満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

 JESSE JOHNSON 『Verbal Penetration Vol. 1 & 2』

2010-01-26 | 新規投稿

ミネアポリスサウンドの特徴はその代表格であるプリンスの音楽絵巻じみた大作志向や複雑怪奇な物語性を剥ぎとったもので、むしろその楽曲をスリムにしたハイセンスでタイトなポップファンクであると思っている。その意味でザ・タイムやそのメンバーであるモーリスデイやジェシージョンソン、ジャム&ルイスの一連のプロデュース作品、或いは少しポップに寄りすぎるがシーラEなどにそのサウンドの特質が求められる。更にミネアポリスサウンドに近い先達としてキャメオや後期アイズレーブラザーズ、また、オハイオプレイヤーズ等のクールファンクは‘プリンス一派’に連なるネオ・ファンクを形成するものとして認識される。これらのアーティストに共通する点はエレクトリックと肉体性の不可分なバランスによってシンプルなリズムが奏でられ、横に流れるグルーブの揺れが垂直なビートに収束されるような独特の音の間を確立した事と言えようか。そこに私はファンクからヒップホップに移行する過渡的な音楽サウンドを見る。同時にそれは80年代というシンセサイザーによるポップミュージック全般への侵食の時期がスタイリッシュ主義へと結びついた特徴とも言えるかもしれない。

そんなミネアポリスサウンドを代表するアーティストであろうジェシージョンソンの13年ぶりの二枚組作品『Verbal Penetration Vol . 1 & 2』はしかし、プリンスに勝るようなその一代音楽絵巻たるコンセプトアルバムであった。クールファンク、ジャズ、アバンギャルド、バラッド等が次々に展開されるその音楽性は正にプリンスを凌駕するほどで、しかもギタリスト、ジェシージョンソンのソロもふんだんに盛り込まれた濃厚な作品となった。いや、すごい。これは。本当に。この構築的に練られた音楽はミネアポリスサウンドから遠く離れた発展形と見るべきか。嘗てミネアポリスサウンドを象徴したザ・タイムは同時に80年代サウンドの象徴でもあったが、ジェシーの進化はそのエッセンスを基盤にしながら独自の成熟を見せた。

今となってはチープさの象徴として軽視されがちな‘80年代サウンド’は電子楽器のポップへの転用の初期段階症状としての過渡期的未成熟とされているようだが、敢えて私はそこにある種のポップミュージックの飽和と完成の時期という側面を見ている。例えばそれまでファンクの特質そのものであっただろうJ・Bの飛び散る汗が象徴した生の動性、肉体性が、80年代にスタジオに進出した電子器楽装置の音楽環境下に於いて、ファンクさえもスタイリッシュの名のもとにリズムの機械的集約が進み、肉体性を徐々に追いやる傾向が現れる。しかし、逆にそれを新たな快楽主義としたのが、ブラックミュージシャン本人達であったのだ。アフリカバンバータが‘クラフトワークはファンクだ’と言った時の違和感はむしろテクノは非―ブラックミュージックフォーマットであるという私達の常識や先入観を打ち砕き、機械のビート感さえ、内側に取り込みながら新しいグルーブを作り出すファンクの進化の兆しであったのだろう。思えばプリンスが度々、試みたクリックに同期させる生音ドラムを微妙にずらしながらドラムマシーンと同時に鳴らす方法は肉体性と電子リズムの不協和音的合致という‘現実的’ビートの生成であったような気もするし、現代人の生活に浸透し始めた電子環境の反映の萌芽とも回想できる。

同時に‘80年代サウンド’の一見、チープなシンセビートは一方で、メロディの創造の余地を残す最後の環境でもあった。以後、電子化が進むことで、より濃密で高度なテクノが進展する90年代以降に消滅した‘歌作り’の最後の期間が80年代だったのではないか。‘歌心’をも重視したミネアポリスサウンドはソングライティングの終焉期に開花した徒花であったか。しかし、ジェシージョンソンの『Verbal Penetration Vol . 1 & 2』はミネアポリスの直系サウンドの進化形として現れた。そこにあるのは90年代エレクトロニクスを通過した練り込まれたテクノビート音響と肉体性の高濃度な合致としの確信性である。それは歌メロの作り込まれ方にも顕著で、ニューソウルを下敷きにした多彩な歌声を聴かせ、味わい深い。ここまで作り込まれた作品は同じく昨年度リリースのプリンスの『lotus flow3r』に勝るとも劣らない。その姿勢はもはやマニアのそれだ。

2010.01.26


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