟には足元にシジミのような貝殻がたくさん落ちていました。先史時代の貝塚が今も地表に広がっているのだろうかと不思議に思えた記憶があります。海からも離れているわけだし、数万年前は海岸線が数10キロも内陸にあったのだろうか?などと思ったのは、当時は貝は海にあるものと思いこんでいたためですが。

そこがコンモン洞穴だったのかどうかは定かではありません。しかし公園内の洞窟だったことは確かです。

 


ダブート文化

2013-04-25 16:49:51 | 地理・歴史

考古学には疎く、興味もなかったわけですが、年齢を重ねたせいか歴史的興味もより古い時代へと遡りつつあるような気がしています。

そんなわけでインドシナ半島の先史時代に関わる日本語で書かれた本なども手にしたことがあるものの実につまらない、と感じて放り出してしまいました。

ところが先日、ベトナムの「新石器時代ダブート文化の墓70基を発見」との記事を目にし、見覚えのある「ダブート文化」という単語が気になりました。

ベトナム語の新聞記事で確認するとダブート文化はベトナム語では「van hoa Da But」と記され、Thanh Hoa省Vinh Loc県にあるDa Butという村(thon)の名前から付けられた名のようです。

http://www.cand.com.vn/vi-VN/khcn/2013/4/195389.cand

中石器時代の「ホアビン文化」という名は何度か目にしましたが、ダブート文化はそれよりも新しい中石器時代末から新石器時代初めにかけてのBC6000年以降のもののようです。土器の出現と農耕・牧畜の開始の痕跡がこの文化の特徴なのでしょうか?

今回の発掘調査によって深さ30-60cmの層から70基の墓の他に、カメ、ヘラジカ、シカ、魚などの動物の多数の骨や歯、ホタテ、カキの貝殻、石斧、土器、grinding tablesなども多数発掘されたとのこと。発掘場所は、Thanh Hoa省Ha Trung県Ha Linh村のCon Co Ngua遺跡に隣接する地元農民の田圃の84平方メートルだそうです。

http://english.vietnamnet.vn/fms/art-entertainment/70324/70-ancient-tombs-unearthed-in-thanh-hoa.html

 


トンレ・バティとタプロム遺跡

2013-02-11 15:00:11 | 地理・歴史

旧正月元旦。昨年同様、プノンペンの町は閑散とした雰囲気です。フォトプリントを頼みにモニボン通りの店に行くとFijiの店は閉まっており、隣のKodakの店は開いていたものの仕上がりは旧正月明けの15日になるそうです。

きょうは、銀行も暇そうに違いない、と思いACLEDA銀行に行ってみました。ベトナムではUSドル定期預金金利は1.9%程でベトナム・ドンは12か月以上だと11%程です。ACLEDA銀行ではUSドルの12か月から24か月定期は5%となっており、同じ期間のカンボジア・リエル建て預金は7%。しかし、Withholding Tax 6%との記載があるので利息には6%の源泉徴収税が課税されるようです。そう言えば、日本では「マル優」などという言葉があったことを久しぶりに思いだしました。

一昨日、プノム・チソーに行く途中トンレ・バティに寄りました。国道2号線でタケオ州に入った頃に「Prasat Taprom Tonle Bati Tuorism Site」との看板があります。ここを通る度に一度は立ち寄ってみようと思っていました。

   

トンレ・バティは日本語だとバティ川という意味だと思うのですが、地図で見ても川というよりは湖です。水はメコン河やサップ河のように泥が溶けておらず清んで奇麗に見えました。

   

ツバメの他に畑でしばしば目にするミドリハチクイも美しい背中の色を見せてました。

   

キエンスヴァイの蓮池と同じようにトンボとアメンボも。

   

蓮の葉と思っていたのですが、この花は見たことがありません。

   

水上に筏を浮かべ、その上で食事をするそうです。百台以上が並んでいましたが、ここで昼食を取る観光客の姿は皆無でした。

   

岸辺で採っていた木の実。実の周りの白い部分を食べるとのことでしたが、美味しくはありません。

   

何処に行っても国中お寺だらけ。コンビニやガソリンスタンドの数より遙かに多く、岸辺から見渡しても幾つも見えました。

   

出家した友達に会いに来たのでしょうか?

