満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

Spanish Harlem Orchestra

2007-11-12 | 新規投稿

Spanish Harlem Orchestra 『united we swing』

サルサに関心を持ったS-KEN(田中唯士氏)が70年代半ば、ニューヨークで実感したのは、サルサミュージックを生むラテンコミュニティの強固さであり、閉鎖性だったという話をどこかで読んだ。異物が入り込めないそのコミュニティの絆。他者による音楽的アプローチさえも容易には受けつけないその純血性の維持、正統への固執という揺るぎない信仰があるようだ。芸能の継承とはそんな前提にこそ、成り立つものかもしれない。

「我々の音楽スタイルは、サルサ・ドウーラ(ハードなサルサ)と呼ばれるNYオリジナルのオールドスクール的なサウンドで、我々の先輩達が盛んに演奏していたもの」(オスカーエルナンデス / スパニッシュハーレムオーケストラ・リーダー)

真っ正面な音楽。その純血性は音に顕れる。スパニッシュハーレムオーケストラには全くノイズ的要素がない。異物感がない。これはソウルやファンク、ブルース、ジャズというアフロアメリカンの音楽との相違点のようにも感じる。中音域の異常な突出、横に揺れない一直線なビート、ダンス・ダンス・ダンスな脳天気さ、全くヒネリのない歌詞。CDの内側写真に写る13人のメンバーの満面の笑顔。
何に対しても疑いがない。無批評なのだ。だから音がざらつかない。澱みがない。濁らない。ノイズがない。全くスコーン!と縦に割ったような爽快さだけが、直球で飛んでくる。

ブロンクスのラテンコミュニティで育ったキップハンラハンが、異種配合なハイブリッドなラテンミュージックを創造し得たのは、自らの非=ラテンな血による、批評的感性のなせる業だっただろう。ポストモダンな異物感が入り込む事で彼の<ラテン>は都市音楽としての普遍性を持ち、黄色人種の私でさえ楽しめる音楽の<大衆性>を獲得していると感じる。
対し、オスカーエルナンデスは音の開放性とは裏腹にラテンという内側に向かう純正音楽だ。<ダンスミュージックだから人種を越える。誰もが踊り出す>そのグローバル性は表面的な見方。確かにこの音楽では誰もが踊り出す。白人も、黒人も。イエローも。でもそれは自分と異質な外部を体験的に味わうダンスに他ならない。違和感を楽しむ都市生活者の一時の営みだろう。それは同化ではない。それは音楽の強さの証明でもある。
結局、ハンラハンとエルナンデスは同じラテンコミュニティでの裏の顔と表の顔というサークルを形成し、決して交わることがない。両者にはかなりの距離があるだろう。

私にとってスパニッシュハーレムオーケストラはBGMにすらならなかった。音楽が強すぎる。ファニアレーベルの作品も同様の感想。この強力な音楽は中途半端な感情移入を許容しない。「普遍的なビートがあるんだから自然に体がノッてくるだろう。理屈じゃないよ、イェー!」などと言うなよ。そんな甘いもんちゃうで。これは。
音の確信性はレッドツェッペリン並か。真正面からぶちかまされる。中音域過剰は鋭角さの証し。適度な鑑賞を許さない。第九やヘビメタに頭を振って一心不乱に陶酔している奴を想像してくれ。そんな奴らがシンパシーを感じるのと同次元にあるほどの<排他的フルテンションミュージック>。それがこのスパニッシュハーレムオーケストラ。好きになって仲間に入りたいが。

2007.11.12


 


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