私たちは、何とかわかるようにしたいと精一杯教材研究をし、子どものために努力をしている。授業の前にかなりの時間を費やして準備をする。授業になるとこの準備を生かそうと子どもに「わかった?」と聞きながら丁寧に説明をする。そんな姿を多く見かける。しかし、これだけでは、教師主導型の一方的な授業になってしまう。子どもが作り上げる授業にするには、子どもたちが「何を教えてくれるのか?」という待ちの姿勢ではなく、「~を学ぼう。」と攻めの姿勢にしなければならない。つまり、「わかりたい。」という思いを持ちながら自分で考え、判断してわかることやできることを獲得しようと努力する子どもに育てることになる。
そのためには、練り合う場が必要になる。「あなたはどう思うの?」と問われる場を設け、自分の立場を明確にすることで、「わかる自分なのか。」「わからない自分なのか。」を自覚することになる。このとき、わからない自分だとわかったら、「わからない」と自ら言えることが重要だ。黙っていては、力にならない。わからないと話せるのは、「わかりたい。」と訴えていることになる。説明を聞き、わかることもあるが、自分のわかるまでの道筋に合わなければ、いくら説明を聞いてもわかることにはならない。自分のわかる道筋は、他人にはわからない。「わからない」と言った事を説明してくれると少しわかったと言うことになる。つまり、これは山を登るように一歩一歩わかるための道を自分で登っていくことになる。この時、「わからない」を言い続けていると、わかっている側は、わかりやすい説明の仕方に変えていく。
・ゆっくり話す。
・確かめながら少しずつ話す。
・具体物を使って話す。
・例を使って話す。
・絵や図を使って話す。
・黒板を使って話す。
・繰り返して話す。
・結論を言ってから話す。
・箇条的に話す。
・見方を変えて話す 等
だから、「わからない。」ということは恥ずかしいことではない。新しい考えや説明の仕方を豊かにするきっかけを作ることになる。
これが、教師が子どもたちに一斉に説明していても力を付けることにはならない理由だ。練り合いの中で子ども自らが説明をするために様々な方法を考えて、自ら説明することでより確かに「わかる」を獲得することになる。
「わかった?」と質問して、「はい。」ではわかったことにはならない。わかったことを説明できれば、わかったことになる。
「どうしてわからないの?」と子どもを攻めてもわかるようにならない。「はい」と言ったときに、「説明してごらん。」と言わせてみるといい。説明できるところが、わかったところで、説明できないところがわかってないところになるから、説明できないところを話し方を変えてよりわかりやすく説明すればよいだけだ。そして、また、わかったことを説明させればよい。次第にわかったことの説明がうまくなっていくはずだ。
だから、子どもたちに力をつけるためには、子どもたちで練り合わせる場をつくるだけでなく、「わからない」が言える集団にすることだ。
わかっている子だけで授業が進んでいくうちは、質を高めることはできない。「わからない。」と言う子がいるから、質が高まる。
これは、バリアフリーに似ている。どの子もわかるためには、困っている子どもに焦点が当たる授業を目指すことになる。教師は、「どの子も本当にわかっているのか。」と疑い、嘘やごまかしを見過ごさない鋭い眼差しをいつも子どもたちに浴びせることになる。これができると子どもたちは、「うちの先生は、わかるまで許さない、厳しい先生だ。」と言わせることになる。
「みんなでわかるようしよう。」「みんながわかるようにしたい。」・・・・これは、「自分さえわかればいい。」と考えている多くの子どもたちには何の意味があるのかわからないことだ。しかし、一人一人がわかる道筋を明らかにしていく営みの中でみんなの前で説明したり、わからない子を支えていこうとする中で、役に立った自分やよりわかりやすく説明できる自分を感じることになれば、必ずこの気持ちが芽生えてくる。学習集団の質は、子どもたちの学習に向かう構えできまる。「みんなでわかるようにしよう。」という学習集団にするためにどれだけ役に立った自分やよりわかりやすく説明できる自分を自覚させるかが教師の腕の見せ所になる。これには、学習姿勢を育てる指導が欠かせない。
そのためには、練り合う場が必要になる。「あなたはどう思うの?」と問われる場を設け、自分の立場を明確にすることで、「わかる自分なのか。」「わからない自分なのか。」を自覚することになる。このとき、わからない自分だとわかったら、「わからない」と自ら言えることが重要だ。黙っていては、力にならない。わからないと話せるのは、「わかりたい。」と訴えていることになる。説明を聞き、わかることもあるが、自分のわかるまでの道筋に合わなければ、いくら説明を聞いてもわかることにはならない。自分のわかる道筋は、他人にはわからない。「わからない」と言った事を説明してくれると少しわかったと言うことになる。つまり、これは山を登るように一歩一歩わかるための道を自分で登っていくことになる。この時、「わからない」を言い続けていると、わかっている側は、わかりやすい説明の仕方に変えていく。
・ゆっくり話す。
・確かめながら少しずつ話す。
・具体物を使って話す。
・例を使って話す。
・絵や図を使って話す。
・黒板を使って話す。
・繰り返して話す。
・結論を言ってから話す。
・箇条的に話す。
・見方を変えて話す 等
だから、「わからない。」ということは恥ずかしいことではない。新しい考えや説明の仕方を豊かにするきっかけを作ることになる。
これが、教師が子どもたちに一斉に説明していても力を付けることにはならない理由だ。練り合いの中で子ども自らが説明をするために様々な方法を考えて、自ら説明することでより確かに「わかる」を獲得することになる。
「わかった?」と質問して、「はい。」ではわかったことにはならない。わかったことを説明できれば、わかったことになる。
「どうしてわからないの?」と子どもを攻めてもわかるようにならない。「はい」と言ったときに、「説明してごらん。」と言わせてみるといい。説明できるところが、わかったところで、説明できないところがわかってないところになるから、説明できないところを話し方を変えてよりわかりやすく説明すればよいだけだ。そして、また、わかったことを説明させればよい。次第にわかったことの説明がうまくなっていくはずだ。
だから、子どもたちに力をつけるためには、子どもたちで練り合わせる場をつくるだけでなく、「わからない」が言える集団にすることだ。
わかっている子だけで授業が進んでいくうちは、質を高めることはできない。「わからない。」と言う子がいるから、質が高まる。
これは、バリアフリーに似ている。どの子もわかるためには、困っている子どもに焦点が当たる授業を目指すことになる。教師は、「どの子も本当にわかっているのか。」と疑い、嘘やごまかしを見過ごさない鋭い眼差しをいつも子どもたちに浴びせることになる。これができると子どもたちは、「うちの先生は、わかるまで許さない、厳しい先生だ。」と言わせることになる。
「みんなでわかるようしよう。」「みんながわかるようにしたい。」・・・・これは、「自分さえわかればいい。」と考えている多くの子どもたちには何の意味があるのかわからないことだ。しかし、一人一人がわかる道筋を明らかにしていく営みの中でみんなの前で説明したり、わからない子を支えていこうとする中で、役に立った自分やよりわかりやすく説明できる自分を感じることになれば、必ずこの気持ちが芽生えてくる。学習集団の質は、子どもたちの学習に向かう構えできまる。「みんなでわかるようにしよう。」という学習集団にするためにどれだけ役に立った自分やよりわかりやすく説明できる自分を自覚させるかが教師の腕の見せ所になる。これには、学習姿勢を育てる指導が欠かせない。