今の社会情勢に、いろいろと不満を口にする人はいますが、何とかしたいと思うなら、まず自分の力で動くことが必要です。それから、何とか動こうとしている人々を応援してあげることが必要です。人間の能力には限りがあります。できる範囲でしかできません。しかし、できる範囲で努力することが大切です。
自分が進めるべきと思う方向性と、他人が進めるべきと思う方向性が違うこともあります。こういうときは、自分は自分ができることをやればよいし、他人がやろうとしていることは素直に応援してあげればいいのです。
けれども、ときどき自分が進めるべきだと思う方向性に「ダメ出し」をする人がいたりします。こういう場合は、それはそれで素直に受け入れてあげればよいでしょう。そして、その上で自分ができることを淡々と進めればよいのです。
私個人に関して言えば、「他人がやろうとしていること」に対しては、素直に応援したいと思います。「ダメ出し」をするという行為についても、それはそれで大いに結構なことだと考えます。その「ダメ出し」という行為が、私にとっていかに間違っているものであっても、その行為を正しいと信じる人には、それを正しいと信じる自由があります。それと同じように、私にも正しいと思うものを信じる自由があると考えます。
ただし、自らの言動には責任を持たなければなりません。「ダメ出し」をする人は、その行為が結果として間違っていた場合、それにはそれ相応の償いが求められることになることも、同時に知っておく必要があります。人間であれば当然のことです。それが自然の摂理でもあります。
また「真剣」に生きている者に対して、「ダメ出し」をするということは、その者に対して「真剣」を抜くという行為でもあることを知っておかなければなりません。これは、どちらが正中線を保っているかの勝負であり、どちらが本質を見抜いているかの勝負でもあります(「正中線を保つことの重要性」参照)。正中線を保てていないまま、正中線を保った相手に「ダメ出し」をしてしまったら、その攻撃の深さだけ傷つくのは、他でもない自分になるのです。真剣勝負とは、そういう怖さがあります。だからこそ、迂闊に「真剣」は抜けないのです。
この意味が分かる人であれば、他人の言動に対して「ダメ出し」をすることに、相当躊躇するはずです。
それでも、他人の言動に対して「ダメ出し」をするという人は、自分の方が「真剣」に生きているという絶対的な自信を持っている人間か、あるいはこの意味が分からない、もしくは相手の力量を見抜けない感性が鈍い人間でしょう。
もし、感性が鈍いが故に「真剣」に生きている人に対して、「ダメ出し」をしてしまい、結果として自分が傷ついてしまったとしたら、そのときは「真剣」に生きている人間を見抜けなかった自らの鈍さや未熟さを反省していただくほかありません。
お分かりでしょうか。要は「ダメ出し」をするときは、お気をつけくださいということです。そして、どうしても「ダメ出し」をしたければ、自分を磨いて、磨いて、磨き抜いてからにしてくださいということです。
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