   

タプロム遺跡。タケオ州にはアンコール時代の遺跡が多いようです。かつて扶南の時代の中心地だったからでしょうか?

   

境内は静かでした。プノムチソーのように遺跡の上に大きなスピーカーが載せられ喋りまくられて雰囲気台なし、なんてこともここではありませんでした。蓮の花や線香を売る子供たちが少々鬱陶しい程度。


プノムチソー遺跡

2013-02-09 22:57:29 | 地理・歴史

プノンペンから約42km南にあるプノムチソー遺跡を見て来ました。昨年標高133mのこの頂上まで息を切らせて階段を登ったことがありました。ひたすら心肺能力の低下を思い知らされただけ。頂上からの眺めも木々に覆われていてガッカリでした。南側の舗装道路から入ってすぐの階段を登ったのが間違いで、遺跡への登り口は砂利道へと折れて山の北西側にあります。

プノムダーの遺跡は以前訪れていたし、再び階段を昇る労力に見合うものとも思えずに何度も近くを通り過ぎていたのですが、顔見知りの日本人に「遺跡が良いんだよ。頂上からの眺めも」と教えられ、それじゃ見なきゃ損、という気になりました。

   

同じ道を走るのも面白くない、とばかりに2号線から水路沿いに折れてみたところ道は途中で途切れていました。プノムチソーの頂上のお寺も見える距離でしたが。それでも諦め悪く他の農道を回って行こうと試みたところすべて不可。結局2号線に戻り1時間ほど無駄をしてしまいました。

雨期には子供たちが泳いでいた周辺の溜池も今は涸れ、牛の姿も見えませんでした。プノムチソーの北西にある階段は傾斜が緩く、先月痛めた膝でもなんとか登ることができました。それでも頂上に着くと通常価格より高い3,000リエルのコーラを飲んで一休み。

   

山のため木の高さよりも高い位置に立つこともできるので木の実を食べる野鳥の姿を見ることができました。

   

遺跡は11世紀アンコール朝の時代に建てられたヒンドゥー寺院とのことです。遺跡の拝観料2ドルを徴収しに係の人が来たので、中に入ることにしました。最近になって修復されたもののように思えました。

   

折角なのでビデオを回していると、聞き覚えのない鳥の鳴き声が続いていました。どうせ声だけで姿は見せない筈、などと思ってふと見ると視線の先にリスがいました。

   

カメラを持っている時に羽を広げて止まっている蝶と会えるのも珍しいことです。

   

サルも一匹いましたが愛想はなく、写すから顔を上げて頂戴、と何度も頼むと最後に「いい加減にしろ」とばかり怒ってました。

   

頂上から東方向の風景。枯れた田圃がほとんどです。雨期の風景と比べてみたいものです。東側には急な傾斜の階段があり、古い参道のようです。ベトナム中部のチャンパ遺跡も東を向いて建てられていたように記憶しますが。この遺跡が11世紀になって初めて建てられたものなのか、それとも紀元前後の扶南の遺跡の上に建てられたものなのかは、興味あるところですが知りません。

   

遺跡の傍らには現代のお寺が建っていました。

   

若い修行僧なのでしょうか、携帯音楽を聴いているようでした。


Oc Eo - Ba The 国家特別遺跡

2012-10-08 00:32:43 | 地理・歴史

アンザン省人民委員会のヴォー・グエン・ナム事務長は、オック・エオ-バー・テー遺跡が国家特別遺跡に認定されたことを受け、省は記念式典を開催する、と発表した。

政府首相の決定1419D-TTg(9月27日)によってオック・エオ-バー・テー(Oc Eo - Ba The)古代建築芸術遺跡は、全国11の国家特別遺跡の一つとして認定された。

アンザン省トアイソン県のオック・エオ-バー・テー遺跡は、フランス人考古学者Louis Malleret によって1944年に発掘調査された。遺跡面積は450ヘクタール。

発掘調査によって、遺跡からは各種の小さな彫像、リング、イヤリング、宝石ビーズ、メノウ、ガラスビーズ、印章、銅製や石製道具、各種土器が発見されている。

http://www.baoangiang.com.vn/newsdetails/1D3FE19064E/Se_to_chuc_le_don_nhan_Di_tich_khao_co_va_kien_truc_nghe_thuat_Oc_Eo_Ba_The_duoc_xep_hang_Di_tich_q.aspx

