GOVAP便り

プノンペンからモンドルキリに、その前はTAY NINH省--AN GING省--HCM市GO VAP

雨期でも籾の天日干し

2008-07-30 02:58:35 | 旅行
Oc Eoには小高い山があり、この高さなら5~6000年前の縄文海進の時代にも海面より高かったに違いありません。10kmほど離れたNui Sapにも同じような山があってOc Eo遺跡と呼ばれるものはこの付近一帯の広大なものだったようです。Nui Sapの町に博物館があると聞いてましたが、どうやら見ると遊園地の中にあるらしく、この何処か安っぽい娯楽施設の外観を眺めただけで古代へのロマンは急に萎えてしまいました。

サイゴンの街では時に崩れかけた美容整形に厚化粧といった感じの中年女性を見かけますが、この「Du Lich Thoai Son」もそんな感じ。田舎の生活や歴史遺産に下手な装飾はちょっと勘弁。

ロンスエンからは路線バスも走り差ほど不便な場所ではありませんが、メコンデルタの土壌分布図を見るとメコン河の肥沃な沖積土地域からは外れた硫酸塩土壌地域に位置してるようです。その分米の単収は劣るのだろうと思いますが、知らべたわけではありません。Oc Eo周辺の家では庭先で魚か動物の腸のようなものを粉砕し水と混ぜて形を整え、日に干して乾燥させている姿が少なくありませんでした。ロンスエン出身の知り合いに聞けば分かるだろうと思い、画像を撮って来ましたが、彼にも分からないとのこと。

夕方近くになると強い風が吹き、一瞬にして空が黒い雨雲に覆われました。農家の庭先や道路に干してある籾にはビニールシートが被され、袋詰めされた籾を担ぐ姿もあるわけですが、「やばい雨だ」と焦る僕とは違ってのんびりとした作業風景でした。

Oc Eo 遺跡

2008-07-29 04:03:09 | 旅行
古代ローマ帝国の金貨も出土したオケオ遺跡に一度は訪れてみようと思っていました。ガイドブックには、1世紀中頃中国とローマを結ぶ海上交通で栄えた扶南の「港市」と書かれています。

遺跡の発掘されたOc EoやNui Sap の町はアンザン省トァイソン県にあり、ロンスエン市から約35kmほどの距離です。したがってメコン河の後河からも離れた場所なので何でここが「港市」だったのか?と不思議に思っていたわけですが、地図を見るとラックザー湾からは25km程度しかなく、当時は湾が深く今の陸地に食い込んでいたからのようです。

ベトナムに来てから何度か知人にこの遺跡の話を聞いてみたことはあったのですが、日本語の本には「オケオ」と記されてしまってるのが大きな間違いでベトナム語表記は「Oc Eo」のため発音がまったく通じませんでした。元々はクメールの地名なのでしょうけど。それを知ってからは「オッ・エオ」と発音するように気を付けてはいるもののついつい最初に覚えた「オケオ」が口をついてしまいます。

気のせいかも知れませんが、先住民族クメールの遺跡についての話はベトナム人は興味を示さないというかやや微妙な空気になってしまうようです。少なくとも「じゃ今度一緒に行ってみよう」ということにはなりませんでした。

ロンスエンの街の中心部にある大きな交差点を左に曲がるとThoai Son県に向かう943号線。メコンデルタの他の道と同じように水路に沿っています。暫く進むと道沿いの家の造りがクメール様式(らしき)ものも見えるようになりました。高床式ですがカンボジアで見たものよりも床は低めです。あちこちで庭先や道路で籾米を干していました。

断りもなくカメラを向けるのも失礼かと思い、庭先に入って「えーあのー」と口ごもっていると「誰に用なの」?と聞かれてしまい、「ちょっと写真撮りたいだけなんですけど・・・」と答えると「まー其処に座って」と椅子を差し出されました。クメールの集落というものではなく、混住が数百年続いてクメールの人々もベトナム化した生活を送っているような印象でした。

『じゃがいもの世界史』

2008-07-28 02:47:56 | 旅行
ネットで岩波新書『じゃがいもの来た道』の書評を見つけ、ベトナムに来る友人に買って来てくれるよう頼んだところ、中公新書『じゃがいもの世界史』が届きました。一瞬「あれっ」とは思いましたが、頼んでおいて代金も払わないわけですから文句を言える立場でもありません。ところがどうして、読んでみると初めて知ることばかりで面白く、ちょっとした時間に読むのにも都合の好い内容なので今回のバイク旅行の道連れにしました。

