常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

「大人」の責任

2006年09月01日 | 人生

先日、カーズというPIXARの映画をみて、不覚にも感涙してしまいました。

ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、カーズの登場キャラはみんな自動車です。主人公はレーシングカーという設定です。アメリカの映画だから、主人公のレーシングカーが、いかにレースで勝っていくか、競争社会で勝ち進んでいくかというストーリーだと思っていました。

ところが違うのです。主人公は、レーシングカーながら優しさや思いやりをもっており、レーシングという競走世界にドップリという生き方をしません。心をもち、そのことによる幸せを知っているのです。

競争のなかで生かされている、我々の住む現実社会においては、とかく、心を持つなど不要であり、そんなことに価値を置くなど、きれいごとに過ぎないと言われることがあります。たしかに、今の社会システムは、そのようにできています。
 
しかし、このような子供向けの作品に出てくる登場人物は、結構さらりときれいごとを言ったり、やったりしてしまいます。現実社会において、心を持ち、きれいごとを突き詰めていくことの重要性と難しさを痛感しているが故に、涙腺が緩んでしまうのでしょう。

純粋にやるべきことをやり、言うべきことを言う。
 
当たり前のことですが、このことを実行するのは、実に難しいものです。そうであればこそ、この社会で、きれいごとをとことん突き詰めていくことは、非常に大事なことだと思うのです。

軽々しく「大人なんだから、きれいごとなんて・・・」と否定するのは間違っています。そういうときの「大人」の意味は、現実を見ろ、夢をみるなという口にする人間たちです。競争のなかで生かされ、その結果で人間の価値を決め手しまうような現代社会は本当に正しいのでしょうか。あるべき姿なのでしょうか。みんな本当に疑っていないのでしょうか。何か間違っていると感じてはいないのでしょうか。

もし漠然とでも間違っていると思っていて、そのことに違和感を覚えながらも、「仕方ない」と見過ごすのであれば、そのこと自体が間違っています。そして、そうしてしまう人間たちを「大人」と呼ぶのであれば、無理に「大人」になる必要はないでしょう。

むしろ、これからの新しい時代を迎えるにあたっては、そういう「大人」には変わってもらわなければ困ります。ギスギスした競争社会の仕組みの結果、人々が心の余裕を失い、全体をみることができなくなり、究極的にそのことで地球を傷め、自らが住めない世界にしてしまうなど、けっして許されるべきではありません。

こうしたテーマに取り組もうとすることが、まさに現実に向き合う、逃げないという意味であり、これを突き詰めていくことがきれいごとになっていきます。辛いし大変なことですが、これからの社会を創っていくためには、非常に大事なことでもあります。
 
唐突ですが、カオス理論という用語について、インターネットで引いてみると、こんな風に書いてあります。
 
「一般語では「メチャクチャ」にとらえられることがあるが、これは間違えである。科学においてはカオスとは基本的には決定論であり、初期値敏感性が全体に複雑に無限に影響を与えるという意味である。
北京の蝶が羽ばたいただけでニューヨークの天気がかわってしまうような世界をど思うか。
人間の知恵の限界を悲観的にとらえることもできる。でも逆に主観的には自由な世界に生きていられるということにもなる。 それから蝶が世界の天気に影響をあたえてるなら、僕や君たちの行動も世界や地球環境に影響をあたえて続けているっている自身のプゼンスと何らかの役割を果たしているということ感じることができる」
 
人間は、けっして諦めてはいけません。

今我々が、きれいごとが通らない世界に生きているのであれば、きれいごとを通すことを諦めるのではなく、きれいごとが通る世界にしていくことに執念を燃やすべきです。

それが本当の「大人」の責任ではないでしょうか。

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