政府決定内容(1419D-TTg)

http://thuvienphapluat.vn/archive/Quyet-dinh-1419-QD-TTg-nam-2012-xep-hang-di-tich-quoc-gia-dac-biet-vb148519.aspx


真臘風土記のカンボジア女性

2012-09-04 00:14:54 | 地理・歴史

真臘風土記で周達観は、通常の村里に居る者について、「みめかたちはみにくくて[色]は甚だ黒い」「宮人南棚(役所)の婦女のごときに至っては、その白いこと宝玉にようである者が多い。思うに太陽の光を見ない故であろう」と記しています。

注解によると、真臘風土記を650年ほども遡る時代の「隋書」真臘伝にも「婦人はまた白い者がある」との記述があるそうなので「太陽の光を見ない故」ではないようです。

ベトナムに居た頃、カンボジア人はベトナム人より肌が黒いとの固定観念が揺らぐことはありませんでした。古くからメコンデルタに暮すクメールの人々とは別に近年になってからカンボジアから様々な理由で親がベトナムに来たという人々もHCM市では少なからず出会いましたが。

それだけにカンボジアで暮してみて最初に驚いたのは肌の色がベトナム人よりも白い女性の数の多さです。プノンペンの接客業の女性やTVに映る女性の多数派となっているだけでなく、地方都市や農村部ですら珍しくありません。都市というものがカンボジアでも本来的に国際都市としてあったことの証明のような気もします。

島国日本ですら飛鳥の都は国際都市であったようですから民族の坩堝と言われるインドシナ半島では尚更のこと。

               

ケップ海岸でカラオケ用ビデオ撮影のモデルをしていた女性、たぶん今風のカンボジア美人なのではないかと思います。クメール美人には何処か憧れを抱いているつもりですが、どうもそのイメージとは重なりませんでした。

     

タケオで孫の女の子二人が昼寝する側で機織り用の糸を束ねていたお婆さんがいました。覚束ないクメール語であいさつを交わし、それがどんな作業工程なのかを知ろうとしたのですが、上手く伝えられず、お婆さんも「チャー、チャー」という返事ばかり。

お婆さんの顔も画像に残しておらず、記憶にも残っていません。しかし、「チャー」という発音の響きは柔和で暖かく胸に沁みました。もしかしたらそれが、幻のクメール美人の言葉の響きであったのかも。かつては、傍らの孫のように可愛い女の子の時代もあったわけだし。最近はどうも若い女性と話をしたいとの欲求が湧かず、したがってクメール語学習も挫折したままでしたが、このお婆さんの昔話などはぜひ聞いてみたいものです。


タケオで古代の財宝発見

2012-08-29 00:16:48 | 地理・歴史

土曜日にタケオ州へ行ってただけに、プノムチソーではなく、アンコールボレイに行くべきだったと悔やんでいます。泥の付いたままの古代の財宝を見ることが出来たかも知れません。

90年代のベトナムでは、中部沿岸部での沈没船発見のニュースが多かったように記憶してます。発見された多くは明の時代の陶器などだったと思います。その都度、時価○○ドルの価値と金額が記されていました。考古学的価値は説明が面倒ですが、「幾らで売れる」というのはとても判り易い説明であることには違いありません。

今回発見されたのは古代扶南時代の財宝だったのでしょうか?それが単なる貴金属の現在価格に換算されて売られてしまうと言うのは・・・。

     
      (発見現場はたぶんこの辺りではないかと・・・)

               Ancient riches uncovered in Takeo  Monday, 27 August 2012

タケオ州アンコールボレイ地区で道路工事中に労働者によって掘り起こされ、住民が発見した金や真珠の宝石は、古代の埋葬施設と考えられ、当局によって保全された。

村人の宝物発見の知らせに、新しい道路を建設中のPrek PhtorlコンミューンKampong Pou村に数百の人々が群がった。

村民のChea Peuy(35才)は、この地域には天然鉱物資源があるわけではないが、宝物が発見されたのはそれよりも嬉しい、と言った。

「私は、少しの金を見つけたので、数万リエルで売ることができる」「もっと多く見付けた者もいる」と、彼は言った。

アンコールボレイ地区行政のSay Horは、人骨もまた発掘され、当局はかつての王宮跡だと考えている、と語った。
アンコールボレイ地区警察長Moul Huonによると、昨日当局が遺跡の穴を塞ぐ決定を下したため、村民たちは失望した。

http://www.phnompenhpost.com/index.php/2012082758296/National-news/ancient-riches-uncovered-in-takeo.html

