知的障害者・精神障害者について考えよう

知的障害者施設、作業所やA型B型事業所の経験からの投稿にて、この業界に対する世間の理解を深めていきたいと思います。

相模原の障害者施設殺傷事件の死刑囚の作品展

2020年10月21日 | Weblog
今日、ある記事を見て驚きました。

あの、神奈川県相模原の障害者施設「津久井やまゆり園」で殺傷事件を起こし、死刑判決を受けた植松死刑囚が拘置所内で制作した作品が、今回東京都内で「死刑囚表現展」で展示されるようです。

「植松死刑囚が「作品」出展 都内で23日から「表現展」」
https://www.kanaloco.jp/news/social/article-274509.html

「死刑囚表現展2020」
https://www.tokyofree23.com/archives/event/%E6%AD%BB%E5%88%91%E5%9B%9A%E8%A1%A8%E7%8F%BE%E5%B1%952020



これは、死刑制度に一石を投げかける、死刑制度の廃止を訴えておられる方々が主催されているようですが、この展示会の開催やその趣旨等、様々な意見があると思います。
私は、こういう展示会があることを初めて知りました。(主に関東圏だと思います)


今回、その展示会のひとつとして、植松死刑囚の作品も展示されるということですが、内容的には、主に(上記記事から)「角2サイズの茶封筒4枚に書き連ねた「7項目の提案」など。「安楽死の法制化」「大麻合法化」「美容整形の推進」といった内容で、犯行数カ月前にトランプ米大統領候補(当時)に触発されて着想した独自の「政策」」とのこと。

記事内に、一部その”絵”も載っているが、はたしてこの展示会はどうなのだろう。


主催側の「死刑制度」の廃止についての考え方は、全く分からないわけではないですが、日本の死刑制度の元になっている法制度から、考えていかなければならないもので、これについては、また違う機会で意見を述べたいと思います。

今回思うことは、彼(植松死刑囚)の自分の犯した罪に対する考え方、反省等を考えると、この彼の実態をそのまま世間に出すことが、主催者側の意図と合っているのか?ということです。



確かに、様々な死刑囚がいると思いますが、自分自身の犯した罪に対する向き合い方は、被害者や被害者家族等を考えると、重要だと思います。

被害者家族・関係者にとっては、”死刑”でその気持ちが治まるものでもなく、中には生き続けて反省してほしいとか、死ぬまで被害者に対して償ってほしい・・・と思われる方もいると思います。

この事件では、彼自身が「死刑」を求めた結果になりましたが、その意味が、自身の行動(殺人・殺傷)が納得の上で、正当化しているような、そんな印象が強く感じられます。


そういう意味では、彼の作品は、被害者のことを思い、感じて作った作品ではなく、自身を正当化した作品になっているのでは・・・。

それを第三者が見て、「こういう考え方なのか」とか「こんな精神状況」なんだ・・・と思うことは、自由です。


ただ、本来「死刑制度」廃止を考えるならば、こういう場合は好ましくないのでは・・・?と考えます。

今回の彼の起こした事件については、もっと深く内容の検討やその意味・事件の本質等、考える必要があり、今 ここで彼の作品を見せることが、いいのか?という疑問があります。


一般の殺人事件ではなく、彼の言う「障害者」の排除等の考え方の元になるもの、そういう考え方に至る過程、世間の評価・判断等、簡単に過去の事件扱いにしないでほしいと思います。


こういう展示会を見に行かれる方もおられると思いますが、例えば、精神療法等を研究されている方には、確かにひとつの資料として重要かもしれません。また、興味本位(有名な死刑囚はどんな絵を描くのだ)という方もいると思います。

それは、あくまでも他人事だからですね。



私は、この展示会の近辺に在住していないため、おそらく行かないとは思いますが(近辺でも行かないと思います)、「死刑制度」に一石をと、単なる世間の興味本位的な部分が同居しており、特に今回の彼をその中に含めることが、はたしていいのかどうか?と考えます。


