GOVAP便り

プノンペンからモンドルキリに、その前はTAY NINH省--AN GING省--HCM市GO VAP

アールイの水牛

2008-09-29 01:39:59 | 旅行
ケサンからはホーチミン道路を南下してThua Thien Hue省のA Luoiに出ることができます。100kmほどの距離ですが、この日は一度フエに戻り、フエで一泊した後アールイに向かうことになりました。

国道一号線も今ではフエ市街の手前でダナン方向に迂回するバイパスができ、道路事情は8年前とは大違い。フエから山を越えてアールイに至る道路もすっかり舗装されてしまっていて別世界の観がありました。1日2便ある南部バスターミナルからのバスでも1時間半で着くそうです。

傾斜のきつい砂利道に胃袋が上下に揺すぶられながらバイクで走ったことを思い出します。すれ違うバイクも滅多になく、山の中で大きな鎌を持った少数民族の人にジロッと見詰られた時はビビリました。バイクを止めて見晴らしの良い場所で煙草を吸っていると小学生くらいの子供が近寄って来て「おじさん、お金頂戴」。店屋も何もないところでお金の使い道もないだろうにと思ったわけですが、「お菓子を買う」とのこと。お菓子こそ「資本主義商品経済が非資本制生産領域」侵略の尖兵であると妙に納得した瞬間でした。

今回は道で出会う民族衣装が随分と減ってしまったように感じました。籠を背負い手巻き煙草を口にしたお婆さんの姿なども見かけません。

「アールイは少数民族の比率が高いから投資しても失敗するんだよ。クアンチはキン族が多いからその心配はないけど」などとの話を聞きながらフエに住むベトナム人と食事を共にしたわけですが、「酒ばかり飲んで働かない少数民族」と言いつつ自分もビール飲みながら延々と食べ続けているではないか、と思うことしきりでした。

「アールイの特産だから」と喰わされた養殖の大トカゲは、黒々と焼かれぶつ切りにされた肉の味はともかく、生きてる姿を厨房に見に行った時は胃袋が縮む思いでした。店には地元の公安の人々も来ていて、国境を接するラオスの公安との親睦会をしていて、「国境の町」を実感させられました。

>20年間周囲と隔絶された200人の集落を発見
>アードット国境経済区設立
>仕事あっせん詐欺、金採掘現場で強制労働
>アールイ水力発電所着工

等のアールイに関わる記事は全国紙でも報道されてましたが、実際行ってみると変化は予想以上でした。町にはADSLも来ているし、パラボナ・アンテナを付けた家も少なくありません。外国の衛星放送を受信するためのものではないそうですが。

広場に高校生が大勢でたむろしていました。「体育の授業」とのことでしたが教師の姿は見当たらず、駄弁ってるだけ。殆どが少数民族の子供たちでしたが民族衣装ではなく、サイゴンの高校生よりも少々派手めの服装。たぶんキン族とは色彩感覚が少々異なるのではないかとも思いました。

その傍らで水牛が草を食んでいました。長閑で、ここで2・3年暮らしてみようかと思わないでもありません。恐る恐る水牛に近づくとバリバリと草を食いちぎる音が聞こえます。それに鼻息も荒くシーシー。配合飼料を買わずとも家畜を育てられる環境が後どれだけ続くものなのでしょうか。

ヤトロファの垣根

2008-09-27 02:16:05 | 旅行
クアンチ省ダクロン県の道路沿いにヤトロファ(南洋油桐)で作られた垣根がありました。Br Van Khieu族の家のようでレンガ作りではなくの木でできた少々粗末な感じの高床式です。

バイオ・ディーゼルはどうやらこのヤトロファが本命のようで、ベトナム農業省も2025年までに52万ヘクタールの栽培計画を承認したとのニュースがありました。メコンデルタでは魚油を原料としたディーゼルオイルの需要が多く、それの不足を補うべくより生産原価が低いヤトロファの栽培を始めたとか。

