長らく更新をサボってしまいました。
特別な理由はありません。
僕が前回の日記に「風邪」と書いて、それきりなので中には心配してメールを下さった方もありますが、全然大丈夫です。僕は至ってぴんぴんしていますし、風邪というのも実は風邪ではなくて単なる寝不足だったようです。それも作業に追われた結果の寝不足ではなく、ややルナティックに遊んでしまった結果の寝不足であり、全体に人から心配されるにまっとうな要素というものはどこにも存在していません。現に次の日は朝から鍋まつりなる平和なイベントに出かけました。更新の断裂は放蕩と怠惰の一介なる産物です。
もちろん、サボタージュの間にも色々なことが起こりました。プライベートな点においても、そうでない点においても。当然ですが、プライベートなことというのはこのブログにはほとんど書かれません。プライベートなことというか、プライベートとして守りたいことは。プライベートであっても別に吹聴して回ったって構わないようなことは書いています。考えてみたら僕はここに僕の考えたり想ったりしたことを僕自身が個人的に書いているので、プライベートでないことは書くことができないですね。全部いプライベートだ。不特定多数の人に聞いてもらいたいか、そうでないかということです。
この数週間で起こった、極々個人的な、しかし別に人に言いふらしてもいい変化というのは、「村上春樹さんが終わった」ということです。なんとも驚いたことに、急に村上春樹さんの書いた文章を受け付けなくなりました。ほんとうに驚いたことに。でも、考えてみればしばらく前にこのブログで「村上春樹さんの文章は思考停止を誘発する」といったようなことを僕は書いた記憶があるので、その頃から受け付けなくなる傾向はあったのかもしれません。
それまで好きだったものが急に好きでなくなる、というのはよくあることですが、なんとも不思議なものです。好きではない、というのは言いすぎで、村上さんが特別な存在であることは変わらないけれど、でももう多分読まない、ということなのですが、これは寂しくもどこか開放感に似たものを僕に与えてくれました。「やっとだ」という思いが心の底のほうにあります。
ブログを書かないでいた間、本当はいくつの記事を書いてはいました。テレビシステムの話だとか、イルカの話だとか、核武装の話だとか、実はそれなりにコンスタントに更新を行うことはできたのです。ただ、全部書き終えてから、「何かしっくりこないなあ」と思って消してしまいました。
もっと言えば、書き終えてからしっくりこないと思ったのではなくて、たぶん書いている最中からしっくりこないと思っていたのだろうと思います。作文をしているときにしっくりこない一つのセンテンスを書いてしまって、それをしっくり来るように直せないまま後を続けていくと、まるで嘘をついてしまってそれをさらに嘘で塗り固めていかなくてはならないときのように、しっくりこない文章が続いてしまい、最終的に自分とはかけ離れた場所にいきついてしまいます。こういったことが立て続けに起こっているときは、「この作文だって僕が書いたのだから」とそれはそれで良し、にしてしまうか、「これはなんか嫌だ」と破棄するしか方法がありません。そして、こいうったことが続いているときにはエッセーみたいな書き方で作文を行うことはあまり有望ではないのだと思います。こういうときは小説を書くしかない。
「ジェロニモから届いたビデオテープを見たか?」
男は低い声で言った。気のせいか、僕にはその声は作られた低い声に聞こえた。本当はもっと高い声をしているのだけど、舐められないように低い声を出しているのだ。
テレビで利根川進さんが行った講演会の様子が流れていた。僕は別に講演内容に興味はなかったけれど、彼の話しかたが面白かったのでしばらく眺めていた。利根川さんはアメリカが長いせいか、英語は堪能だけど、日本語はやや不自由といった具合に見えた。聴衆は普通の日本人の中高年で、なるべく分かりやすく話す必要があると思うのだけど、彼の使う言葉は英単語が多すぎるし、パワーポイントは全部英語だった。言葉に英語が多いと言うのは、「このファンクションがトランスフォームしてですね。このレサルトがコンクリュージョンに出てくるわけです」というような感じで、純粋な日本語としては崩壊していると言わざるを得ない。なんてひどい講演だろうと思った。
ただ、僕は横文字を使うこと自体には賛成です。多すぎるのはどうかと思うけれど。
別に日本語で書けばいいのに、いちいち横文字言葉を使って嫌味ったらしい、という批判が時々あって、僕も何度か言われたことがあるのですが、でもそんなのは全く見当はずれな意見に過ぎない。よその国の言葉に存在する概念が日本語にも存在するとは限らないし、そんなときはその言葉をそのまま流用するしかない。もちろん新しい対応語を作るのも手だけれど、それがいつもうまく機能するとは限らないし、どうせ未知なる新しい言葉であることには変わりない。
それにわざわざカタカナ言葉を使わないと表現できないことだってたくさんある。たとえば、「日本語で言えばいいのにカタカナ言葉で言われたときの嫌らしさ」というのは、日本語で言えばいいようなことをわざわざカタカナ言葉で言う、ことによってしか表現できない。