目的地のThot Notに着くと既に6時を過ぎ、仕事はあすの午前中に延ばすしかなく、道端でCheを食べてから国道沿いの宿に泊まることにしました。部屋にはテーブルも椅子もないのでベッドの上で本をぺらぺら捲っている内に眠くなり、ちょっと目を閉じたつもりが気が付くと翌朝。不覚にも夕食・シャワー・歯磨きすら省略し鍵も掛けずに眠ってしまったようです。

お陰で朝早くに目覚めることができたのでゆっくりシャワーを浴び、カフェでの朝食を済ませてからフェリーに乗りました。半分旅行気分で来たのでイザ客先に向かうとなると少々気が重く、しかも鞄の中に客先の住所・電話番号を書いたノートを探すと見つかりません。ヤル気の無さを象徴するチョンボに我ながら情けない限り。それでも大体の見当は付いていたので「○○さんの家は何処ですか」?と尋ねると三度目には店のオバサンが子供に道案内を頼んでくれて無事到着。

わが任務の趣旨を十分理解せずに来てしまったため、というか所詮依頼者の気休め仕事との思いがあったので世間話に終始。養殖池の傍らのテラスに身を投げ、水面を渡る風に吹かれて来ました。

国木田独歩に『牛肉と馬鈴薯』という小説があるとのことです。日本近代文学史の中で聞いたことはある作家ですがおそらく『武蔵野』すらも実際に読んだことはなかったような。独歩は自然に強く惹かれ、北海道移住が「果たせなかった夢」だったのだとか。

明治20年代の東京ならば、その周辺は至るところ自然が残されていただろうに、とも思うわけで、こうしてサイゴンを抜け出して来たメコンデルタすらも当時と比べれば「自然」など無いに等しいとも言えそうです。それでも何処かゲージから放たれ地面を歩き回る鶏くらいの自由と解放感くらいのものは感じることが出来ます。

田舎の空気

2008-07-27 22:03:26 | 旅行
仕事に託けてバイクでメコンデルタへ行ってきました。ここ5年ほどはバイクで遠出することもなかったので少々不安ではありましたが、周りから「危ないから絶対駄目」などとも言われ、他人にあれこれ指図される不愉快さがバネともなったようです。

ここ暫く毎週のように足を運んでいるものの、兎に角他人の運転する車に乗って居眠りしているのも面白くなく、車の中から眺める風景には飽き飽きしてました。それに車で客先に行くのが「ステイタス」、みたいな見栄っ張りの風潮にも同調したくはないし。

金曜の朝、早めに家を出て仕事を済ませ、土日はのんびり気ままなメコンデルタ・ツーリングのつもりが、その気軽さからか早速朝寝坊。しかも200kmほども国道を走り続けるのかと思うと気が進まず、先ずはカフェでコーヒーを飲んでから・・・などとぐずぐずしてる間に9時を過ぎてしまいました。

雨期とは言え昼間の日差しは強く、途中で日焼け防止兼防塵用に道端で売られてるマスクを購入。家に幾つもあったのですが、そんなことはすっかり忘れてました。低気圧が停滞しているような不安定な気象のせいか風も強く、お陰でヘルメットに掛かる風圧もそれなりでアミダ被り状態。

ミトーで昼食を取った後は走っていても眠気に襲われ、小雨が降り始めたのを幸いにビンロンの手前のハンモッグ・カフェで小休止。5時前に目的地に着くのは難しい状況になっていました。

ビンロンに渡るミートゥァン橋の入り口には交通警官が待ち構えていました。その手前50m程の所には数台のバイクが止まって様子を伺っています。たぶん何かしら呼び止められると困る人々なのでしょう。僕と同じように無免許運転とか。長距離運転の場合、交通警官の立ってる場所とその目的がわからないのが困ります。

ビンロンの街からカントーへ渡るフェリーまでは大した距離ではありません。その手間でカントー橋のアプローチ道路建設が再開されてました。同じ場所を何度も通っている筈なのにこの工事現場に気付いたのは初めてです。