写真では見たことがありますが、実物を手にとって見たのはこれが初めてです。実は一年中生るようで、熱帯植物というのはどうにも不思議に感じてしまうわけですが、青い実と共に黄色に熟した実もあり、それを手で開くと茶色い種が出てきました。この実を圧搾すれば油脂が採れ、かつては灯火用の油に使ったようです。

その家の犬に吠えられたこともあって、同行したベトナム人が家の人に声を掛けました。小さな庭の菜園を指して「お母さん、この野菜は何を作ってるの」?後を追って庭に踏み入りジロジロとあちこちを眺め回り、「どうして垣根にこの木を植えたのですか」?と尋ねてみると、「牛が入って来ないため」だそうです。

ヤトロファの葉には少々毒性があり、動物が食べたり近寄ったりしない効果があるようで、ご丁寧にもヤトロファの木と木の間には棘のあるサボテンも植えてありました。
垣根という日本語がなかなか思い出せず、ひょっとすると日本ではもう死語になりつつあるのではないか、などとも思ったわけですが、熊やイノシシ被害が相次ぐ日本でこの木を植えたら効果があるのでしょうか。




ケサン基地

2008-09-25 02:45:25 | 旅行
梅棹忠雄著『東南アジア紀行』にクアンチからラオスの国境を越える記述がありました。国道9号線を走りいつの間にか出国手続きもせずにラオスに入ってしまっていたそうです。今から50年前の風景ですが、山間の道路沿いに住む少数民族Br Van Khieuの人々の生活は今も変わらないのかも知れません。

1958年のことですから1968年ケサン基地の攻防より10年前のこと。まだケサン基地そのものがなかった時代です。レンタカーの若い運転手に、米軍のケサン基地はどの辺にあったのか?と聞いてみたところ「知らない」とのこと。クアンチの観光はDMZ(非武装地帯)ツアーくらいだと思っていたので意外な返事でした。

ケサン基地という名を覚えていたのは68年の攻防の激しさ故だったのだと今になって気が付きました。たぶん当時のTVや新聞のニュースで連日目や耳にしていたからなのでしょう。ケサンの町がHuong Hoa県の県庁所在地(huyện lỵ)であることなどは直ぐに忘れてしまいそうですが。

フエの書店でクアンチ省の地図を探してみましたが、置いてあるのはHCM市の地図ばかり。手持ちの少々古い地図帳に頼るしかありません。奇異に感じるのは省庁所在地がクアンチ市ではなくドンハー市であることとクアンチ市の面積が6km2ほどでしかないことです。埼玉県蕨市よりは大きいわけですが人口密集地であるわけでもなく、どこか虐げられている感じが・・・・。クアンチ省には8つの県があり、その一つがHuyện Cồn Cỏ と記されてました。しかし地図では見当たりません。人口は400人面積2.2km2。よくよく調べてみると離島でした。地方行政は、省-県-村となっていますが、おそらく全国で一番小さな県のようです。

ケサン基地跡地を訪れるのは次回に譲り、ラオバオ国境ゲートまで行ってみました。随分と立派な門構えで、これなら知らぬ間に国境を越えてしまった、などということは起こりようもありません。

ラオバオ国境経済区

2008-09-24 03:24:25 | 旅行
サイゴンからフエまでのVN航空便は1時間10分の飛行時間。フーバイ空港から市内までは15km程でハノイの空港よりも遥かに短いのにタクシー代は14万ドン。マイクロバスでも一人4万5千円です。国道一号線まで歩いてそこで通るバスを拾おうかとも考えましたが荷物が少々重いので諦めました。
市街地に入る手前の南部バスターミナルで降り、そこからドンハー行きのバスに乗り換えました。30分ほど待ち時間があり、掲示板を眺めるとHCM市やハノイ行き、コンツムやラオスのサバナケット行きのバスも出ていました。

国道一号腺は見違えるように整備されていて、ドンハーまでの80kmも1時間15分で着きました。ドンハーからは西に向かう国道9号線を進むとラオスのサバナケットからタイに抜け、ミャンマーに至るそうです。太平洋とインド洋を結ぶ「東西経済回廊」。