水浴

2012-03-20 18:02:36 | 地理・歴史

山頂の境内には池がありました。池の底にはこの季節でも水が少しだけ残っていました。今でも使用できそうな池です。最近になって修復されたようにも見えませんが、長いことこの遺跡に登る参道はタイ側からなかったとのことですから付近の住民が使っていたとも考えられません。

人によって造られた池があると言うことは其処に人が生活していたことを物語るものです。しかし、乾期にこの山の上の水は干上がらなかったのでしょうか?

統計を見るとプレアビヒア州の雨期作米の灌漑面積が2.4万ヘクタールであるのに対し乾期作では6千ヘクタールほどしかありません。特に州の北部では山も多いため小規模な田圃しか見当たらず、しかもこの時期は枯れた田圃です。

そんなわけでまだ雨具が必要とも思えずに此処まで来たわけですが、プレアビヒア寺院からの帰り道で雨に降られてしまいました。しかも雨宿りするような民家もない場所でした。



バイクを止め、林の中に入って木の下で小降りになるまで待ちました。林の中の土は湿っており、子の雨がたまたま季節外れに降ったものではないことを知りました。昨日の夕方もゲストハウスで雨音を聞いたを思い出しました。

それでも北側の空は明るく、薄雲から太陽も透けて見えるので多少濡れるのは仕方ないと再び走ることにしました。ところが、意地悪く雨は次第に強くなり、木の下で雨宿りをしたところで意味のないほどの勢いになってしまいました。ポケットの中のカメラや携帯電話が気になりますがどうすることもできません。ポケットから取り出してリュックの中に仕舞ったところでリュックを開けば中の着替えまで濡れるだけのことです。

濡れながら走り続けること以外に選択肢がないと諦めて気が楽になりました。靴の中もびしょ濡れになって気持ち悪いのですが、ヘルメットのお陰で頭や顔が濡れないのはせめてもの救いです。激しい雨はそれ故か長くは続きませんでした。

雨雲が消え、済んだ空の色に変わりました。しかし晴れてからの方が、濡れた全身の不愉快さが増しました。シャツもズボンも洗濯が楽なように薄手のものなので濡れて肌にぴったりと張り付き、ズボンも肌の色が透けていました。このまま町に戻るのは気が引けるし、それ以上に身体が冷えて風邪を引きかねません。



バイクを止め、ポケットから濡れたパスポートやカメラを取り出し、手拭で身体を拭くと乾いた繊維が気持ちよく、着替えたくなりました。しかし、林の中に入れば足元はドロドロになってしまって後が大変。通るバイクや車も少ないので路上で着替えることにしました。今の日本でなら犯罪行為になってしまうようですが。

真臘風土記の澡浴(水浴)の項に「城中の婦女は三三五五みな城外に至り、河の中で水浴する。河辺に到着すると、まとった布を脱ぎ去って水に入る。河に寄り集まる者は、ややもすれば千をもって数える。役所の婦女であってもこれに仲間入りし、代替それで恥としない。踵から頭の頂上まで、みなこれをみることができるのである」と記されています。

その時代なら路上で着替えたところで通報されて警官が遣って来るなんてこともないのでしょうけど。



町に近づくと集落も多くなって来ました。雨上がりの澄んだ空気の中、井戸端で水浴する人々の姿が見えました。懐かしい手こぎポンプの井戸です。マンゴーの木にはまだ青い実がたくさん生っていました。

近づくと一人のご婦人が笑いながら「こんな姿を写真になんか撮らないでよー」みたいなことを言ったのですが、単語はまったく聞き取れません。若い女性が数人その場を離れてしまいました。



真臘風土記の水浴と現代を隔てるものは一体何だったのでしょうか?