延々と待たされる自動車と違ってバイクはすんなりとフェリーに乗ることができます。フェリーにはバス一台分の外国人観光客が載り合わせ、少々楽しげな雰囲気でした。橋の写真を撮ろうとバイクを離れデッキの外れに立つと日本語の会話が聞こえて来ました。自分も今回は半分観光客気分なわけですが、それでも「好いよなー、観光客は」と思わせる落差が何処かに。日本語の会話は若い二人連れの綺麗なお嬢さんでした。エンジン音が大きいので何を喋っていたのかは分かりませんでしたが、「あのカントー橋の事故のことご存知ですか」?とでも言いたかったのか、声を掛けてしまいました。

「いいえ、私たち日本人ではありません」。予想外の展開には慣れ切っているつもりのベトナム生活ですが、これまた想定外でした。シンガポールから来たお嬢さん達、日本人よりも好感の持てる日本語と感じてしまったのは、たぶん人柄によるものなのだろうと思います。ベトナム人の日本語に好感を持てたことは極めて稀です。

フェリーがカントーの岸に着くのが恨めしく思えるほど速かったのは言うまでもありません。ベトナム女性に欠落したもののすべてを彼女たちは持っている、などと幻想が膨らみました。数十年前の御茶ノ水でジーンズにブーツの似合う女性を見て「俺一人だったら絶対後を付いて行っちゃうぜ」とまだ禿げるまえのソウマイさんが言っていたのを思い出しました。

写真展 『生存』

2008-07-25 02:39:24 | 天気
21歳の女性カメラマンTrương Lê Minh Châuの写真展“Cuộc sống là...”が24,25日サイゴンで開催されるとカフェで読んだ新聞にありました。

写真展にはまったく興味がわきませんでしたが、田んぼの中の水牛と子供たちの笑顔を見ただけで、排気ガスとニコチンに汚れた肺の奥深くに爽やかな風が届いたかのような感覚。自分は一体いつまでこのサイゴンでグズグズしてる気なんだ?などと思ったりも。

今週は月曜日にガソリン料金が30%の値上げとなり、株価は一気に下落。米輸出に対して輸出税の適用だの公共工事の中止だのと政府歳出削減措置が相次いでいます。そんな新聞記事を読むのにも疲れを感じるこの頃。

今年2度目のガソリン値上げですが、14,500ドン/Lから19,000ドン/Lに。毎回のバイクへの給油を4万ドンから5万ドンに増やしても入れる量は減ることになります。タクシー料金も上がるでしょうし、ディーゼル燃料も上がったので来月からの物価上昇は必至。

気分が晴れないのは、それに加えてこの雨続きのせいでもあるようです。日曜日から夕方になると降らない日がありません。

公金横領に死刑判決

2008-07-19 02:13:59 | 社会
「今年5月28日、バクリュウ省高裁はバクリュウ郵便局出納責任者による150憶ドン(約9400万円)横領事件のTANG Thi Ba 被告に死刑判決を下した」

他の調べ物をしている時に新聞社のサイトでやや古いこの記事を見つけました。幾ら高額の横領とは言え、公金横領が殺人などの凶悪犯罪と同じ扱いというのには驚かされます。

2億6700万ドン相当の財産と250万ドンの現金を返却したそうですが約3年間に横領した1500憶ドン余りは「宝くじ」や「Danh De(?)」「旅行」に使ったとの証明できない説明に終始したとか。

推測するに、一つは「公金横領」というのが私人の財産を盗むより「重罪」とされるからなのかも知れません。「公金=人民の共有財産」ということよりも、国家を私人=人民よりも尊いものとする考え方に因るのでは。日本の刑法で公金横領罪がどのように扱われているのかは考えてみたこともありませんでしたが。

10年ほど前に借家で現金やビデオカメラ等2000ドル相当額を盗まれたことがありました。警察は大家の息子(薬物中毒)を逮捕し、自供して懲役1年。今回の事件の金額はその450倍ですから懲役450年相当ということなのかも。

現在、司法省は1999年刑法の改正を検討していて死刑対象の犯罪範囲を減らす方向にあるとのことです。除外対象には詐欺、横領、贈収賄が含まれてるようですから発覚が遅れていれば死刑を免れていたのかも。

当然ながら上司の監督責任も刑事責任を問われ、元会計清算責任者懲役6年、元会計責任者懲役4年、バクリュウ2元郵便局長懲役6ヶ月だそうです。

きょうのTBS News サイトでは「PCI問題、ベトナム高官が収賄認める」と伝えられています。この記事によれば「1億円前後の賄賂」とのこと。バクリュウ郵便局の横領金額を超えそうなわけですが、贈収賄の双方共どのような刑に服することになるのでしょう。