バンコクからハノイまで船便で10日間掛かるところが、この道路を使えば3日で済むのだとか。また、出口を持たないラオスにとっては太平洋に出る貴重な道路であるようです。今年はやたらとベトナム・ラオス関係の記事が多く目に付きます。
きょうも、「VN, Laos determined to lift ties to new heights」とありました。
http://vietnamnews.vnagency.com.vn/showarticle.php?num=03POL230908

ドンハーから国境の町ラオバオまでは80km。舗装された道は山間を通るとはいえ比較的なだらかで思った以上に快適でした。

ベトナムは中国、ラオス、カンボジアとの長い国境で接していますが、この国境周辺に幾つもの「国境経済区」を建設中です。確か30ヶ所ほどだったか。ラオスや中国との国境地帯の殆どは少数民族の居留地ですが、そこに1万ヘクタールもの経済区を造成し工場団地や商業区を建設するということになります。

閉ざされた国境から開かれた国境への転換とその経済効果ということなのでしょうか。

クアンチ省

2008-09-22 02:13:26 | 旅行
クアンチ省に行って来ました。
ベトナム中部の省は北からクアンビン(広平)クアンチ(広治)フエ、ダナンを挟んでクアンナム(広南)クアンガイ(広義)と「広」の文字が続いています。山脈と海岸に挟まれた狭い地形に何故「広い」という地名が付けられているのか不思議に思わないでもありません。
かつてチャンパ王国の支配した土地をベトナムの領土とした時に付けられたベトナム名なのだろうと思います。クアンガイの南のビンディン省などもっとも露骨で漢字に直せば「平定」です。もっともこの名は、チャンパを平定した時ではなく、フランス等外国勢力の支援を得たグエン・アィンがタイソン朝を打ち破った時に付けられたものです。

地名が物語るベトナムの南進の歴史、というよりは「侵略の歴史」などと思うようになったのはベトナムで生活するようになってからのことで、特に中部で少数民族と生活圏を接する地域のキン族ベトナム人の人々の態度には侵略民族の傲慢さを感じることが少なくありません。そもそも自らをキン(京族)=都人と名乗るところからして優越意識の凝縮なんだろうと思うわけですが、しかし今の多くのベトナムの人々はKinhという言葉の意味を知っているわけでもないようですが。
その意味では中国に対して虚勢を張って名乗った「日本人」といい勝負なのでしょう。

クアンチ省の省都は何故かクアンチ町ではなくドンハーの町です。15年ほど前に一度来たことがありました。ハノイから南下する夜行列車に乗りドンホイで一泊した後、ドンホイの町があまりにも殺風景で居心地が悪かったので再び列車に乗り、かつて南北を隔てていた17度線のベンハイ川を見ようとドンハーの駅で降りることにしました。ドンホイの駅でドンはーまでの切符を買おうとすると、フエまでの切符しか買えないとのことで、しかしドンハーで下車できるからとの説明が納得しがたいものだったことを思い出します。

当時のドンハーの駅周辺は今から振り返れば驚くほど寂れていて、駅から国道1号線のバスターミナルに至るのも畑や藪の中を通る細い道だったように記憶してます。たぶん貧しさはクアンビン省ドンホイの町と同様だったのでしょうけど人柄の明るさは対照的でした。ドンホイでは誰とも話すことなく緊張していたようで、ドンハーではその緊張も解けました。南北分断の20年間が統一後20年近くを経ても違う文化を作り出してしまっているとの強い印象が残りました。

そのためクアンチ、フエを北中部とする現在の地理的区分にどこか違和感を抱くことがあります。しかし南北を隔てる地理的特徴は紛れもなくダナンとフエを分かつハイバン峠であり北緯16度線の少し北です。従って1954年のジュネーブ協定による南北分断は省を二つばかり南が増やしたもので、当時の革命政権にとっては南北分断の屈辱に加えて更に屈辱を強いるものだったわけです。