特別な理由はありません。
僕が前回の日記に「風邪」と書いて、それきりなので中には心配してメールを下さった方もありますが、全然大丈夫です。僕は至ってぴんぴんしていますし、風邪というのも実は風邪ではなくて単なる寝不足だったようです。それも作業に追われた結果の寝不足ではなく、ややルナティックに遊んでしまった結果の寝不足であり、全体に人から心配されるにまっとうな要素というものはどこにも存在していません。現に次の日は朝から鍋まつりなる平和なイベントに出かけました。更新の断裂は放蕩と怠惰の一介なる産物です。
もちろん、サボタージュの間にも色々なことが起こりました。プライベートな点においても、そうでない点においても。当然ですが、プライベートなことというのはこのブログにはほとんど書かれません。プライベートなことというか、プライベートとして守りたいことは。プライベートであっても別に吹聴して回ったって構わないようなことは書いています。考えてみたら僕はここに僕の考えたり想ったりしたことを僕自身が個人的に書いているので、プライベートでないことは書くことができないですね。全部いプライベートだ。不特定多数の人に聞いてもらいたいか、そうでないかということです。
この数週間で起こった、極々個人的な、しかし別に人に言いふらしてもいい変化というのは、「村上春樹さんが終わった」ということです。なんとも驚いたことに、急に村上春樹さんの書いた文章を受け付けなくなりました。ほんとうに驚いたことに。でも、考えてみればしばらく前にこのブログで「村上春樹さんの文章は思考停止を誘発する」といったようなことを僕は書いた記憶があるので、その頃から受け付けなくなる傾向はあったのかもしれません。
それまで好きだったものが急に好きでなくなる、というのはよくあることですが、なんとも不思議なものです。好きではない、というのは言いすぎで、村上さんが特別な存在であることは変わらないけれど、でももう多分読まない、ということなのですが、これは寂しくもどこか開放感に似たものを僕に与えてくれました。「やっとだ」という思いが心の底のほうにあります。
ブログを書かないでいた間、本当はいくつの記事を書いてはいました。テレビシステムの話だとか、イルカの話だとか、核武装の話だとか、実はそれなりにコンスタントに更新を行うことはできたのです。ただ、全部書き終えてから、「何かしっくりこないなあ」と思って消してしまいました。
もっと言えば、書き終えてからしっくりこないと思ったのではなくて、たぶん書いている最中からしっくりこないと思っていたのだろうと思います。作文をしているときにしっくりこない一つのセンテンスを書いてしまって、それをしっくり来るように直せないまま後を続けていくと、まるで嘘をついてしまってそれをさらに嘘で塗り固めていかなくてはならないときのように、しっくりこない文章が続いてしまい、最終的に自分とはかけ離れた場所にいきついてしまいます。こういったことが立て続けに起こっているときは、「この作文だって僕が書いたのだから」とそれはそれで良し、にしてしまうか、「これはなんか嫌だ」と破棄するしか方法がありません。そして、こいうったことが続いているときにはエッセーみたいな書き方で作文を行うことはあまり有望ではないのだと思います。こういうときは小説を書くしかない。
「ジェロニモから届いたビデオテープを見たか?」
男は低い声で言った。気のせいか、僕にはその声は作られた低い声に聞こえた。本当はもっと高い声をしているのだけど、舐められないように低い声を出しているのだ。
テレビで利根川進さんが行った講演会の様子が流れていた。僕は別に講演内容に興味はなかったけれど、彼の話しかたが面白かったのでしばらく眺めていた。利根川さんはアメリカが長いせいか、英語は堪能だけど、日本語はやや不自由といった具合に見えた。聴衆は普通の日本人の中高年で、なるべく分かりやすく話す必要があると思うのだけど、彼の使う言葉は英単語が多すぎるし、パワーポイントは全部英語だった。言葉に英語が多いと言うのは、「このファンクションがトランスフォームしてですね。このレサルトがコンクリュージョンに出てくるわけです」というような感じで、純粋な日本語としては崩壊していると言わざるを得ない。なんてひどい講演だろうと思った。
ただ、僕は横文字を使うこと自体には賛成です。多すぎるのはどうかと思うけれど。
別に日本語で書けばいいのに、いちいち横文字言葉を使って嫌味ったらしい、という批判が時々あって、僕も何度か言われたことがあるのですが、でもそんなのは全く見当はずれな意見に過ぎない。よその国の言葉に存在する概念が日本語にも存在するとは限らないし、そんなときはその言葉をそのまま流用するしかない。もちろん新しい対応語を作るのも手だけれど、それがいつもうまく機能するとは限らないし、どうせ未知なる新しい言葉であることには変わりない。
それにわざわざカタカナ言葉を使わないと表現できないことだってたくさんある。たとえば、「日本語で言えばいいのにカタカナ言葉で言われたときの嫌らしさ」というのは、日本語で言えばいいようなことをわざわざカタカナ言葉で言う、ことによってしか表現できない。