家族計画

2008-07-17 04:22:02 | 社会
少子化ニッポンの意識が抜けないからでしょうか。7月11日が「家族計画の日」だとは知りませんでした。ベトナムの人口が8000万を超えたのは5年ほど前のことだと思います。それ以後の人口増加=出生数が増加傾向にあるようで、今や8650万ほどだとのことです。仮にこの記憶と数字が正しいとすれば、CAGR1.6%の増加率。このペースが続けば10年後には人口1億に達し、20年後には日本の人口を上回ることになります。

国連人口基金の発表では世界人口は67億4千万人。5年後には70億に到達する予測です。それでもその予測増加率は年0.76%に過ぎません。したがって、増大する地球人口の2倍のペースでベトナムの人口が増え続けていることになります。

ベトナムの経済発展の見地からもこの人口増加はマイナス要因とされ、政府の「二人子政策」のキャンペーンも強化されているようですが、中国のように罰則規定が厳格ではなく、「自覚を促す」ことに主眼が置かれているようです。

国家公務員、国営企業労働者の場合は第3子を出生すると懲戒解雇との規定があるようで、ならばこの間の国営企業の株式化でそのタガが外されたからなのか?とも考えてみたわけですが、労働力人口に占める公務員割合というものが差ほど高いわけでもなさそうです。

先週末、久しぶりにK君とビアオム先生とで食事をしました。K君の近況を尋ねると相変わらずのボヤキでしたが、何と第3子が生まれたとのこと。この国で3人の子持ちとは犯罪的というか糾弾に値する行為、と思ったわけですが、本人は日本に帰る気もないくせに「少子化する日本への貢献」だと痩せ我慢の言葉。3人の子供を今の物価上昇が続くサイゴンで育てるというのはK君の給料をもってしても楽ではなさそうな表情でした。

人口増加が貧困を再生産し、地球環境への負荷を作り出していることについて一番無自覚なのは自分を含めた「少子化社会」の日本人ではないか、などと感じたりもしています。日本には7人の子供を持つ知事もいるそうですが、どうなんでしょう。中国に生まれたら二人目を生むことも許されないというのに。


「フランス革命と農民」

2008-07-16 03:14:27 | 農業・食品
昨日が7月14日だとは知らずに過ぎてしまいました。昨日の朝は新聞を買いそびれ、カフェでざっと目を通しただけですが、たぶんフランス革命219周年に関係する記事は載っていなかったと思います。

きょうの朝刊は[Venezuelan beauty wins Miss Universe]がトップで、産油国の勢いというかベトナム政府の南米へのラブコールという感じがしないでもありません。もっともその隣にはイスラエルに大使館を開くとの記事。この時期は外交活動が活発なようで、「カナダ政府が教育支援を確約」とViet Nam Newsにはありました。

Visiting Canadian Minister of the International Development Agency (CIDA), Beverly J Oda・・・She expressed her wish that Viet Nam would continue to enhance its agricultural strengths in the context of the current world food price-hike.

「agricultural strengths」とは何によって作り出されるものなのだろうか、をつらつらと考え、5月に日本から戻る際、何気なく本棚からG・ルフェーブル『フランス革命と農民』を持ち帰り、数十年か振りに読み直した内容を思い起こしてみました。

もっとも読み直しても相変わらず著者の言いたいことはチンプンカンプンでしたが、農民革命としてのフランス革命という側面に焦点を当てるならば、革命の成果として今日の農業大国フランスがあるのではないか-と考えてみることにしました。すなわち、「強い農業」とは「農民が強い」ということによって成立するものなのでは?

バブーフだったでしょうか?「あの革命的なパリ市民は何処に消えてしまったのか」みたいなことを言ったのは。フランスやアメリカの侵略と果敢に闘ったベトナム人民の革命性は何処に消えてしまったのだろうか?などと思わないこともないわけですが、それもまた見えない所でベトナムの農業の強さを築きつつあるのかも知れません。

日曜日は猛暑

2008-07-14 02:29:14 | 天気
毎週、土日は暑くて堪りません。週末にはあれこれ調べものをしようと思いつつ暑さに負けて実行できた例がなく、それでもウィークデーには幾つかの課題を週末用に残す癖が抜けません。土日が殊更暑いわけではないのでしょうけど、昼間の仕事でエアコン生活を送ってしまっている今は、これまで以上にエアコンなしの気温が体力を消耗させるように感じます。きょうは日本も35度を超える猛暑だったそうですからここで暑さを嘆いても同情をかうことはできそうもあませんが。