洗濯物

2008-09-16 02:59:57 | 天気
日本に帰った時などは洗濯物の乾きの遅さが気になり、サイゴンの気温の高さに慣れてしまったせいなのだろう、などと思っていたわけですが、引っ越してきたこの小さなボロ家では洗濯物の乾きが悪く、熱帯気候とは言え、家の立地条件、陽当たりや風通し具合で随分と違うようです。

昨日の日曜日は久しぶりにスッキリと晴れて気温も上がり、タオルケットやシーツを洗濯しました。5時間ほど外に干したというのに出掛ける前の昼過ぎになっても生乾き。weekdayは狭い家の中に干したままで、吊るす場所がなくなるとアイロンを掛けてから仕舞うという面倒を繰り返しています。

一年中同じ夏物の衣料を身に着けてるせいと汗と埃のため洗濯頻度が高いために生地の傷みも思いの外早いように感じます。下着を擦り切れるまで身に着けたのもベトナム生活をはじめてからのことだと思います。

下着を買うお金もない、ということではありませんが、何しろ最初に湿疹になったのがベトナムで買った下着のせいでしたからその恐怖が頭を離れません。スーパーに行けば、タントゥアン輸出加工区で作っているグンゼの下着を買えますが、上半身用のみでトランクス、ブリーフは置いてありませんでした。

そもそもトランクスは売られてなく、ブリーフは日本で売られている形状とは少々異なり、それが何故だかハンガーに剥き出しで吊るされています。COOP MARTもBigーCも同様に。

先日、ベットからシーツを剥がそうと引っ張ると見事に生地が裂けてしまいました。10年ほど前ベトナムでは綿のシーツが見つからず日本から持って来た3枚の一つです。毎週一度洗濯するとして520週÷3=173回も洗濯した計算ですが、中央部は生地がだいぶ薄くなっていました。

それでも周りは十分使えそうなので、ちょうど擦り切れたクッション・カバーをこの布で縫いました。足踏みミシンは使えないまま引越しの際に売り払ったばかりなので手縫い。針に糸を通すのに一苦労しつつ子供の頃に祖母に糸通しを頼まれたことを思い出しました。老眼鏡の上から白黒テレビの歌舞伎中継を見ながら縫い物をしている祖母の姿が鮮明に蘇りました。

クッション・カバーの出来に我ながら満足し、ついでに枕カバーも縫うことに。すると次に映画「ヒットラーの偽札」の「清潔なベッド」のシーンを思い出しました。当時のヨーロッパの綿製品は何処の国の綿花が使われていたのでしょうか。そう言えば、最近ベトナム政府が綿花栽培を強化するとの記事もありました。綿製品の生産原価を下げるために原料綿の輸入を減らすためだとか。綿花畑を見たことがまだありません。知ってるのはCCRのCotton Fieldsのメロディーぐらいです。

マダガスカル

2008-09-14 03:49:02 | 農業・食品
クリーン開発メカニズム(CDM)事業についてネットで幾つか検索してみました。
キャッサバ芋の生産量を調べているうちに中部クアンチ省のタイピオカ工場の汚染排水問題を知り、同時にタイニン省やクアンガイ省では工場廃水処理と発電を行うCDM事業が日本企業によって提案されているのを知りました。

エネルギー効率の悪いベトナム等「途上国」での温室効果ガス排出量削減への投資という京都メカニズムに基づく取り組みです。キャッサバに限らず芋からでん粉を作るには大量の水を必要とするようで、この汚染排水からメタンガスを回収し、工場燃料として使われている石炭に代えて燃焼させるシステムの事前調査でした。

ナンヨウアブラギリ(Jatropha)関連のCDMもあるだろうと探してみたのですが、ベトナムでは見当たらず、その代わりに「マダガスカル・ナンヨウアブラギリ由来のバイオ燃料製造・販売事業調査」がありました。マダガスカルでは王子製紙による「マダガスカル・トアマシナ州における循環型バイオマスプランテーションの事業化調査」というのもあるようです。