世の中には、いろいろな考え方の人がいるとは思います。

多様性を認めるという、最近の考え方には、全肯定はしませんが、もっと内容の精選ということも考える必要もあると思います・・・




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高齢者の運転について思うこと。

2020年10月16日 | Weblog
今回は、障害者関係の記事ではありませんが、昨年の4月に東京・池袋で起きた暴走事故の事件、89歳で運転中に暴走し、死傷者を出した件で、自身は無罪を主張しているとのこと。これについて、思うところがあり投稿しました。


被告が「無罪」を主張するのは、あくまでも権利であり、それについては何も言いませんが、まずは事故については、どんな欠陥車であれ正常な車であれ、自分が使っていた道具が、自分の使用中に事件を起こしたことは、間違いなく事実です。そこは、絶対に認めないといけない。

物というものは、絶対がありません。100万分の1であれ、欠陥により異常行動が起きる可能性は0ではないとは思います。


そういう意味では、「車に欠陥が・・・」と主張するのは、問題ないと思いますが、それは主張する先が違うということですね。

「私が、正常なのに、車がこういう事件に・・・」というなら、車会社に訴えるものであり、今回の事件で自分は「無実」だと主張するのは、筋が違います。


確実な事実は、自分がどんな状況やその自身の管理下において使用していた物が、引き起こした事件は、絶対に否定出来ないからです。それを否定し、「無実」を訴えるのはおかしい。

そこは、まず自身の起こした事件であることを認めて、謝罪し、罰を受けることは、この世の中に生きている限り、ルールであると思います。


そのうえで、「今回の事件は私(被告)にも罪はありますが、私の使用していた”物”は欠陥品だったかもしれません・・・」と訴えるのは自由です。


いろいろ、世間では、家族がどうとか、本人が「上級国民」だとか、そんなある意味どうでもいい話がありますが、今までこの世の中で生きてきて、様々な恩恵もあり、様々な苦労もあったとは思いますが、それに対する感謝の念も何もないのが、不思議ですね。また、他人に迷惑をかけた意識は、必ず持ち合わせる必要があると思います。

それは、私も常に自分の子供にも、「人に迷惑をかけてはいけない」ことを言ってきました。知らないところで、迷惑をかけているときもあるかもしれませんが、自分が分かる範囲内なら、それは素直に謝罪します。


高齢者だから・・・というのは、理由になりません。

むしろ、高齢者ならば、こういった場面では、素直に世間に従い、人様に迷惑をかけたら、謝る・・・ということを諭す役割にあるのでは・・・と思います。



実は、私の車も数年前に暴走した事実があります。その際は、幸いにも、周りに人はいなくて、自分の車だけが壊れただけでした(突っ込んだのは、向かいの石の壁だったため、それはかすり傷もつかずに、自分の車の前が大破しました(そのまま廃車でした)。後から、自動車会社で、自車のエンジンのコンピュータ解析がありましたが、「暴走」「アクセルを踏んでいた」という記録しかなかったようです。

実は、これは友人宅での事件で、友人も観ていましたが、実際、車が異常状態で、自分が車から降りても、勝手にアクセルが上がり、エンジンが暴走していました。(もちろん、アクセルを踏んでいる人間は乗っていません)

そして、(そのときエンジンを切る・・・という選択肢はあったのですが)なんとかその状態の車を止めようと、乗ったとたん(サイドブレーキを解除)、私を乗せた状態で暴走、石の壁に突っ込みました。

その状況を友人も観ています。(私の判断ミスでした。すぐにエンジンを切ったらよかったと、後で後悔しました)



その後、自動車会社からは、高齢だから(その時点で58歳)、アクセルとブレーキを踏み間違えたのでは・・・?と言われました。乗ってないのに、異常にエンジンが高回転する車・・・?? 明らかに、この時点では欠陥車です。

もし、その際、突っ込んだ先に、不幸にも人がいて事故になれば、それは私の事故であると素直に認めます(それは確実に私の意思とは関係ない行動をした車でもありますが、私の管理下にあった事実は確かだからです)。


この冒頭の事件が起きた際、私は自身の車の件を思い出しました。


当然、この事件を起こした被告も、その場では相当のショックだったでしょうし、何も考え付かなかったと思います。


しかし、あの事件以来、1年以上が経過し、ある程度落ち着いた状況で、事件についての裁判・・・となれば、冷静に「あれは、自分がどんな状況であれ、運転していた車が起こしたもの」という認識を持つのが本当です。

この時点で、「無罪」を主張するのは、今までの自分の人生を全否定する意味もあると考えますが・・・


なんか、「高齢者」とひとくくりされるのは、他の高齢者も嫌な感じですね。今回の事件はあくまでも、その当事者自身の性格や生き方、考え方の問題ですね。





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福祉職の退職後の関わり方は・・・

2020年10月09日 | Weblog
久しぶりの投稿になります。2か月ぶりくらいかな・・・?