「城外の大河では日としてこれがないことはない。唐人は暇な日に、これを見物することを大へん楽しみとしている。また水中に入ってひそかに待ち受ける者もあると聞いた」

と、あります。

戦象20万頭

2012-02-16 18:39:07 | 地理・歴史

平凡社「真臘風土記」の附録に「諸蕃志 真臘国」が収録されていて、そこに「戦象は二十万[頭]にちかい」とあります。アンコール朝の絶頂期の数字なのでしょうか?1頭の象が排泄する糞が1日百キロとも言われてますが、すると二十万頭の象だと1日に2万トン、年間730万トンとう膨大な量になります。アンコール期のカンボジアは至る所象の糞だらけだったのでしょうか。

もっとも現在のカンボジアでは牛が約350万頭ほど飼われています。体重は象の13%ほどですから糞も比例するとして1日1頭が13kg×350万=4.55万トン/日で当時の象の糞の2倍以上を排泄していることになるわけだし。



2003年の農業統計にモンドルキリ州の家畜、象74頭とあったのを思い出し、改めて他の州の統計を探したところ象の記載はありませんでした。アンコール・ワット周辺でも観光客乗る象を見たことがありました。

ベトナムでも戦象は西暦40年ハイバチュンの時代にも描かれています。最近でも野生の象が密林から下りて来て電柱を倒したなどというニュースを見た記憶もあります。しかし、野生の象はこの間ベトナムでは激減し、2009年には80頭しか残っておらず、5年間に半減したとのこと。

http://tuoitre.vn/Chinh-tri-xa-hoi/Moi-truong/349893/Ca-nuoc-con-80-con-voi-rung.html



更にそれ以降は、野生象の死体が発見されるニュースばかりが続いています。

ベトナム戦争中には密林の兵士が象を目撃することも多かったようで、尻尾のない象の話を聞かされたことを思い出しました。

原田君がベトナム戦争の写真集(発刊されずに終わった)を編集している時で、今思えば再会した後で彼が一番昔の彼らしく、無邪気に語っていたように思えます。急流を渡る時に子象が母親象の尻尾を掴むため母親象の尻尾が切れてしまうわけですが、戦争のただ中でそれを観察して記した兵士の心境に彼は感動していたようでした。

「真臘風土記」には戦象については触れられていません。象牙については記されています。また、「馬には鞍がないが象にはかえって凳(腰掛け)があって座ることができる」とあります。馬や牛は乗らずに車を引かせるだけというのは今も変わらないようです。

「象牙はすなわち山間の僻地の人家がこれをもっている。・・・その牙は投げ槍で殺したものを上[等品]とし、みずから死んで、その時どきに人に取られたものはこれに次ぎ、山中に死んで多年たったものの場合はすなわち下[等品]とする」

象が戦争に使われた時代、或いはナパーム弾や枯葉剤で密林が破壊された時代、象にとっても不幸な時代だったと思うわけですが、もはや絶滅が危惧されるまでの状況となったインドシナの平和な今日、何れは観光客を乗せる象しか残らなくなってしまうのでしょうか?もっとも、餌代を考えると観光客用の象を維持するためにはそれなりのサービス料を支払う必要がありそうです。

走獣(獣類)

2011-12-11 00:00:23 | 地理・歴史

 獣には犀・象・野牛・山馬がある。すなわち[これら]は中国にないものである。そのほかの虎・豹・熊・羆・野猪・麋(なれしか)・鹿・麞(のろ)・麂(おおのろ)・猿・狸・狖(尾長猿)の類のごときは甚だ多い。[この国で]見かけないものは、獅子・猩猩・駱駝のみである。鶏・鴨・牛・馬・猪・羊は、至るところにいる。
 馬は甚だ矮小である。

メコン河を渡るフェリーの周辺で馬車を度々見掛けます。きょうは偶々同じフェリーに乗り合わせました。フェリーの先頭にトゥクトゥクの横に並んでいました。

ベトナムの馬も小さいのですが、カンボジアで見る馬は更にそれよりも小さく、熱帯気候への適応の結果であるかのようです。



この馬、たてがみが短く刈り上げられ、その代りにへんてこな飾りが立てられています。カンボジア女性の髪形のセンスも一種独特のものがありますが、この馬の飾りも可愛らしさを表現しているのでしょうか。

ノコール山リゾートの看板を見つけたので矢印の方向へ登ってみました。が、ダンプカーが土埃を巻き上げて走っているだけで途中で道もなくなってました。



山には山羊がいました。牛と違って人への警戒心が強く近づくことはできません。





牛乳の出が悪いのか、仔牛は母乳を激しく突いて飲んでいました。