自分ではその名前と地図帳上での島の位置以外何の知識もない国でした。が、「1世紀前後、ボルネオから航海カヌーでインド洋を横断してマダガスカルに移り住んだ・・・」との記述を見付け、何かで読んだ記憶があるような気もしますが、グーグル・アースで探してみるとかなりの距離。

人口は1800万足らずで面積はベトナムの1.8倍。人口密度30人/km2は屋久島の130人/km2とも比べようもありません。「お前もカヌーに乗って行ってみるか」?と誘われたら少々尻込みしそうですが、GPSのある現在ならばそれだけで2000年前の航海とは比べ物にならない便利さなのかも。

主要農産物は、米、キャッサバ、サトウキビ、トウモロコシ、コーヒー豆でベトナムと似たようなものです。しかし単収は米2.48トン/ha キャッサバ6.21トン/haとベトナムの半分以下の様子。

最近の新聞にベトナムからの海外労働でアンゴラやモザンビークに数千人が渡っているとの記事がありました。マダガスカルの対岸はモザンビーク。






中秋の雨

2008-09-13 01:49:23 | 天気
中秋祭まで後二日。Quang trung 通りの月餅も「50%OFF」の表示が掲げられていました。今年は月餅が売れない、との記事を読んだような気もしますが定かではありません。インフレと引き締め政策のお陰で昨年より売り上げが減少するということはありそうな話です。

毎年この季節は雨が多かったようです。今年は特に朝晩雨に降られての通勤が今まで以上に頻繁です。昨晩も雨音が続き、ようやくきょうだけは久しぶりに合羽を着ずに済みましたが、Quang Trung通りのISUZU工場裏を折れてCong Hoa通りに抜ける道は大きな水溜りの連続で、雨期が終わるまで水溜りがなくなることはなさそうです。

ベトナム南部の雨期の方が日本より降水量が多いと思っていましたが、台風情報を見たついでに気象庁の統計を見てみると、メコンデルタの雨量も埼玉県と同程度でした。メコンデルタは雨期の間、平均的には200mm前後、300mmを超えることは滅多にありません。今年の埼玉県鳩山の観測も7月が59mmと少なく4,5,6,8月が200mm程度ということです。

今年は降り続く雨に、ふとメコンデルタの米は大丈夫だろうか、などと思ってしまいました。自分らしからぬ発想ですが、どこかで聞いたような台詞。数年前に観た映画「スパイ・ゾルゲ」で本木雅弘が演じる尾崎秀実の獄中からの手紙にありました。

気候の寒冷化の方が遥かに農作物への影響は大きいようで(場所にも因るのでしょうけど)、18,19世紀の寒冷化が江戸の三大飢饉をもたらし或いはまたフランス革命時のパン不足の背景ともなったわけですが、同時にこの飢饉への対応としてヨーロッパではジャガイモ、日本ではサツマイモが普及する契機ともなったようです。尾崎秀美の時代のそれは「昭和東北大飢饉」と呼ばれたとのこと。

天水に依拠した米作の地方も一部にはあるようですが、灌漑の発達したメコンデルタでは雨期の日照時間の短さは単収を低下させるようです。ヴィンロン省の農業統計を見ると乾期の春収穫米は6トン/haですが、雨期の秋収穫米と冬収穫米はそれぞれ4.3トン、3.6トン/haとなっていました。

薩摩芋

2008-09-07 04:44:09 | 農業・食品
日頃お世話になってるジャガイモと違って、自分では料理して食べることもないサツマイモですが、ベトナムのサツマイモ生産量は日本よりも多く、世界で5番目の175万トン(2002年)。芋類ではキャッサバが500万トン近くの生産量があるのでそれと比べれば作付け面積もだいぶ少ないようです。

乾期に入った頃にサイゴンの通りで焼き芋を売る姿も見掛けたことも何度かありました。しかし気温が気温だけに買って食べようという気は起きません。ただ二十歳前後の頃、石焼き芋やおでんの屋台に惹かれながら買うお金がなくて恨めしく思ってその前を通り過ぎた記憶が蘇るだけです。

