S&W M10の固く短い銃身を私は口蓋に突っ込んで両手の親指を引き金に掛けた6発装填のリボルバーには一つだけ弾が入っているこういうのは昔の映画やドラマで良く見たしロシアンルーレットという名前のゲームだということも知っているでも自分がいつかこういう風に本物の拳銃を使ってこのバカの極みみたいなゲームをすることになるとは思ってもいなかった私は別にスリルが欲しいからこんなことをしているわけではないただあの男がそうしろと言ったのだそうしないと私は捨てられてしまうらしいだから私は今本物の拳銃を口に咥えている男の命令でこんなことをするなんて私の方がよっぽどただの馬鹿だと思うかもしれないでも私はあの男がいない人生を生きていくなんて想像もできないしそれならどうせ死んだ方がましだと思っている引き金を引くと6分の1の確率で銃弾が私の脳髄を破壊するというのは嘘だ実際に銃を口に突っ込んでみればそんなのはすぐに分かる6分の1なんて数字にはなんの意味もなくてあるのは死なないか死ぬの二つで確率は2分の1で私がこの親指を引いたら私は死ぬかもしれないし死なないかもしれないでも死ぬとしても死んだら死んだなんて分からないんだから私は死を体験しない死んだらあの男にもう逢えなくなるのが嫌だなと思うけれどそれも死んだら思わないわけだし本当ところはどうでもいいのかもしれないなとも思うあるのは生きてあの男に私はちゃんと拳銃を口に突っ込んでロシアンルーレットしたのよと報告できるという事だけなのかもしれないそしたらあの男は私の髪を撫でて褒めてくれるかもしれないそうなのよ別に何の心配もいらないんじゃないのじゃあって私が引き金を引いたらカチッと音がしてそれだけで私は無事だった死ななかったし脳ミソも吹っ飛ばなかったヤッターってでも別に思わなかった。
私は冷蔵庫から烏龍茶を出して一口飲むと、あの男とはもう絶対に会わないことに決めた。
なぜなら、私は引き金を引いた時点でどっちみち死んだも同然だからだ。
それは死よりもなお悪かった。
多くの場合、それは敗北と呼ばれる。
2011年6月23日木曜日。
結局のところ情報不足のまま、なんだか分からないままに高速増殖炉もんじゅの作業は行われた。
作業が失敗すると関西とかもっと広域に渡る地域が駄目になるかもしれない、という話があって、たくさんの人がネット上では心配だと言っていた。
翌日、作業は無事に終わったとの報告が出た。
無事で良かったね、という声がネットを駆け廻り。僕はそれでも結局日本という国はもう死んでしまったような気がしていた。世界的に大ヒットしたアメリカABCのドラマLOSTは、飛行機事故で死んでしまった人達が死んだことに気づかないで繰り広げていた物語、とも解釈されるものだったが、それと似たような状況に日本が陥っている気がした。僕達は全員23日に死んでいて、ただそれに気付かない亡霊として共有された幻想を生きているみたいだと。
これは自戒と自己嫌悪を含めて書くけれど、誰が本気でもんじゅのことを心配していたのだろう。誰もしてなかった。もしも本当に心配で事故があれば関西を失うという危機感があったのなら、敦賀に乗り込んで作業の本当のリスクを調べ尽くし、場合によっては暴力的にでも作業を止めるという判断が必要だった。でも誰もそんなことしなかった。僕はしなかった。心配しても仕方ないとか言ってみんな普通に暮らしてた。
3.11以前と、実は何も変わってない。
情報が大事だとか、知ることが大事だとか、もんじゅやばいとか、作ったやつはバカだとか、怖いとか、心配とか、関西終わったとか、そういう盛大な井戸端会議でお祭り騒ぎをして遊んでただけだった。ごっこ遊びだった。日本が終わるかもしれないという”ロマン”の共有だった。
知ることが大事(知っても何もしないけれど)!
私は調べました(ネットで検索しただけだけど)!
私は情報を伝えます(私は伝えたから実行は誰か他の人がやってね)!