福祉業界から離れて、約3か月・・・、一応再就職は目指しており(生活出来ない)、就職サイト等に登録し、活動をしていますが、この時期(今年は特に)はなかなか難しいですね。


ありがたいことに、いくつかの事業所からお誘いもあるのですが、少し自宅から距離があることや、業界から少し離れた分野(あまり経験がない)等がほとんどで、「残念ながら、申し訳ないです・・・」とお断りしています。


先日、元知的障害者入所施設時代の同僚(同じ年齢)が、突如亡くなられたという知らせを聞き、ちょっとショックを受けていました。
同じ歳ということもありますが、25年以上一緒に中間管理職で、一緒に悩みながら頑張ってきたこともあり、施設の基礎を作ってきたメンバーだけに、今後の施設の行く末に不安も残ります。


まあ、そんなこともあり、この業界での関わり方について、考える機会がありました。



数年前頃から、退職の年齢もすこしずつ上がり、それまで定年が60歳だったのが、65歳になったり、事業所や法人の方針が認めればそれ以上の在籍も可能・・・ということになってきました。

まあ、私ら60歳代中ばの高齢者にとっては、ありがたいことに違いありません。(再就職の壁も低くなってきました)


周りを見てみると、福祉業界ではなく、役所での福祉関連の業務を行ってきた方や別分野の方が、退職後に福祉関係のお手伝いを・・・と関わられている方がおられます。

一応、専門的な知識や資格も必要なのですが、それ以上に関わっていただくことで、より深い理解や、前向きに進める状況が出来ます。

特に、先を見越して進まれている事業所や施設等は、管理職がそういう意識が強く、いい意味で、そういう方々との関係が良好に保たれているようです。



私も、様々な経験を元に、いくつかの新規事業所の立ち上げのお手伝いもしてきました。また、事業所等の進捗状況が悪い場合も同様です。

こういう業界は、経験がある意味、物を言います。(もちろん、培ってきた知識や体験してきたこと等、多くの障害者と関わってきたことで、考え方・感じ方を深めること、いろんな意味合いがありますね)

そのためか、私のように還暦を過ぎても、まだお手伝いを・・・と依頼があるのは、ホントに嬉しいですが、
現場の若い管理職の方は、実際はそうではないようです。

ある程度年齢を経た経験のある管理職の方は、そういった方の重要性を理解していますが、逆に若い方(30歳前後)は、自身の経験は少ないものの、そのやり方が(今は)正しい・・・と勘違いしている部分が多いですね。

ウェブ系やIT系の事業なら、柔軟な新たな感覚を持った方が重要視されます。それは正しいと思います。古い考え方で、押し通してもいい方向性は見つけられません。(今の政治家がそうですね)


しかし、福祉業界では、その部分が逆ですね。

確かに、障害者関係も、年々新たな考え方や見方、対応方法や支援方法のやり方が変わってきているとも思いますが、あくまでも今までの経験の上にたって行うことでもあります。(その中には失敗の経験もあります)

特に、現場を理解しない管理職は、そういう部分で、自分たちの若い新たなやり方が正しいと考え、進めているようです。


私が実際に関わらせていただいた事業所・法人もそういう面が、多々見られました。(それで長続きしなかったかも・・・)


27年半、入所施設を退職した(させられた)後は、10か所ほどの事業所・法人を経験しました。退職後のほうが、様々な世間が見えてきました。また、知り合いも増え、当時よりも”顔”で仕事が出来るようにもなりました。



私の友人などは、福祉業界の関わりも、週3,4日程度におさえて、深くなく軽くない感覚で、接しています。

私も、もう少し、この業界で関わりたいと思いますが、友人と同じような感覚で、接するのがいいかも・・・と考えています。と言っても、後数年ですが・・・。

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