午前中は新書版を一冊持って薄暗いカフェで読みました。20年近く前に書かれた「ODA援助の現実」とのタイトルで確か一度は読んだ筈ですが内容は初めて知る思いで、忘れてしまったと言うより当時の問題意識が希薄だったからなのでしょう。

カントー橋建設のODA248億円は2007年度全出資額の7800億円の約3.2%を占める規模になるようです。この大プロジェクトが崩落事故以来10ヶ月も止まったままというのは、事故自体の責任に加えて更に問題を広げてしまっているようです。アプローチ道路の建設は今年早々に再開とのニュースがありましたが、最近の報道では甚だしい遅れだとのこと。

先週カントーからビンロンに渡るフェリーを利用しましたが、夕刻のラッシュ時のせいもあって乗るまでに1時間以上も待たされました。

この橋の完成によってカントー市を始めホウザン、ソクチャン、バクリュウ、キエンザン、カマウ各省の道路交通が短縮されることになるわけで、おそらくその完成を前提として各省での工業団地建設の計画も進められていたのだと思います。カントーフェリーの待ち時間も乗用車はまだ恵まれている方でコンテナトラックなどは図体がデカイだけに更に長時間待たねばならない様子でした。

予算の名称は政府開発援助であっても実質的にはゼネコン救済事業みたいなものですからベトナムへのODAが多いか少ないかにはあまり関心がありませんでしたが、ODA改革として外務省が述べている内容が果たしてどれだけ現実的なものであるのかは、橋崩落事故や「PCI」社の汚職問題を巡って明らかにされるべきものです。

> 3) チェック体制のさらなる強化と不正防止
 事前、中間、終了時、事後それぞれの段階での評価とモニタリングを充実させ、適切な案件管理を行います。また評価結果は企画立案にきちっとフィードバックするシステムを確立させます。不正を未然に防止する策を充実させるとともに、不正が起きた際には厳格な対応をとります。
http://www.mofa.go.jp/Mofaj/gaiko/oda/nyumon/hayawakari/hayawakari_3.html#1

夜9時頃になってようやく雨が降り始めました。これで寝苦しい夜からは解放され、ほっとしますが出来ればもう少し早めに降って貰えれば・・・

ブラジル大統領ボーグェンザップ訪問

2008-07-12 01:48:53 | 新聞・書籍
ルーラ・ダ・シルバ、ブラジル大統領がベトナムを正式訪問し、国家主席、共産党書記長、首相、国会議長と会談したとのこと。二国間の経済関係は、2002年の4300万ドルから2007年には3億2300億ドルに急増。2年後は10億ドルに達する見込みのようです。

この輸出入金額がどのような商品であるのかは新聞ではしることができませんでしたが、おそらくブラジルからの農産物、大豆飼料等が大きなウェートを占めているのではないかと思ってしまいました。

経済関係よりも個人的に興味を引いたのは次の行でした。

-7月10日午後5時、Lula Da Silva大統領はVo Nguyen Giap大将の自宅を訪問し会見した。大統領は、ブラジル人民は決してベトナム人民と離れることはありません、と述べ、「若い頃、ベトナムの勝利は私に感動を与えてくれました。私達は大将の勇敢さと戦略に特別な尊敬の念を抱いています。私は大将を訪問することなベトナムを去ることはできません。傍に立つことができ、私にとって大きな喜びであり光栄です」と語った。

汚職に揺れるブラジル労働党政権ですが、Lula Da Silva大統領がどんな青春を送ったのかには少々興味を抱かせる言葉でした。

1911年生まれのVõ Nguyên Giápは来月で97歳。ディエンビエンフーの勝利を導いた司令官、ベトナム人民軍の最初の大将であると同時に中ソ対立時には失脚。カンボジア侵攻には反対したとも言われています。

11年ほど前、知人のY君に「ボーグエンザップに会えたんですよ」と聞かされ、まだ存命中とは知らず驚くとともに羨ましくも思いました。ブラジルをはじめ南米とベトナムとの関係は今後さらに深まりそうです。ゲバラの出身国アルゼンチン、あるいはキューバ、ボリビアへ行く機会を作りたいものです。