常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

タブーの検証でみえること

2006年09月30日 | 社会

タブーというものが存在するということについて、異論を唱える人はいないでしょう。あるテーマについて、事実がどうであるかはよく分からないけれども、とにかくそのことについて触れてはならない、言及してはならない、というものが存在します。ところで何故、タブーが存在するのでしょうか。当然、タブーがタブーとして存在するには、それだけの理由があると考えるべきだと思います。

タブーについて言及したり、深く追求したりすると、得体の知れないところからいやがらせがあったり、脅しがあったり、下手をすると殺されたりしてしまうというのは、何も映画の話ではないと考えたほうがよいかもしれません。現実世界で十分に起こり得る話です。それだけ、重要なだけにタブーはタブーとしてあり続けるのでしょう。

一方で考えなければならないのは、もしタブーの真相が明らかになると、どんなことが起こるのか、ということです。タブーがタブーである理由は、間違いなくその真相を隠そうとする人々がいるからです。その隠そうとする人々の力が強ければ強いほど、そのタブーは「ヤバイ話」になってきます。タブーが国家や世界権力とつながっているような類のものであれば、当然、それを隠そうとする勢力は巨大なものとなるでしょう。逆の言い方をすれば、それだけ巨大な勢力というのは、多くの人々に強い影響力を持っている存在であり、それが関わるようなタブーというのは、それだけ多くの人々の生活や人生にも、大きな影響を及ぼすものになるということです。反対に、もしそのようなインパクトがない、どうでもいいことならば、タブーはタブーにはなりえないともいえます。

ところで、最近のインターネットの発達により、特定の勢力の人々が、自分たちにとって都合が悪い事象をタブーとして闇に葬り去るというのは、なかなか難しくなってきたように思います。

たとえば、9・11の同時多発テロに関連して、ある日本のテレビ局では「ペンタゴンに飛び込んだのは飛行機ではなかったらしい。近辺のガソリンスタンドの監視カメラに写ったのは、無人偵察機だった」といったようなことを、謎めいた話として、視聴者の興味を惹くようなストーリーで展開します。「なるほど、ありうる」という話は、テレビ向けにはもってこいのネタでもあります。インターネットが普及していなかったら、そこから先、事実関係や裏づけ情報などについて、自分で検証するということは、ほとんどできなかったでしょう。しかし、これだけインターネットが発展し、さまざまな情報にアクセスできるようになると、事件で不自然とされること、報道されている内容と辻褄があわないことがどれだけあるのか、瞬時に検索し、検証することができてしまいます。実際、9・11の事件で、ペンタゴンに激突したのは、明らかに飛行機ではないでしょう。このことは、某テレビ局の特集でもあったとおり、カメラに写ったものが飛行機ではないようだ、というのもそのとおりですが、攻撃を受けた後、後片付けをしている現場の写真でも、飛行機の残骸らしきものはまったく見当たらないのは、あまりにも不自然だし、何よりも建物の損傷跡が飛行機よりもずっと小さいのが一目瞭然です。

結局当時、このことでアメリカの対テロ戦争という大義名分が打ち出され、それが正当化されました。その後まもなく、ありもしなかった大量破壊兵器を理由にイラクとの戦争に突入しました。中東情勢の不安が煽られ、現在ではイランの核問題なども加わり、石油の高騰が続いています。そして、この石油高騰が人間社会全体に及ぼす影響は、まことにもって大きいものです。

考えていただきたいと思います。ペンタゴンに突っ込んだのが飛行機だったのか、そうではなかったのか。そのこと単体でみれば、どうでもいいテーマかもしれません。しかし、物事は巨視的にとらえる必要があります。もし飛行機ではなく、ミサイルだったとしたら、何を目的としているのでしょうか。「分からない、謎である」で終わらせてしまっては、今のテレビ番組の域を出ることはできません。仮説でも結構です。「こうだとしたら、辻褄があうのか」という検証を重ねることで、真実がみえることがあります。インターネットという素晴らしいツールもあります。自ら調べることができるし、それらを通じて考えてみるべきではないでしょうか。タブーは、必ず自分たちの生活と深く関わっているのです。石油高騰という事象は、直感的には、便利か不便かという程度の話かもしれませんが、、突き詰めていくと、必ず自分や家族、周りの人たちの生死に関わることにまで発展していくことになります。それがタブーの怖さです。そしてタブーの怖さは、その事象単体ではなく、周辺の事情やその関係をひとつひとつ検証し、物事を巨視的にみることでしか分からないのです。

ただ、たしかに物事を巨視的に捉えるには、たくさんの時間が必要でもあります。反対に今日、明日の小さなことを考えるのに多くの時間を必要としません。現代社会は忙しいし、人間はなかなか余裕をもつことができなくなってしまっています。大きな問題があることを知りながらも、それらについて考えるよりも、明日の身近な心配をしがちになります。目の前にある安楽を求めようともします。しかし、それでは世の中の大きな流れがみえてこないし、そのなかで自分がすべきことを見出すことができなくなってしまいます。

タブーとは何か。世の中で何が起こっているのか。少し余裕をもって、そういうことを真剣に考えられるようになると、自ずと大きく深い問題意識が生まれ、人生をかけてやるべきことが分かるようになるのではないかと思うのです。

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