満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

             崔健  中共禁歌《最後一槍》演唱版

2012-01-12 | 新規投稿
               


小平がベトナムを‘しかりつける’為に始めた中越戦争をテーマにした崔健(ツイチェン)の「最後一槍」のオリジナルをyou tubeで発見。というのもこの曲は歌詞が‘反政府的’との理由で、歌が削除されたインストバージョンでしか聴けなかったナンバーなのである。セカンドアルバム『解決』(92)のラストに収められたこの‘カラオケ曲’をかつて私は一体、どんな歌が入っていたのかと想像しながら聴いていた。機関銃をイメージした効果音の後に出てくる崔健の雄大なトランペットと最後に僅かに出てくるボーカルによってそれでも充分に劇的な曲ではあったが。今回、偶然というか何気にyou tubeをあれこれめくっていたところでたどり着いたこの「最後一槍」‘演唱版’に感激。やはり、正しく入魂のロックソングであった。もう10回以上、たて続けに聴いている。素晴らしすぎる。

サードアルバム『紅旗下的蚕』(94)の衝撃を私は当時、以下のように書き記した。
<私が中国初のロックアーティストと呼ばれる崔健(ツイチェン)のサードアルバム『紅旗下的蚕(balls under the red flag)』(94)を聴いた時、そこに現代ロックの最先端を発見した。(略)曲の良さとアレンジの雄弁さ。地域後進性(ポピュラーミュージックの)を全く感じさせないそのクールでモダンな様式。しかもその精神面では欧米ロックシーンに見られる‘シニカルさ’‘ニヒリズム’が無く、(かと言って脳天気な‘前向きさ’‘ポジティブ’も存在しない)それを克服するムードに満ち溢れている。(略)『紅旗下的蚕』「には欧米的先端性と根源的なロックの良心が共存していた。(略)彼の創るリズム、メロディーが中国音楽に根ざされ、しかも多数の古典楽器を見事にバンドに吸収する力量の前で欧米の‘スタイル’としての情報はそれ程重要ではない。崔健は欧米のロックというフレームを強引に自らの土着性へ吸収し、結果として世界に共振し得る完璧なロックを創ってしまったのだ。(スタイルやムードをコピーするだけの多くの日本のロック(もどき)はこの時点で敗退するしかないだろう。)(略)『紅旗下的蚕』はストレートなロックが持ち味だった以前の作品(『一無所有』(89)『解決』(92))に比べリズムが多様化し、サウンドもヘヴィになった。しかも中国の古典楽器を多数導入した民族色の濃い出来上がりとなっている。詩は益々凄みを増し、メッセージが直線的な一方通行の主張とならず、不思議な多面性を喚起させるものとなっており、一筋縄ではいかない味わい深さにつながっている。抑圧的な検閲制度が残る中国で詩を書くと、必然的にこのような入り組んだ暗喩的、暗示的な表現になってしまうのか。そうだとしたらここでは、検閲制度そのものが逆に表現の深化に役立っているとも言えようか。皮肉ではあるが。>
「私達の青春舞曲(1994)」『満月に聞く音楽』より抜粋

『紅旗下的蚕』の衝撃は当時、私をして長征倶楽部という崔健のファンクラブに入会させるほどであった。(もっとも、すぐやめてしまったが)その共感は上記のかつて書いた文章にもあるように当時の欧米ロック(特にイギリス)のスタイリッシュ化、ニヒリズム化の蔓延との比較によるもので、私は崔健をパブリックエナミーに類する‘中国のハードコアラップ’と捉えていた。
「最後一槍」は『紅旗下的蚕』ではなく、その前作であるセカンドアルバム『解決』(92)に収められた曲である。『紅旗下的蚕』の衝撃があまりにも大きかった私はさかのぼって聴いた1st『一無所有』と2nd『解決』にサウンド的には物足りなさを感じ、それほど好きにはならなかったのだが、「最後一槍」だけはそのドラマティックなムードに何か感じるものがあった。今回、偶然にも発見した「最後一槍」‘演唱版’。これは最高ですね。

言論の不自由は表現を深化させる。
検閲とは表現者にとって創造の創意工夫を生む契機ともなり得る。
崔健はこの曲で独特の隠喩を用いた。抽象的、象徴的な言葉で書かれた「最後一槍」に実は直接的な‘反政府’の表現はない。それでも中共政府が削除したのは、彼が「中越戦争の事を歌った」と発言したからなのか。詳しい事情は分らない。いずれにしても中共はその支配の正当性を維持する方策として全ての情報を管理、検閲している。インターネット時代となった現在ではその‘削除’の為の職員を何万人と擁している。大変、御苦労な事だ。
しかし、今日、多くの中国におけるネットユーザーが隠喩的手法や当て字を用いて、検閲を巧みにかわしながら、自由なコミュニケーションや議論を沸騰させているのも事実だ。‘チベット’や‘天安門’という単語が検索機関でもヒットしない状況下で、‘天安門’を‘点亜文’に変え、‘中共’を‘忠kyo’と変換しながら削除の網の目をくぐって情報交換やニュースソースの獲得に努めているのは間違えば検挙、投獄のリスクを背負う、それこそ命がけの行為であろうか。しかしそうやってやがて’真実’に出会うのかもしれない。願わくば江沢民が90年代に施行した嵐のような反日愛国教育によって捏造された日中の現代史の虚構にも疑いの目を向けるべくアプローチしていただきたいところだが。

2012.1.11


 

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