メコンデルタのサツマイモ栽培はこの間増加する傾向にあったようですが、先日のVietnam Newsに
-Price of sweet potatoes climbs; benefits sprout for local growers-

とのビンロン省の農民の記事がありました。読んでビックリ。昨年は2000~3000ドン/kgだった出荷価格が今年は6000ドンに跳ね上がり1ヘクタール当たり200百万ドン(130万円)の収入になるのだとか。と、いうことは33Ton/haの収穫の計算となり、ちょっとオーバーな数字ではないかとも思いつつ。

それにしても籾米が1kg5000ドン程度です。しかも単収は米の6倍ほどあります。メコンデルタでサツマイモ作りに挑戦してみようかという気にもさせられます。たぶん来年はメコンデルタでサツマイモブーム。

出荷先は中国への輸出だそうです。記事を読みながら隣の席のTさんに話すと「中国はそのサツマイモをどうするの?食べるわけ?」と聞かれちょっと困惑。「澱粉にするんじゃないか」と答えたもののSTARCHという単語を知ってるだけのこと。澱粉に関する知識など何もありません。

農畜産業振興機構のサイトに「世界のでん粉需給と消費量の見通しについて」のレポートがありました。アジアでの生産・消費の伸び率が高く、2015年の需要を満たすには世界で4600万トンの増産が必要なのだとか。これを仮に中国でトウモロコシから生産すると仮定した場合必要な農地は900万ヘクタールだそうで、ほぼベトナム全土の農地に相当する面積です。

食品需要の増大はでん粉製品だけではないわけですから驚きです。ちょっとこの先農産物・食品価格の値下がりは考えられないのかも知れません。


『経済学入門』

2008-09-04 11:42:16 | 新聞・書籍
引越しで本を選り分けている時にローザ・ルクセブルク『経済学入門』が出てきました。何かの折にショウジ君から借りた本です。勘ぐるに、どうせ返さないだろうから失っても惜しくない本、もう二度と読む筈のない本だったに違いなところ。何しろ岩波文庫の翻訳本です。文字は小さくて老眼の進行する今日では苦痛だし、訳は堅苦しくやたらセンテンスが長くて主語述語の関係が不明確だったりもするやつです。

たぶん一、二度は数ページ捲ったこともあったものの長続きせず、本棚の奥に埋もれていました。『資本蓄積論』ならともかく、という思いもあり、またドイツ社会民主党の党学校での講義内容ということですから、「労働者階級の前衛」を志向しないわが身には何処か場違いな感じがしないでもありません。

いつからか農業経済論みたいなものを考えてみたいという思いをベトナムにいて抱くようになり、とりわけWTO加盟以後の農業政策が問題にされている現状ではその思いは強くなります。昨今の農産物価格の急激な上昇が農業・食糧問題をクローズアップさせているせいもあります。「バイオエネルギー生産が食糧価格を押し上げ、貧困国の食糧危機を作り出してる」との見解も多く目にするようになりましたが、どこか漠然とそれに組する気にはなれません。もっと構造的で根本的な問題が解明されるべきではないのか、などと思ってみるわけです。

『入門』の第一章は、「国民経済学とはなんであるか?」で、「国民経済学」なるものにローザは「世界経済」を対置し、資本主義経済が世界経済として存在することを展開します。ローザの帝国主義論や国際主義の基礎となる経済認識なのですが、こういう文章を読んでると自分でも「資本主義成立史」を整理してみたい、という気にさせられます。何しろ中学や高校の歴史教科書は退屈極まりないものでしたし、歴史を学ぶ意義すらも感じさせてはくれませんでした。

資本主義と言えばイギリス産業革命、綿工業の発展ということで、第一章の4でその歴史に簡単に触れています。とても良い文章です。少々興奮気味に読みました。幕末明治の頃の日本では「金巾」と呼ばれた綿布だと思うのですが、近代国家日本が朝鮮を植民地化する初期には農産物のを輸入する代わりにこれを輸出していたわけで、「綿布の来た道」の続きに思いを巡らせました。