現場以外では原発問題が酒の肴でしかないという現実は現実ではなくて、だから共有された死後の幻想なんだと思う。
私は冷蔵庫から烏龍茶を出して一口飲むと、あの男とはもう絶対に会わないことに決めた。
なぜなら、私は引き金を引いた時点でどっちみち死んだも同然だからだ。
それは死よりもなお悪かった。
多くの場合、それは敗北と呼ばれる。
2011年6月23日木曜日。
結局のところ情報不足のまま、なんだか分からないままに高速増殖炉もんじゅの作業は行われた。
作業が失敗すると関西とかもっと広域に渡る地域が駄目になるかもしれない、という話があって、たくさんの人がネット上では心配だと言っていた。
翌日、作業は無事に終わったとの報告が出た。
無事で良かったね、という声がネットを駆け廻り。僕はそれでも結局日本という国はもう死んでしまったような気がしていた。世界的に大ヒットしたアメリカABCのドラマLOSTは、飛行機事故で死んでしまった人達が死んだことに気づかないで繰り広げていた物語、とも解釈されるものだったが、それと似たような状況に日本が陥っている気がした。僕達は全員23日に死んでいて、ただそれに気付かない亡霊として共有された幻想を生きているみたいだと。
これは自戒と自己嫌悪を含めて書くけれど、誰が本気でもんじゅのことを心配していたのだろう。誰もしてなかった。もしも本当に心配で事故があれば関西を失うという危機感があったのなら、敦賀に乗り込んで作業の本当のリスクを調べ尽くし、場合によっては暴力的にでも作業を止めるという判断が必要だった。でも誰もそんなことしなかった。僕はしなかった。心配しても仕方ないとか言ってみんな普通に暮らしてた。
3.11以前と、実は何も変わってない。
情報が大事だとか、知ることが大事だとか、もんじゅやばいとか、作ったやつはバカだとか、怖いとか、心配とか、関西終わったとか、そういう盛大な井戸端会議でお祭り騒ぎをして遊んでただけだった。ごっこ遊びだった。日本が終わるかもしれないという”ロマン”の共有だった。
知ることが大事(知っても何もしないけれど)!
私は調べました(ネットで検索しただけだけど)!
私は情報を伝えます(私は伝えたから実行は誰か他の人がやってね)!
現場以外では原発問題が酒の肴でしかないという現実は現実ではなくて、だから共有された死後の幻想なんだと思う。
三島由紀夫レター教室 (ちくま文庫) | |
三島 由紀夫 | |
筑摩書房 |
お伽草紙 (新潮文庫) | |
太宰 治 | |
新潮社 |
原発をどうにかするとかいう事柄は
政治的な事だ
政治的な問題というのは
実際に社会を変えないと何の解決にもならない
正答を出したところで社会は変わらない
多くの社会参加の実践が必要になる
実践には意識の改革と現状把握・情報が必要
目の前に危機が迫ってるかもしれないけど
少しずつしか歩めない
人間の存在は無力かもしれない
そんなとこからでもよりよい歩みを目指すしかない
そのために知見と思考と勇気とバランスを武器にして
宿命を受け入れて生き抜いていかないといけない
そういうポジティブな(シンキングではない)アティチュードの重要性が極大に高まってる時代の宿命の中で
ボク達は生きている
ずっと気を張り詰めている事はできないし
個人やある組織の出来る事はしれている
気分的には激烈な抵抗であっても
本当にやれる事はたいしたことなくても
そういうアティチュードで共闘していく
そこにしか希望は見出せない
グダグダやってるのも閉鎖系でなく
開放系でやるのは無意味ではない
そのぐらいの実践からしか始めないとね
”ずっと気を張り詰めている事はできないし
個人やある組織の出来る事はしれている
気分的には激烈な抵抗であっても
本当にやれる事はたいしたことなくても
そういうアティチュードで共闘していく”
分かっているつもりなのに、短気で即効性を求めてしまって、投げやりになっていました。。。
先日の株主総会だってそうですが、もうイライラするばかりで、よもやここまで滅茶苦茶だとは311以前思ってなかったです。